デートの翌日。協力者たる弐瓶教授の元に足を運ぶ。祖母とマヒロさんのいる家に、なるべく居たくなくて。

 俺、今どんな顔をしているのだろう。研究室の扉を開けたら、一斉に男どもがこちらを見て、一部から「ヒエッ」という悲鳴が上がった。気にせず、弐瓶教授のお部屋まで移動する。なんだよ今の悲鳴。失礼だろ。

 「マヒロさんは『今度こそは』って育てる気満々みたいよ。前回は、まあねぇ、当時はキミも高校三年生だったわけじゃんじゃん? 大事な大学入試を控えてバブちゃんを抱えるわけにもいかないよねん。もうちょいタイミングを考えようねって話。産むのはキミじゃないにしても」

 あの場で俺は「考えてみる」と嘘をついた。嘘ってわけではないか。考えてはみるのだけれど。祖母までも味方につけるとは、想定外でさ。とりあえずの返事として、そう言っておくのが無難な気がしたから、そう答えた。あの場を切り抜けるための苦肉の策とも言えよう。

 半信半疑の眼差しを向けられたから、動物園の近くの博物館へ連れていった。やがて人類を滅亡させるらしいマヒロさんの瞳は、地球上の生物たちの解説文を映して、どう解釈したのだろう。俺は他人の心が読めるわけではないから「楽しかったぞ!」という言葉を字面通りに受け取った。損ねていた機嫌も直ったようで、すっかりいつもの調子に戻った帰り道。敷地内のコーヒーショップで「スタバのコーヒーが飲みたいぞ!」と新作のドリンクをせがまれた。カッコつけなのかカフェインの入らない「ディカフェで」と頼んでいたのを覚えている。あれはカッコつけではなくて、妊娠しているからか。おなかの子どものためには、カフェインは摂取しないほうがいいらしいじゃん。

 あとは、祖母のために写真を何枚か撮った。いいカメラを借りているから撮っておかないと。本来なら動物園で撮るべきだったが、園内では結局ヤギに襲われている姿しか写せていない。博物館の中ではカメラの使用は禁止されているので、建物の前のオブジェや噴水と共に撮影した。

 「人類滅亡計画に賛成はしたけどけど、私としてはその、なんていうか、人類ちゃんに仇なす存在になる決意といいますか、イマイチ『よっしゃやったるで!』って気持ちに切り替えられてないからさーあ。猶予期間をもらっちゃったかーんじ?」

 弐瓶教授は目を細めて、ヘラヘラと笑った。

 当事者ではないから呑気なもんだよな。弐瓶教授にしてみりゃあ、おっしゃっているように、本人が生きている間にマヒロさんからタイムマシンを貸してもらうなり、タイムマシンの設計図みたいなもんを教えてもらうなりして『一色京壱のところに行く』が達成できればいいんだから。俺とマヒロさんとの間に何があろうとも、この人にとっては対岸の火事。マヒロさんが約束を一方的に反故にしないよう、適度な距離感で付き合っていればいい。

 「マヒロさんはキミが思っている以上にキミのことが大好きだから、くれぐれも機嫌を損ねないようにお頼み申すよーん」

 だからマヒロさんがおばあさまとユニが協力すると申し出てくれた、と言っていた、っていうのは本当のことなのだろう。弐瓶教授の机の上にはこれみよがしにベビー用品のカタログが置いてある。

 他の男が見たら卒倒しそう。あらぬ誤解を招きかねないよな。男の影のない弐瓶教授が『おめでた』なのではないかって、噂されそう。

 「まさか、堕ろさせるつもりじゃないよね」
 「どうして?」
 「どうしてってあなた、過去に子どもを作らされて痛い目にあってるじゃない。今回は計画的でしょう?」
 「ああ……そうですね……」
 「同じ過ちを繰り返すのは動物以下。とっても頭が良くて、相手の気持ちの理解できる参宮くんなら、んまあ、ね?」

 わからない。

 マヒロさんが何を考えて子どもを産んで、育てようとしてんのか、ぜんっぜんわからない。一二三ちゃんに続いて二人目だし、今回はご実家にいるから、頼れる祖母もいるし、問題ないとでも思っているのか。本当にわからない。理解に苦しむ。まさかってなんだよ。子どもなんていらない。産まないでほしい。

