俺の母親の周美雨氏は、到着予定時間に三時間ほど遅れてXanaduに到着した。正面ゲートで五代さんが出迎え、南校舎の職能訓練スペースを見学したのちに、校長室の隣の応接間で面談する流れになっている。俺はソファーの周りをぐるぐると歩き回ってみたり、一緒に待たされている弐瓶教授を揶揄ったりして時間を潰した。真っ赤になって言い返してくるのがかわいい。三時間遅れぐらいで済んでよかったな。

 「日本に居たんだし、日本語できるだろ。じゃないと父親と会話できないし」

 俺に合わせて日本語で話してくれるだろうと俺は踏んでいるのだけど、弐瓶教授からは「それは十九年前の話じゃーん」と呆れられてしまった。

 「教授とは中国語でやりとりしているんですか?」
 「広東語ね」
 「中国語?」
 「中華四千年の歴史があって、大陸はとっても広いじゃーん? この狭い日本だって、北は北海道から南の沖縄まで、いろんな地域の方言があるぐらいなんだし、そりゃあ〝中国語〟って言っても地域によって違うのん」

 日本で例えられるとわかりやすい。香港では広東語を使っているってことね。

 「でも、香港ってイギリス領だったんだし、英語もいけるんじゃあないんですか?」
 「周さんはビジネスで、こんな状況でも日本に来ちゃうぐらいには飛び回っている人だしさーあ、英語ペラペライングリッシュだろうけどけど。私がちょい前に香港にいったときには、店の人には通じなかったのん」
 「そういうもんなんですね」

 日本語でのやりとりが難しければ英語でなんとかいけそうか。大学受験レベルの英語で、なんとかなるか?
 生まれたばかりの俺をなんで見捨てたのかって、英語だとどう言えばいいんだろ。まあ、無理そうなら弐瓶教授に通訳してもらえばいいか。

 「そろそろ来るっぽいよん」

 五代さんからのメッセージが届いたようで、いよいよ面会の時が近付いていることに気付く。ややあって、扉が開いた。にこやかな五代さんに続いて、昨日出てきた写真の女性をやや老けさせた顔の女性が現れる。写真を撮影したのがいつなのかは知らないけれど、かなりフォトショップの加工が入っていたんだな。

 昨今の情勢を鑑みれば、老けたのではなくて、疲れが顔面に現れているだけかもしれない。三時間も遅刻してきたし。地球上のありとあらゆる場所に落ちた隕石により、世界経済はかの世界大戦時レベルで混乱している――らしい。他の国の話だから、他人事だよ。日本も自然災害により大打撃は受けているしさ。大変なのはお互い様だよな。どちらにせよ、原因はマヒロさんってか、あの宇宙人が首吊って死んだせいで恐怖の大王が激怒したから、ってのを知っているのは俺と弐瓶教授だけか。五代さんも知っているのかな。

 俺の実の母親が、目の前のソファーに腰掛けた。
 今から十九年ほど前に、俺をこの世に誕生させた人。

 「下晝好」

 教授がさっそく中国語っぽい言葉遣いで挨拶する。挨拶だよな? ソファーから立ち上がり、握手を求めているので、俺もお辞儀しておく。中国語だと你好だってのは俺でも知っている。これが広東語か。

 オレンジ色の瞳は教授を見据えていて、俺のほうは見てくれていない。

 「多谢你喺百忙中抽出時間」

 どのタイミングで俺は話せばいいんだろ。会話しているところに突っ込んでいくのは印象良くないよな。教授がいい頃合いで話を振ってくれるといいな。

 「我也好樂意與我嘅重要商業夥伴直接交談」
 「我要你同佢講嘢,而唔係我」

 ようやく母親が俺のほうを見てくれた。父親からは「俺には似てねぇなあ」と言われていたけれど、こうやって見ると、俺の顔の作りは母親に似ている。目の色だけではなく、なんとなく、パーツがそっくりだ。

 「我冇時間同佢講話」

 教授が失礼なことを言ったのか、母親は不快感をあらわにして立ち上がった。舌打ちが聞こえた気がした。

 「佢係你個仔」

 母親の動きが止まる。なんて言ったのか、てんでわからない。ずっと広東語でやりとりされているせいだ。俺には全くついていけていない。五代さんは給湯室からお茶を持ってきた。この施設でもっとも偉いはずの人間がお茶汲みすることってあるのか。

