無職のススメ、元社畜の挑戦日記

※ 本作は実際の出来事に基づいていますが、登場人物名や店名、登場する名称はすべて架空のものであり、実在の人物や団体とは関係ありません。


「今月末で退職します。」

その一言が、心太朗(こたろう)の人生を大きく変えた。「…え?え?急展開すぎない?」と自分でも驚くほどのスピード感だった。自由を手に入れた今でも、あの日の出来事は心の中でリピート再生され続けている。「あれ、どこで間違えたんだっけ?」と、何度も巻き戻しては再生するのだ。

心太朗は、仕事を辞めてからの出来事を小説にしようと決意した。まあ、自分の経験を作品にするっていうのは悪くないアイデアだ、ってことで。だが、そんな決意をした彼自身もどこかで「いや、これ本当に続くのか?」と疑っている。それでも「やらなきゃ始まらないだろ!」と、自分に無理やりツッコミを入れている最中だ。

今、彼は思い返している。あの心の中に渦巻いていた感情、耐えがたいほどのストレスフルな日々、そしてそれをどうにかこうにか乗り越えて踏み出した一歩。実際のところ、「あの一歩、もっと早く踏み出せなかったのかよ?」と、過去の自分に対してツッコミたくなる気持ちは隠せない。

***

彼が働いていたのは、イタリアンレストラン「グラッツィエ」。おしゃれなインテリア、本格的な料理、そして連日満席の大繁盛。…って、これ店の紹介文じゃなくて、心太朗にとっては戦場だった。華やかな表舞台の裏で、彼の店長としての日々は「どう見てもブラックやん…」と嘆くことしかできないものだった。13時間にも及ぶ長時間労働、しかも休みの日には職場からの電話がバンバン鳴り響く。「まさか、俺の携帯が店のアラームになってないよな?」と疑いたくなるほどだ。

「もしもし店長、ポスターが剥がれていますよ。どうしますか?」

――どうするかって、そんなもん貼り直せや!ポスターのために休みを潰される心太朗は、心の中で叫んでいた。だが、彼はすでにそんなことを言える余裕すら失っていた。「なんで誰も貼り直さないんだよ…」と、ため息をつくのが精一杯。

ちなみに、この手の職場からの連絡はほぼ香取のせいだ。そう、部下の香取は料理の腕は一流なのに、なぜか「心太朗に面倒を押し付ける技術」も二流じゃなかった。しかも、心太朗が自分より若いってだけで、彼に対する態度がとんでもなく反抗的。「それって大人気ないよね?」と毎回思わされるのだ。

心太朗が上司の山辺(やまべ)からの指示を伝えても、「俺には俺のやり方がある」とかいう、どこぞのヒーローみたいなセリフが返ってくる。いや、今そのやり方じゃないから!と心の中でツッコミを入れるのが日課だ。そして、その度に香取は問題を放置し、心太朗にすべて押し付けられる。「…もう、誰が店長だよ?」と、自分の役割が分からなくなることもしばしば。

当然、その結果、山辺から「店長としてしっかりやってくれ」と叱られる。――いやいや、それ香取の仕事だから!と、叫びたくなる気持ちを抑えつつ、心太朗は黙って頭を下げる。

休日出勤?もちろん、無賃で。それが当たり前の日常だった。「これってボランティア?」と何度自問自答したか分からない。そして、次第にそのストレスは家庭にまで及び始めた。

「俺、こんなに働いてるのに、澄麗(すみれ)は家で楽してるよな…」

――言った瞬間、あぁやっちゃった、と自己嫌悪に襲われる。いや、そもそもその思考が間違ってるんだ、って分かっているのに、つい言葉にしてしまう自分に呆れ返る。

そんなある日、ついに限界が訪れた。電話がかかってきた。「ポスターが剥がれてる」――いやいや、ポスターぐらいで俺の限界来るなよ!と自分にツッコみたくなるが、その瞬間、心太朗はもうどうにもならなかった。

電話を切った後、うつむいたまましばらく動けない。「俺、ポスター一枚に人生持っていかれたぞ…?」と、自分の情けなさに笑ってしまう。そして、顔を上げた時、妊娠中の妻・澄麗の姿が目に入った。