 俺のことが好きだって言うのなら、俺がされて嫌なことはしないでほしい。

 「俺は、産まないでほしいって思っています」

 弐瓶教授のチワワっぽい瞳が、凍りついた。普段がうるうるとしているから、普通の人よりもその反応は顕著だ。俺が悪い、と。俺が間違っている、って言いたそうな顔をしてくれる。

 「それ、本人に言った?」
 「ええ」
 「言ってないでしょ。嘘をつくの、下手すぎじゃーん?」

 直接は言っていない。
 不幸になるとは言った。

 「……俺は、その、やっぱり、相手は義理の母親なので」
 「仮に堕ろすんだとしたら、早いほうがいいわよ。仮にね」

 言われなくとも前回の時に調べたから知っている。堕ろすのにも期限があるのだ。中期中絶は22週まで。この国の法律ではそうなっている。

 「私は二人の子ども、自分の孫みたいに可愛がっちゃうよーん。ユニちゃんは今後一切産む気はないからねん」

 せっかくだから俺を可愛がってもらえないもんかな。生まれてこない子どもではなく、目の前にいる俺を。……ダメか?

 弐瓶教授に子どもができたら、弐瓶教授のルックスを引き継いだとんでもなく可愛い子が生まれそうなもん。一色京壱くんのことはすっぱり諦めて、俺と付き合ってくれないかな。世の中うまくいかない。どうすればいいかな。

 「弐瓶教授からは以上です。さあ、帰った帰った!」

 追い出されてしまった。まあ、弐瓶教授が俺に味方してくれないってことはよーくわかったので、しぶしぶ家に帰る。

 「ただいま」
 「座って」

 ただいまに対しておかえりとは言われず、祖母は険しい表情で指示してきた。テーブルの上にはコーヒーカップが置かれていて、すでにマヒロさんは椅子に腰掛けていたが、その隣に座るのは祖母。俺は向かいの一席に座らなければならないようだ。

 なァんか、わかってしまったな。

 弐瓶教授の次は祖母か。連続で攻撃してくるのね。本人含めて二対一ってわけか。そういうことか。はいはいわかったわかった。女どもが結託して俺を悪者にしようとする。俺は悪くない。俺は悪くないってのに、一触即発の雰囲気だ。めんどくさい。こんな無駄な時間はないよ。

 「はい」

 おとなしく従っておこう。この場は切り抜けて、あのときの医者に連絡をつけて、中絶手術をしてもらうしかない。してもらおう。この話が終わったらすぐに電話してしまってもいい。殺しておかなくてよかった。弐瓶教授に前回の話を漏らしていたって気付いた時にはうわあいつまじかって思ったけれど、まだ使い道があるじゃあないか。

 「ねえ、タクミ」

 俺が席についてからコーヒーカップに注がれていた麦茶を啜っていると、マヒロさんのほうから話し始める。コーヒーカップに麦茶ってなんだよ。俺はカフェインを摂っても問題ないだろ。

 「我は、この子を産みたい」

 それは昨日聞いたよ。

 で、先ほどまでそちらお二人でどっかの病院に行っていたのでしょう? ……こうやって帰ってきているんなら、特に異常もなく、母子ともに健康で云々と言われたのだろう。なんかあったらすぐ入院させるから。普通の医者ならそうする。

 「真尋からは聞いたけど、直接タクミくんからは聞いてないから、――どうしたいのかを教えてほしい」

 聞いたならいいじゃん。

 ってわけにもいかないか。俺を睨んでくるってことは、マヒロさんは昨日俺が言ったままのそのままを祖母へ伝えてくれたに違いない。弐瓶教授がおっしゃっていた通りなら祖母もまた弐瓶教授と同じくマヒロさんに子どもを産ませたい派だ。孫の顔を見たいのだろう。

 俺が祖母の立場だったら産んでほしいかもしれない。真尋さんが産んだ子どもとして、ひいちゃんはいたけれど、今はいない。事故で死んだからさ。戻ってはこない。マヒロさんはこうして戻ってきた。

 俺も祖母から見たら孫ではある。が、その関係性を生み出していた要因である俺の父親はもうこの世にいない。祖母との面識もない。父親が誰であれマヒロさんが子どもを産んだら、その子は祖母にとっての孫になる。真尋さんは実家とは絶縁状態だったから、祖母はひいちゃんとは関われていない。その、マヒロさんが産みたいって言っている新しい子どもこそが祖母にとっての孫になる。そういうことでしょ。

 「俺がどうしたいかって、言われても」

 俺が人の親?
 正気か?