 「我冇個仔」
 「佢係隼人三宮個仔」

 俺の父親の名前が聞こえた。どういう話の流れになっているのか。

 「哦,骗,小偷嘅」
 「小偷?」
 「或者令我哋稱之為婚姻騙局」

 母親から睨まれているような気がしてならない。キレたいのはこっちだよ。俺は母親が育ててくれなかったせいで、ひどい目に遭い続けてきた。俺は悪くない。父親のせいで、俺はこうなってしまった。俺のそばに、母親であるこの人がいてくれたなら、俺を父親から守ってくれたに違いない。

 「嗰個人呃咗我哋,只談論方便嘅事情」
 「但!」
 「我好遺憾,我應該喺生仔之前就意識到嗰個男人嘅真實本性」

 家には写真の一枚も残っていなかった。今日の今日まで顔を知らなかった母親。声を聞いたのも、これが初めて。この人の夫であった父親は、母親との思い出を忌避して、かすかな記録さえも処分していたからさ。

 「あの、俺は、どうしてもおかあさんに聞きたいことがあって」

 俺とおかあさんとで、再会の喜びを分かち合う機会なのに、ここまでずっと弐瓶教授としか話していないじゃん。なんか、二人で盛り上がっているところ悪いけれど。仕事の話をしていたんだったら、あとで謝ろう。もう我慢できない。

 「生まれてこなければよかったのに」

 ……は?

 突然の日本語と、その中身で、俺の思考が停止する。

 なんで?
 なんでおかあさんが、あいつと同じことを言うの!?

 ゆっくり、じっくりと、言葉が脳を侵食していく。

 どうしておかあさんは「好き」って言ってくれないの?
 そう言ってくれるだけで、俺は、救われるのに?

 だって、母親は、俺の知っている母親は、子どもを愛しているもので。
 子どものためならばありとあらゆるものを犠牲にして、子どものためにその人生を無条件で捧げてくれるものだから、だから……そんな、そんな『生まれてこなければよかった』なんて、ぜっっっっっっっっっっっっっっっっったいに言わない。

 言わない、言うはずがない、冗談でも言わない。
 嘘だとしたら笑えない。そんな笑えない嘘はつかない。

 俺は、何。

 俺は人間で、あなたとあの父親との間の息子じゃあないか。親っていうものは子どもを愛してくれるんじゃあなかったっけ。俺と他の子どもとで、何が違うのさ。何も違わない。違わないはずなのに。どうして今の今まで無視され続けていたのさ。こんなに無関心で、放っておかれたの。

 俺は悪くない。
 悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない!

 どうして。
 なんで?

 「我告訴過你日文,所以我想我明白」

 そうだ。
 俺は人間じゃあないんだって、言われたのを思い出した。

 人並みの努力程度で、人並みの幸せを得られると思うのがおかしい。

 それでも、――なんでだろう?

 ひざに力が入らなくなって、その場にうずくまる。身体の震えが止まらない。涙が出てきて、俺は顔を手で覆い隠した。

 「ちょっと! 参宮くん!?」
 「好的,我要去下一個目的地咗」

 足音が遠ざかっていく。五代さんは「こっちは自分がなんとかするから、そっちはユニに頼むわ」と弐瓶教授に指示して、応接間を出て行った。

 わかっている。
 どれだけ泣いても、解決はしない。

 弐瓶教授は〝でかい男がうずくまって泣いている姿〟を見て、どう思っているのだろう。このつらさを外に追い出すには、涙を流すしかないからこうしている。

 過呼吸がおさまらなくて、動悸は激しくて、鏡で見なくともわかるぐらいに目の周りを泣き腫らしていても、どうせ誰も救ってくれやしない。

 人間は他人を外見だけで判断し、その内側に秘めた心も強いと勘違いする。自分で立ち直り、どうにかするだろうと値踏みして、手を差し伸べるようなマネはしない。同じぐらい困っている人間がいて、性別が男と女であれば女を手伝うのが当たり前だ。俺でもそうする。例えば、今の立場が逆なら。俺ではなく背丈が低くて巨乳で年齢のわりに可愛らしい弐瓶教授が泣き崩れていたとすれば、大なり小なり下心はあるやもしれない男どもが競い合って駆けつける。