「…もう辞めるよ。俺、これ以上無理だ」

澄麗は一瞬驚いたが、すぐに優しい表情になり、「無理しすぎだよ、コタちゃん。生活はなんとかなるから、体を大事にして」と、彼の手を握ってくれた。その瞬間、心太朗の心は崩壊。「あぁ、俺、全然ダメだ…」と、堪えきれずに涙が溢れてきた。これまで溜め込んでいたものが、一気に崩れ落ちた感覚だった。

泣きながら、心太朗は思った。「俺、どれだけ無理してたんだ…?」と。そして、澄麗への罪悪感と、そんな自分を支えてくれる彼女への感謝が入り混じり、さらに涙が止まらなくなる。もう「ポスターなんてどうでもいいわ」って本気で思い始めていた。

***

翌日、心太朗は山辺に呼び出された。事務所に入ると、いつもの厳しい顔ではなく、少し穏やかな表情の山辺がいた。いや、こういうときって大抵説得されるんだよな、と心太朗は内心構える。

「安川くん、ちょっと話いいか?」
安川とは心太朗の苗字だ。

――いや、もう話の内容は分かってますよね…?そんなツッコミを心の中でしつつ、心太朗は椅子に腰掛けた。

「辞めるなんて、本気か?」

――いや、本気も本気。これ以上本気の決意、見たことないくらい本気です。でも、そんなこと言えずに、「ええ、まぁ…」と曖昧に返すしかなかった。

山辺は続けた。「お前ほど頼りになる奴はいないんだ。バンドしてた頃から見てきたし、何があっても支えてきたつもりだ」

――いやいや、バンド関係ないでしょ?そんなツッコミをしつつも、彼の言葉に感謝の気持ちはあった。アルバイト時代から色々助けてもらったし、確かに支えられてきた。

「俺が引退したら、お前を幹部に推薦するつもりだ」

――いや、幹部とかそういう問題じゃないんです。もう限界なんですよ、と心の中で叫びつつも、表面上は「考えます」と答えた。でも、その言葉には自分でも「もう、これ以上考える余地ないでしょ?」というツッコミが混じっていた。

***

その日の夜、心太朗はふと店の入口を見た。閉店作業をしようと思ったが、本来担当するはずの香取は仕事を残したままいつの間にかいなくなっていた。「あいつ、何も言わずに帰りやがったな…」と、胸の中に冷たいものが流れ込むのを感じた。これが決定打だった。

どれだけ働いても感謝されない現実に、「俺、澄麗よりも香取さんのために働いてるのか?」と考えるようになった。疲れ果てた心は、気づけばもう限界だった。あの日、辞める決意をしたのは、もう他に選択肢がなかったからだ。

***

それからは、まさに地獄の耐久レースが始まった。山辺の説得に耳を貸さず、力強く「退職宣言」した心太朗。山辺もついに「もう無理!」と白旗を上げるしかなかった。その結果、退職日は決まったが、そこからが本当の試練だった。

お盆休み、世間が「連休ばんざーい!」と浮かれている中、心太朗は12連勤という名の地獄に突入。「おい!心太朗!もっと早く辞めとけよ?」と自分にツッコミを入れながらも、12連勤の毎日はまるで「仕事のカーニバル」。体力と精神力がフル回転しっぱなしだった。これは退職までに過労死するのではないかと不安になった。

連勤後の休日には、店からの電話を完全シャットアウトするために、携帯の電源を切る決断。電源オフの携帯が、まるで心の中のノイズも消してくれる魔法のツールのように感じられた。実際はただの着信拒否。

退職まであと数日という頃、台風のニュースが飛び込んできた。「これで出勤日が少しでも減ったらラッキーだな!」と内心で願っていた心太朗。しかし、今回の台風は約束破りの遅刻魔だった。天気予報はずれにずれて、最終的に台風は「行くの止めるわ!」とドタキャン。結局、心太朗は見事に退職まで皆勤賞を達成することに!