 まともに育てられるわけがない。

 無理。無理無理無理無理。想像もできない。考えようとするとめまいがしてくる。お茶を飲もう。これまでの人生を他人に振り回されてきて、今度は血のつながった子どもに振り回されんの。あー、無理。娘だったとしても無理。息子ならなおさら無理。可愛がれるわけないじゃん。俺の年齢も考えてくれよ。大昔の日本ならともかく、十八歳で親ってどうなの。おかしいだろ。経済的にも。

 それに、俺は――

 「育てていけるのか心配でしょうけど、手伝うから安心して」
 「そうだぞ。ママもついている」

 そういう問題ではない。
 察してくれよ。

 わかっている。こいつらは俺に「そうか。じゃあ産もう」って言ってほしいんでしょ。それ以外の答えは求められていない。わかっているさ。俺がそう答えればいいだけ。一択しかない。

 前回、真尋さんの腹に俺との子どもがいると判明したときは、再婚相手である俺の父親との関係とか元旦那との子どもであるひいちゃんの今後とか世間体とか、俺自身の立場とか、さまざまな要因を踏まえて内密かつ迅速に堕ろさせることができた。

 その時の費用は、父親の監視下にある俺には用意できなかった。父親は〝教育費〟ってことにすればいくらでも金を出してくれたけれど、それ以外の部分は一文もくれない。バイトはさせてくれない。バイトする時間があれば勉強しろとのお達しだ。俺には大学に行ってほしかったっていうから、そこにかかる〝教育費〟に対しては財布の紐がゆるく、俺の言い値をいつでも渡してくれた。バカだよな。ご自身が正しく学生生活してねぇから実際いくらかかるかをご存じではない。さすがに堕胎費用を教育費扱いにするのは、この俺でも良心が咎めた。勉強代ではあるけれども。

 結局は真尋さんの問題だし、真尋さんがどうにかしないといけない。だから、真尋さんがどっかから金を借りてきて解決した。俺は一銭も払っていない。痛くもかゆくもない。俺の身体がどうなるってわけでもあるまいし。
 借金、知り合いに頼んだらなぜなのかの理由を聞かれるだろうけれど、誰が貸してくれたのかな。実家には帰ってなかったってんだから、祖母ではないよね。祖父でもないだろう。
 まあ、別に誰からでもいいか。妊娠していたら二人目は妊娠しないから、誰かと寝たのかもしれないし。見た目はマジでいいからどこかに突っ立っていればすぐに寄ってきそう。

 というか、真尋さん、一度中絶した話は真尋さんの実の母親にあたる祖母には一切話していないのだな。俺の子どもを妊娠するのが二度目だって知ったらどういう顔をするかな。ここで言ってやろうか。

 「今、何ヶ月?」

 俺の問いかけに、祖母は表情を明るくして「五ヶ月だって」と答えてくれた。
 ギリギリじゃん。

 こんなことになるまで気付かなかった俺も悪いのか。……そうかもしれない。さっさと気付いていればいくらでも説得できたはずだ。二度目だし。

 今日、この場で言わなければ手遅れになる。
 この場を切り抜けて、また別の日に、とはいかない。

 「俺はその子を産まないでほしい。どうしても産みたいっていうんなら、俺はこの家から出て行く」

 言ったはいいけれど出て行きたくないな!

 寝床があって、一日三食美味しい食事が提供されて、掃除洗濯もしてくれて、何不自由なく人間的な生活が送れている。俺がなーんもしなくても文句は言われない。かつての――父親と俺の二人で生活していた頃を思い出してみろ。思い出したくもないな。今は、人並みに普通の幸せを享受している。最初の頃は『祖父母からの同情』だなどと唾棄してしまったけれど、考えてみれば、書類上とはいえ孫である俺を可愛がってくれているではありませんか。

 一度快適な暮らしを知ってしまった俺が、今度は一人で暮らしていけるかというと不安のほうが強い。金はまだあるから、ホテル暮らしでもすればいいのかな。寝泊まりさせてくれそうな知り合いに連絡するのもいいか。いたっけそんなやつ。

