修学旅行というものは学生生活において特別大きなイベントのひとつだ。
 香村健臣(こうむらたけおみ)が通う高校の修学旅行は二年生の十月に二泊三日で行われる。行き先は定番中の定番ではあるが、京都と奈良を巡るコースとなっていた。中には中学校時代に行ったからもう行く場所も無いなどと文句を言う者もあったが、ほとんどの生徒が楽しみにしていただろう。
 修学旅行初日は京都の大定番観光スポットである清水寺からスタートとなった。
 各クラスに分かれ、ガイドに案内されながら事前に配られた旅のしおりを捲りつつ初秋の清水の舞台を観光する。残念ながら紅葉の季節にはまだ早く大舞台から見えるもみじの葉は未だ青々としていたが、暑すぎた夏を思えば抜けるような青空の下で心地よい風が吹き抜ける中で清水の舞台から見える景色は、まるで時間が止まったかのような静寂と、歴史の重みが染み込んだ空間が広がっていた。
 眼下には、緑豊かな山々が連なり、季節ごとに異なる彩りを見せるのだろう。きっと十一月に入れば紅葉が山を染め上げ、まるで錦織のような美しい風景が広がるに違いない。
 遠くには、京都の街並みが広がり、その中に古い寺院の屋根や、近代的な建物が調和するように並んでいる。
 清水の舞台に立つと、その高さと広さに圧倒される。木製の柱と床板がしっかりと組まれ、長い年月を経てもなお、力強く支えている。その場に立つだけで、まるで歴史の一部になったような感覚に包まれた。
 風が頬を撫でると清々しい気持ちが広がる。その風は、遠い昔から多くの人々が感じてきた風と同じなのかもしれない。
 舞台からの眺めを楽しんでいると、不意にパシャリとシャッターが切られる音がして香村はそちらへと振り返った。明るい色に染め上げた柔らかそうな髪を風に靡かせて、廣川七瀬(ひろかわななせ)がなにやら本格的な一眼レフカメラを構えてレンズを香村へと向けていた。
「廣川君、なにしてんの」
「深緑と香村が絵になるな~って思って」
 廣川が覗いていたファインダーから顔を上げてへらりと笑う。
「そうじゃなくて、カメラ。自前?」
「まさか! 学校新聞用にって新聞部の奴に頼まれた。うちってほら、写真部って無いからカメラ構ったことある奴あんまいないんだって」
 そう言って彼が掲げて見せたのはミラーレスのデジタル一眼レフカメラだ。首からかけたストラップにはしっかりと学校名が書かれており、学校の持ち物らしいことがわかる。
「カメラ、詳しいんだ?」
「詳しいって程じゃないけどな。父親が趣味でやってて、ちょっと中学生の頃触った事あったってだけ」
 確か廣川は市外の中学校に通っていたが、卒業と同時に親の都合で引っ越してきて今の高校へ進学したと聞いた。そのため彼の中学時代を知っているクラスメイトは殆どいない。
「紅葉してればもっと綺麗なんだろうけどなーさすがにその時期に修学旅行ってのは現実的じゃないか」
 廣川が大勢の観光客と、自分たちのように修学旅行生であろう見知らぬ制服姿の高校生たちを見やる。随分と外国人観光客が多い。
「この時期でさえこれだけの観光客がいるからね。清水寺の紅葉は確か海外向けのガイドブックでも取り上げられたりしているらしいから、来月なんて今以上に凄い人になると思うよ」
「そんなに人数が乗って大丈夫なのか、ここって」
 廣川がそう言いながら自分の足元……清水の舞台の床板へ視線を落とす。
 舞台自体は広く、緩やかに反り返る屋根がその上を覆っている。屋根の端には優美な装飾が施され、京都の伝統的な建築美を余すところなく伝えている。柱の下を覗き込むと、その高さと規模の大きさに驚かされる。まるで巨木の森がそこに存在するかのような錯覚を覚えるほどだ。
「柱が太いから大丈夫だとは思うけどね」
「うわ、思った以上に高いねこれ! 昔はここから人が飛び降りて願掛けしたって言うけど、よくやるよ」
 清水の舞台から飛び降りる、とは思い切って大きな決断をするといった意味で使われることわざだが、実際に大願成就を願ってこの舞台から飛び降りて願掛けする者が昔は後を絶たなかった、という話を先ほどガイドの男性が説明していたところだった。廣川はそういった話をよく聞いているタイプなのだな、と香村は意外に思った。
「実際に二百人近く飛び降りたらしいよ」
「ゲッ、じゃあここめちゃくちゃ人死んでるって事?」
 廣川は周りに配慮してか、やや声を潜めてそう聞いてくる。香村は少し可笑しくなって、笑みを含みながら首を横に振った。
「実際のところ、この下って木が生い茂っていたりして生還率は八割くらいだったって……聞いてる?」
 修学旅行前に見たガイドブックに掲載されていた話を披露していれば、廣川が何故か自分の顔をじっと見つめてきていることに気づき、香村は訝しげに眉を顰める。すると廣川はにっこりと猫のように大きな目を細めた。
「今日も香村は綺麗だなーって思って」
「……話聞いてないなこれ」
「眼鏡を外したら美人がバレちゃうから一生取らないで欲しい」
「無茶言うなよ、俺だって風呂とか寝るときとか眼鏡外すよ」
「えっ! 待ってよ今夜の宿って大浴場あるらしいじゃん! やばいでしょ!」
 何がだよ、と思っていると廣川はその形の良い頭を背後から思い切り叩かれた。
「声がデケーよ七瀬」
 相変わらずピンク色の髪をゆるく巻いて、大胆に短くした制服のプリーツスカートからスタイルの良い脚を覗かせている同じクラスの女子生徒、榊原奈美(さかきばらなみ)だった。
「コームラ、こいつ変な事言ってきたら殴って良いから」
「良くねーよ! お前の凶器みたいな爪が頭皮に刺さったんだけど?!」
「凶器……」
 見れば榊原の両手は全ての爪が綺麗なグラデーションで塗られており、キラキラとした小さな石が付けられていて艶やかに光っていた。
「凄いね、榊原さんの爪」
「だろ~? アタシ結構器用なんだよね~」
「えっ、これ自分でやったの?」
「そうそう、サロンも金かかるしさあ、ジェルネイルの道具とか機材揃えてセルフネイルしてんの。たまに友達にもやってあげてる」
 予想外に豊かな才能の持ち主であった榊原に驚嘆する。ネイルといったものにこれまで興味を持ったことは無かったが、これだけ細かく美しく仕上げられる人はそう多くは無いのではないだろうか。
「ナミってこういうとこ器用だよなあ」
 後頭部を擦りながら廣川が言った。
「前は七瀬にもネイルしてやったよね。また塗ってあげよっか?」
 そう言って榊原は廣川の両手を取る。爪の形綺麗だよね、などと言いながら彼女はどの色が似あうだろうかと言っているが廣川は特にそれを振り払うでもなくされるがままになりながら派手なのは嫌だよと苦笑を浮かべた。
 おや、と香村は思う。
 廣川は何故彼女の手を振りほどかないのか。何故榊原はこうも簡単に廣川の手に触れるのか。その答えは簡単で、半年ほど前まで彼らは彼氏と彼女という関係にあったからだろう。何故別れたのかは香村は知らないが、険悪な別れ方をしたわけではなさそうだということはわかる。
――それでも、今廣川君が好きなのは俺なんじゃないのか。
 香村は握られた二人の手から視線を逸らしながら、もやもやとした不明瞭な感情の芽生えに戸惑っていた。