昼食として焼きそばと、同じく中庭に出店していた柔道部の作る具材たっぷりの豚汁とおにぎりで腹ごしらえをしてから香村は体育館へと向かう。既に大音量の音楽がかけられていて、照明にも色がつけられているようで日常とはかけ離れた空間となっている。ステージの前には制服を着た生徒のほか、様々な人々が五十人ほど体を揺らしていて香村は彼らの中へ入って行くのを躊躇していた。空気を震わせる低音のリズムの中、何故思い思いにリズムを取れるのか香村としては不思議でしかない。若干の場違い感を覚えつつ、彼らの外側でぼんやりと立ち尽くす謎の執事という良くわからない光景になってしまっていた。
 二時を少し過ぎた辺りで流れていた音楽が急に切り替わる。ステージ上には学校指定のものとは違う揃いのジャージに身を包んだダンス部が登場すると、観客たちが待っていましたとばかりに歓声を上げた。廣川を最前列の左端に見つけた香村は、普段と違い真剣な面持ちの彼の表情に目を見張る。柔らかな明るい色の髪を太いターバンで上げた様子は、なんだか知らない男のように見えた。
 音楽が流れる。流行にあまり関心の無い香村でも聞いたことのある、韓国の男性アイドルグループの曲だった。軽快なリズムの中速いテンポで彼らは自分の体を自在に使って滑らかに、時に大胆に、そして繊細に体育館のステージをエンターテインメントの舞台に作り替えてゆく。何か難しい技をしているのだろうか、時折観客が歓声を上げるが香村にはダンスの難易度などわからない。むしろ、彼らの動き全てが香村にとっては新鮮な驚きの連続であった。
 廣川の長い脚が軽やかなステップを踏む。指先が力強く握られる。その身体がバネのように跳ねて、波のようにうねるさまから目を離せなくなっていた。
 その時、廣川の鋭い視線が香村の視線と交わった。彼は一瞬だけ確かに笑って、すぐに立ち位置を移動させてゆく。
 あんな表情の廣川七瀬を香村は知らない。いつだってにこにこと陽気な男の視線ひとつで熱せられた矢に射抜かれたような衝撃に、香村は心臓がバクバクと煩く暴れているのを感じていた。

 二曲を踊り終えたダンス部は、その後アンコールによりフリースタイルのダンスを披露した後ステージを飛び入りダンサーたちに譲って降りていった。香村には結局ダンスの良し悪しは全くわからなかったし、音楽に乗れたわけでもなかったけれど初めて見る廣川の一面にまるで短距離を走り終えたばかりのように心臓が煩く跳ねたままだ。
「あ、いたいた! 香村!」
 声に顔を上げる。ターバンを外し、髪がぐしゃりと乱れたまま廣川がステージ脇から走り寄ってきた。その姿は先に想像していた通り、しっぽをぶんぶんと振って駆け寄ってくる大型犬のように見え、ステージ上とのギャップに香村の頭は少し混乱する。
「良かったー来てくれて。っていうかその髪型どうしたの、めっちゃかっこいいじゃん」
 いつもと変わらず笑顔で声を弾ませる廣川は首にかけたタオルで顔の汗を拭いながら尋ねる。様子はいつもと変わらないが、先ほどまで太めのターバンをつけていたせいで乱れ汗で貼りついた前髪は香村にとって見慣れぬ姿だ。自分の知らない姿の廣川七瀬がいることなど当たり前のはずなのに、不思議と香村の胸の中はざわざわと煩い。
「え、っと……榊原さんが。こっちの方が似合うって言って、変えられた」
「はは、ナミにやられたんだ? 確かにめちゃくちゃ似合ってる。香村はおでこまで綺麗だね」
「そんなこと初めて言われたんだけど」
 おでこまで綺麗、という彼の言葉の意味がわからない。思わず眉間にしわを寄せると廣川はくつくつと笑って廣川の眉間のしわにそっと親指の腹を触れさせた。その指の熱さに驚いてぱちぱちと瞬きをする。
「似合ってるけど、ちょーっと複雑かも。俺の香村の良さがみんなにバレちゃう」
 複雑、と言いつつも彼は笑って指を話す。触れられた眉間がまだじんわりと熱を持っているような気がした。
「別に廣川君のじゃないけど」
「えー良いじゃん俺のになってよ。お買い得だよ」
 お買い得ってなんだよ、と香村は思わず笑ってしまう。ドキドキと駆け足で急かすように跳ねていた鼓動は、まるで何事も無かったかのように平穏に落ち着いてきていた。きっと、少しだけ動揺していただけなのだ。
 笑った香村に、廣川は猫のように大きな目を細めてじっと香村の顔を見つめる。何、と問う前に彼はその表情をいつもの人懐こい笑顔に変えた。
「俺着替えてくるから、そしたら一緒に文化祭デートしようよ」
「いや、俺また戻って喫茶店の仕事あるから」
「えーうそー! せっかくこの後ラブラブデート出来ると思ったのに!」
 彼の大きな嘆きの声が体育館に響き、振り返った観客たちが香村と廣川を見てクスクスと笑っている。香村は呆れたため息をつきつつも、いつもの調子の廣川にどこかほっとしていたのだった。