 俺は意志に反して座っていた席から離れると、その足で台所に向かう。
 向かうというよりは足が勝手に台所に動いていった。

 「タクミくん、まだ話は終わってないわ!」

 祖母は注意してきたが、俺は現在進行形で身体を操られている。自分の意志でコントロールできていない。天井のほうから糸を垂らされて、その糸によって無理矢理動かされている。俺は台所の引き出しを左手で開けると、右手に包丁を握り締めた。

 「言え」

 マヒロさんはこれまで聞いたことのないような、例えるなら動物の唸り声のような声色で凄んでくる。

 そして俺は右手に握った包丁を自らの首元に近づけた。こうして脅せば、俺がこれまでの意見を覆してこの家に留まり、これまで通りの生活をしながら五ヶ月と十日後ぐらいに産まれてくる子どもと共に暮らしていける、とでも思っているのだろう。マヒロさんとしては俺に『産もう』って言ってほしいんだもんな。わかってんだよ。ここで俺の十八番(おはこ)の嘘をついて、ごまかしてくれさえすれば満足か。

 いいよ。
 わかった。

 こうしよう。

 「今ここで俺を殺すのか、それとも、そいつを殺すのか。どっちかにしてくれよ」

 俺はまだ死にたくない。

 まだ死にたくない。まだ、俺自身の人生は始まってすらいないから。これから始まるべきところで、こんなところで終わらせられたくはない。俺は悪くない。前回も今回も同じ。俺はとてもとても可哀想な存在なのだから!

 他人に言われるがまま、他人の言いなりになって、他人の意見に踊らされ続けている。人生は空虚な二十数年だった。他人さえ全員いなくなってしまえば、ようやく俺は俺の人生を選び取れる。だから人類は滅亡させなければならない。

 そのために、俺は今、死ぬべきではない。死ぬのはこの世に産まれてすらいない、名前すらない、腹の中のそいつだ。

 「その包丁を放しなさい!」

 祖母が喚いた。できるんならやっているよ。とっくのとうにさ。やろうとしてんのにうまくいかないの。何なのこれ。
 なんだろ。この人からはどう見えているの? 俺がヤケになって、自殺しようとしているように見えんのか?

 それなら先ほどのセリフは意味がわからないよな。俺〝を〟殺すって。……まあ、それも自暴自棄になってデタラメなセリフを吐いているように聞こえるのかも。

 で、どうするの。
 もう一個、言っておいたほうがいい?

 「お前は周りが協力してやるって言ってるから『いける!』って思ってんのかもしれんけど、俺を殺したとして生まれてきた本人が辛いだけだよ。俺が、母親がいなくてずーっと辛かったようにな」

 協力するって言っても所詮は他人だろ。四六時中、子どもの面倒を見てくれるわけじゃあない。

 何があっても親の責任になる。親が目を離していたからとか、親がしっかりしていないからだとか。それで何度この俺が、あの父親から理不尽に殴られたと思っているのか。子育ては、産んだら終わりではない。その子が生まれてからが始まりだろ。

 子どもって、そういうものだから。
 もっとも弱くてもっとも手がかかるから、本当に本当に本当に嫌いだ。

 大嫌いだ。俺の邪魔をするな。

 そんなのはいらない。俺はそんなものに振り回されたくない。本当にいらない。なんであんなものが愛の証明だとか言われんの。……こんなことを思っている親のもとに生まれてくる子ども、生きづらいと思う。だから、俺か子どもかのどちらかを、今、ここで選んでほしい。将来どうなるかちゃんと考えた上でね。

 それで、結局、愛って何なの。
 好きって何?

 「本当に俺のことが好きだっていうなら、俺だけを愛してほしい」

 愛しているからとか、好きだからとか、そんな御託を並べても誰も幸せにはならない。そういう幻想を信じていたいのなら、こちらから言ってあげられるのはこの言葉しかない。自分が信じちゃいないものを、押し付けるような形にはなるが。こう言うしかない。

 「なるほどな」

 右手が自由になって、包丁は床に落下した。

 「……考えさせて」

 マヒロさんはそう言い残して、自身の部屋に駆け込んでしまった。