 俺も宇宙人みたいに、あるいは、オルタネーターのように。
 別の姿になれたらいいのに。

 「あのさーあ」

 さて、何を言われるのか。

 「あれは赤の他人の私でも言い過ぎだって思っちゃったかな。うんうん」

 驚いた。顔を上げてみる。ポリポリと後頭部を掻いていた。俺とは目を合わさないようにしているのか、視線は照明のほうを向いている。これまでの弐瓶教授の言動から考えるに「男のくせに泣いてやんの」ぐらいのセリフを想定していたので、俺は内心ほくそ笑んだ。

 いい意味で予想外だよ。最悪、ゲラゲラと指をさされて笑われるところまでは想像していた。やりそうじゃん、この人は。そこまでされたらキレるよ。

 弐瓶柚二は俺を好きになってくれる(憐れんでくれる)

 長続きしてほしい。俺は弐瓶教授の彼氏でもなんでもないけれどさ。できる限り長期間そうであってほしい。ああでも、嫌いなのか。でもさ、本当に嫌いなら、俺を見捨てるだろ。

 「おかあさんとはなんて話してたの」

 うわずった声で訊ねれば「君の悪口は一言も言ってないよーん」と返された。いつもの軽い語調ではあるし、目を合わせようとはしてくれないが、目の色は嘘をついていない。そっか。教授がなんだかんだとデタラメを並べて、あの言葉を母親から引き出したのではないらしい。それなら、よかった。

 「君のお父さんとお母さんとの間でなんだか金銭トラブル? があって、その、金の切れ目が縁の切れ目じゃないけど、お母さんが激怒して離婚というオチ」
 「俺、悪くないじゃん」
 「そうそう。君はぜんっぜん悪くなくて『これ以上被害が大きくなる前に手を切ります』みたいな的な」

 何それ。

 自分のことなのに、怒りを通り越して笑えてきた。女さん無理だわ。とことん理解できない。血がつながっていてもそんなものなのか。よく『腹を痛めて産んだ』なんていうけれど、所詮は人と人。物理的な距離だけではない隔絶が親子関係を完全にまっさらにしてしまっていた。瞳の色が似ているというだけ。

 もうあんなのとは金輪際関わり合いになりたくない。
 向こうも同じ気持ちだろうよ。

 「ははは」

 やはり、一生かかっても〝家族愛〟は手に入らない。最後の希望実の母親からもけんもほろろに突き放された。俺が「会いたい」と言うのを、弐瓶教授が引き止めてくれりゃあよかったのにとさえ思ってしまう。一縷の望みを託さなければ、俺はありもしない母親からの愛情を信じていられた。

 全部終わりにしたい。

 「はははははは」

 助けてくれ!

 ……もういいよ。
 もう。
 こんなのたくさんだ。

 どうにでもなってしまえ。

 「いっそのこと、みんな不幸になってしまえばいい。俺だけが苦しむ世界なら、滅びてしまえばいいんだよ!」

 言ってしまった。

 弐瓶教授にはどう解釈されたかな。とうとう頭がおかしくなったと判断されたかも。それでもいいや。元からイカれた男だって思われていたら、その認識であながち間違っていない。まともに育てってほうが無理でしょ。

 「教授、教えてくださいよ」


 開始地点が間違っていたのか、どこかで修正可能だったのか、これからどうすればいいのか、死んでしまったほうがマシなのか。俺のせいで〝恐怖の大王〟が動き、この地球上のありとあらゆる生命が死に絶えるのであれば、俺はその罪をどう償えばいいのか。それは罪なのか。俺はただ、あの宇宙人からの誘いに乗っただけで、……この選択は俺自身のものだから、俺が責任を取るべきなのか。

 これまでの俺を知っている弐瓶教授なら正解を導いてくれる。

 「俺は『生まれてこなければよかった』のかを」

 こんなに不憫で、醜くて、可哀想な俺を、慰めてくれよ!