引き継ぎの準備も頼んでいたのに、山辺は「後でやる」と言って動かず、他のスタッフも「やりたくない」を貫く。まさに「仕事から逃げるゲーム」開催中だった。「もう知らん!これで困るのは無責任な連中だ!」と腹をくくり、最終日を終えた。


***


家に帰ると、澄麗がまるでレストランのような豪華なディナーを用意していた。ステーキにケーキ、ワインまで!心太朗の目は、まるで子供がクリスマスプレゼントを見たときのように輝いていた。「これ、全部俺のため?」と少し疑いながらも、美味しい料理に舌鼓を打った。

食後、澄麗が取り出したのは手紙。彼女はそれを声に出して読んでくれると言う。

「コタちゃん
長年にわたり、グラッツィエでの勤務、本当にお疲れ様でした。
毎日長時間働いてこれたことをとても尊敬してます。
後半は「しんどい」という事が多く、何よりコタちゃんの身体が壊れてしまわないか心配する日々でした。
それでも朝になると、大きなため息をついて仕事に向かうコタちゃんを見送ることしかできず、何も力になれてないのではないかともどかしく思う毎日でした。
7月末に仕事を辞めたいと聞いたとき、正直ほっとしました。
グラッツィエから離れてほしかったからです。
今日の日まで精いっぱい勤めてきたコタちゃん、本当におつかれ様です。
これからはゆっくりと心と身体を休めて、また一緒に前へ進んでいきましょう!
私はコタちゃんがどんな道を選んでも2人3脚(子供も一緒)で生きてゆきます。
なので安心して進みたい道を歩んでください。
いつもありがとう!そしてこれからもよろしくお願いします。  澄麗」


心太朗は思わず笑顔がこぼれた。澄麗の温かい言葉に触れ、涙が出そうになりながらも、心の中では「これぞ家族の力!」と、うるっときた。澄麗への感謝の気持ちと、彼女と過ごすこれからの時間を大切にしようと、心の中で固く誓った。

そして、次の日からは「無職ライフ」の幕開け。どう過ごすかはまだ未定だが、心太朗の新たな人生が、リフレッシュと共に始まるのだった。


***


心太朗は今、自分の経験を小説にしている。無職になってからのこの2週間は、心太朗にとっての再生期だった。いわゆる「正常な感覚」に戻り、自由な時間ができ、家族の大切さに気づき、ついには本音を言えるようになった。元々の性格がいささか極端だったせいか、心太朗はこの変化を「自分がようやくまともになった!」と大げさに喜んでいる。とはいえ、喜びすぎてちょっとドン引きされたりもしているが。

ブラック企業で働く同士たちや、今まさに無職で苦しんでいる人たちに向けて、心太朗は「元気出るストーリー」を届けたいと思っている。もちろん、彼自身もその先に待つ結末がどんなものになるのかはまだわからない。自己顕示欲丸出しの「日記型」小説にしようと決意したが、正直言って「俺、このままだとどうなるんだろう?」と、内心で不安にかられている。

心太朗は、どうせなら「面白いストーリー」を作ろうと息巻いている。無職になってからは、心の中で「ハッピーエンド」を迎えようと全力で奮闘中だ。彼が目指すのは「無職のススメ」という一見気軽なタイトルの本だが、実際にはその内容がどうなるかはまだ不明。結末のない「元社畜の挑戦日記」として、彼は今まさにその冒険を始めたばかりである。

**無職1日目(9月1日)**

無職生活が始まった心太朗は、朝日が差し込む中、身体の怠さに苦しんでいた。まるで無職の代償を先払いさせられているかのようで、思わず心の中で呟く。「これが自由ってやつなのか…?」そんな彼は、自己暗示をかけることにした。「俺は生まれ変わったのだ。自由なのだ」と、まるで自己啓発本に書いてありそうなセリフを口にする。

これからしばらくは収入がないという事実に、心太朗はふと不安を感じた。「俺は給料分の自由を買ったんだ!」と自分に言い聞かせるが、その言葉もどこか心もとない。「俺の自由は高いのか?安いのか?」と頭の中で悩む。

朝早く、心太朗は神社へお参りに行くことにした。神様に「自由になりました!」と報告するためだ。実は彼、見えない力を少し信じているタイプだった。仕事を辞めると決めたとき、神社で塩を買い、帰宅後は毎日体に撒いていた。完全にオカルトな行動だが、心太朗にとっては必要な儀式だった。最終出勤日にはお風呂に塩を入れて清め、職場に着ていた服や下着、靴、鞄もその日に捨てた。あの店には「変な気」があったと思っていた。周囲には精神的に病んでしまう人も多く、心太朗はその人たちのカウンセリングを行っていたが、実は自分がその「変な気」を一身に受けていた。まさに自虐的な状況だ。

家に帰った心太朗は、「よし、筋トレするぞ!」と意気込む。しかし、身体の怠さが再び襲いかかる。「あれ?眠たい…やる気がしない。」朝の神社で「筋トレさせてください!」とお願いしておけばよかったと後悔する。すると、澄麗が心配そうに声をかける。「無理しないで、休んだらどう?」心太朗は「いや、頑張らないと…」と返すが、心の奥底では「頑張れない…」という思いが渦巻いていた。


心太朗は、筋トレをサボってソファに転がり込み、身体の怠さを感じながらも、無職生活の初日を振り返っていた。澄麗が冷たいコーヒーを持ってきてくれ、「少し休んでリフレッシュして。育児の準備も大事だから、無理は禁物だよ」と優しく声をかける。

「育児の準備って、何をすればいいんだろう?子供の名前を考えるとか?」心太朗は冗談を交えつつも、実際には未来に対する不安が押し寄せる。澄麗は笑いながら、「それとも、やる気が出ないまま名付け親になっちゃうの?」と返す。心太朗は思わず笑ってしまう。「いや、それは勘弁してほしい!子供に恥ずかしい名前をつけたら、それはもう虐待だから!」

そんなやり取りをしながらも、彼は心の中で「自由を手に入れたはずなのに、現実はただのニート生活になってしまった」と思う。無職の特権がただのサボりになっているんじゃないかと焦りがこみ上げる。「こんな調子じゃ、いつまで経っても未来が見えない」と自己嫌悪が胸に迫る。

「無職初日からこんな調子じゃ、先が思いやられるな」と自分を嘲笑うが、澄麗の明るさが心の中に少しずつ光をもたらす。「何か始めなきゃいけない」と心の中で決意を固めるが、その一方で「でも、やる気が出ないし…」と弱気な自分もいる。

結局、心太朗は「とりあえず、今はゆっくり休もう」と思い直し、無職生活の初日をのんびり過ごすことに決めた。澄麗の存在が彼にとっての支えとなり、笑いと希望を胸に、果たしてどんな未来が待っているのかを楽しみにしながら、次の日を迎える準備を始めるのだった。「明日こそ、何か行動しよう」と心に誓いつつも、心の奥では「明日もできないかも…」という気持ちもちらついていた。
**無職2日目(9月2日)**

「今日こそは頑張るぞ!」と心太朗は朝から意気込んでいた。しかし、体はすっかり眠気に支配されている。どうやら「やる気」と「体力」が完全にすれ違っているようだ。前日は、思ったように何も進まず自己嫌悪に陥ったが、今日は違うと誓っていた。だが、どうにもならない体の重さに、筋トレは早々に諦める。神社にだけは行ったものの、その後はダラダラ。今日もこのまま1日が終わるのか…と自分に問いかけるが、散髪の予約をしていたことを思い出す。

最近は仕事が忙しすぎて、髪が伸びていることにすら気づかない生活だった。退職して改めて自分の姿を見つめると、どうにも髪が邪念まみれのように思えてきた。髪を切って生まれ変わろう。まるで失恋した乙女のような発想だが、心太朗は何とか自分を鼓舞して散髪に向かう。髪を切れば、何かが変わるかもしれない。邪念だって床に落としてしまえば、スッキリするに違いない。

心太朗が通う散髪屋は、彼にとっての「安全地帯」だ。人見知りの彼にとって、一度決めた店を変えるのは至難の業。担当者も10歳ほど年下の、爽やかな青年。毎回彼を指名するのは、余計な会話をしなくても、なんとなく通じ合えるからだ。担当者は、心太朗がかつてイタリアンレストランで働いていたことも知っている。今日もいつものように、鏡越しに彼の髪を見ながら問いかけてくる。