 「まあまあ、一旦落ち着いて。タオルあるから顔拭いて」

 弐瓶教授はポケットから大きめのタオルハンカチを取り出して、俺に渡してくる。それから、ソファーに深々と腰掛けて「ユニちゃんは『良識ある大人として』あるいは『一人の教育者として』もしくは『人生の先達として』好きとか嫌いとかの恋愛対象としてではなく君を救うにはどうすればいいのかなと考えました」と語り始めた。

 良識の有無は疑問。教育者っていうか〝教授〟だから研究者というのが正しそう。まあ、俺より年上だから〝人生の先達〟だけは間違っていない。

 「君の人生でこれまで君に関わってきた大人たちは、随分と身勝手でした。初期の段階で治療すれば完治できたはずです。でも、実際は放っておかれて悪化して、重症化して、性根ごと腐ってしまった。ユニちゃんは教育学部の先生でもなければ精神科の先生でもないから専門外ではあるから、矯正できるかはしょーじきわからないのん」
 「何を治すのさ」

 今更、弐瓶教授が何をしたところで俺は変わらない。教授が挙げたその手のスペシャリストを連れてきても、大して効果はあらわれないと思う。彼らが何をしてくれんの。薬で記憶を飛ばしてくれんのかな。それはそれでありがたいかも。だが、ひいちゃんとの思い出まで消されたら立ち直れなくなってしまう。今度こそ無理。この記憶を外部メモリに保存しておけたらいいのにな。日記にでも書き残しておこうか。

 「頭脳明晰アルティメット才媛のユニちゃんは君と関わってきて、君の言うように『俺は悪くない』のだと理解しました。育ってきた環境がはちゃめちゃに悪い。親ガチャの失敗データベース。ハイレアリティ毒親。さらにドローしたカード再婚した相手も最悪だったっぽいしぃ?」

 真尋さんのことかな。
 カードって言い方をしなくても。

 弐瓶教授はぽいに独特なアクセントを加えて、俺の表情が変化するか否かを観察している。俺の過去を懇切丁寧に掘り起こしていって、教授の中で『真尋さんが俺との子どもを堕ろしている』事実が引っかかっているのだろう。幾度となく俺を疑っていて、今回で何回目だ?

 俺は弐瓶教授に『真尋さんに迫られて嫌々だった』と主張している。真実を知る(違うと知っている)人は亡くなっている。何百回と何千回と訊かれようと俺はこの主張真っ赤な嘘を押し通すだろう。そうしておいたほうが俺にとって都合がいいから。真実と事実は違うけれど、わざわざタイムマシンで確認するようなことでもないだろ。

 「ユニちゃんは君の代わりにはなれないし、だからって君の過去を追体験したくもない。実家も平々凡々でパパとママからそこそこ大事に育てられたユニちゃんがこう言うのは、思い上がりかもしれないしお節介かもしれないけど、君に寄り添っていきたい」

 顔色から悟らせないために、受け取ったタオルを広げて顔を覆う。
 そうでもしないと大笑いしてしまいそうだ。

 いいじゃん。
 ユニ。
 最高だよ。

 情愛にまみれた好意ではなくて善意からの慈悲。っていうか、老婆心っていうのかな、これは。ババアって言ったら怒るだろうな。やめておこう。でも、いいよいいよ。いい感じ。これからの俺の行動指針も決めやすいもん。ツンデレっぽい「キラーイ!」も捨てがたいけれど。

 お前はどん底にいる俺を見下したいのか。

 地上から、俺を見下ろしてさ。ちょろっと糸を垂らすだけでいい。とってもとっても簡単な仕事。その糸にしがみついて、引き上げられている間に切れないかと不安げにしている顔を、見ていればいい。時折「頑張れ」とか「その意気」とか声援を送る。言葉には何の意味もない。意味がなければただの音と同じ。

 人が〝人〟を助けようとした時、人は〝人〟を同じ人とは思っていない。
 人は〝人〟よりも優位な存在なのだと、勘違いする。

 どこかでボタンを掛け違えたら、逆の立場かもしれないだなんて考えもしない!

 それでもいいよ。俺は。俺はね。弐瓶柚二は可愛くてちっちゃくて、男どもからの人気があって、人目を引く存在。そんな姫が俺を構ってくれるってんだから。

 うれしいなあ!

 「一つだけ約束して」

 タオルを除けて見れば、弐瓶教授がその細い人差し指を立てている。爪やすりで整えられたその指先を咥えたら、どういう顔をしてくれるのか。怒られるかな。

 「私に嘘をつかないで」

 そんなことでいいの。
 すでに嘘をついているんだけどそれは?

 「……もうついてるのねーん」

 動揺を察知してくれた。まあ、それでも俺から口を割らないかぎりバレやしない。俺は「人間、生きていたら隠し事のひとつやふたつぐらいあるもんじゃあないですか? 教授にも俺に言えない話、あるでしょ?」と返しておいた。