「今日はお休みですか?」

「そうなんですよ」と心太朗は返答するが、心の中では「これから毎日休みなんです」と苦笑いしていた。無職になったことを正直に言う勇気はなかった。だが、言わなければいけない理由もない。黙っておく方が楽だ。

散髪が進むうちに、ボサボサだった髪がどんどん短くなっていく。邪念が床に散らばっていくのを見ながら、心太朗は密かに「さよなら、悪霊ども!」と心の中で別れを告げる。全てが終わり、サッパリした自分を鏡で確認すると、少しだけ前向きな気分になった。しかし、その瞬間、担当の青年が「ありがとうございました。お仕事頑張ってくださいね」と声をかけてくる。心太朗は「いや、無職なんだけどな…」と内心突っ込みを入れつつ、苦笑いして店を後にした。

帰り道、心太朗の気分は晴れやかだが、複雑な感情も心の奥にあった。髪を切ってスッキリしたものの、無職になった現実を隠したこと、これからどうすべきかという不安。だが、何かしなければいけない。そんな焦りが彼を図書館へと駆り立てた。

ビジネス書の棚で、心太朗は二冊の本を手に取った。

- **ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則**(ジェームズ・C・コリンズ著)
- **やりたいこと探し専門心理カウンセラーの 日本一やさしい天職の見つけ方**(中越裕史著)

まずは、中越裕史の本を読み始めた。天職探しなんて今さら感があるが、心太朗は妙な共感を覚える。著者の優しい語り口に、「何歳からでも遅くない」という言葉に励まされる。自分の年齢を考えながら、「そうか、大人の方がやりたいことがわからなくなるんだな…」と感じた。中越の言葉が、ほんの少し心太朗の心を軽くしてくれたのだ。

次に、彼は「ビジョナリー・カンパニー」に手を伸ばした。ヒューレット・パッカードの話に強く惹かれた心太朗。パソコンのロゴでおなじみの会社が、最初は何のアイデアもない状態で起業し、試行錯誤を繰り返して成功したという事実に驚く。やりたいことが見つからなくても、何か始めてみることが大事なのだと気づかされた。

帰宅すると、妻が彼のサッパリした髪を見て、無職とは思えないと笑顔で言った。心太朗は「無職感ってそんなに簡単に出るものじゃないよ」と心の中でツッコミを入れつつも、働いていた時の方が、むしろ無職のような姿だったんじゃないかと考える。毎日、13時間労働に追われ、人間関係に疲れ切っていたあの頃。それに比べれば、今はまだ自由の始まりだ。

だが、何か行動を起こさなければ。焦燥感が彼を突き動かした。「よし、Xをやろう」と心太朗は突然思い立った。なぜXかは自分でもよくわからない。だが、何かしなければという気持ちが彼を駆り立てたのだ。特に発信できる知識や技術はないし、すべてが中途半端。しかし、それなら逆に、この無職生活そのものを発信してしまえばいいんじゃないか?同じように悩んでいる人たちに、少しでも共感や勇気を与えられるかもしれない。

心太朗には、以前使っていた趣味の小説用のアカウントがあった。それを久しぶりに開き、フォロワーの少なさに改めて驚く。だが、何もしなければ始まらない。プロフィールを更新し、まずは最初のポストを打ち込んだ。

「無職2日目。毎日13時間労働と人間関係で心身を壊し退職。ようやく解放された。家に閉じこもっていると心が病みそうなので、毎日神社に行くようにしている。アラフォー無職の日常、復活していく様子を発信していこうと思います。辛い日々を送る人たちに少しでも救いになればと思い、頑張ります。」

ポスト後、当然のように「いいね」はつかなかった。そもそも見ている人がいるかどうかもわからない。しかし、それでも心太朗は一歩を踏み出したことに満足していた。たとえ誰も見ていなくても、重要なのは自分が何かを始めたという事実。自分自身に「いいね!」を押せば、それで十分だった。

こうして、心太朗の無職生活は静かに、しかし確実に動き始めた。まだ先行きは全く見えない。だが、この小さな一歩が、やがて彼をどこか新しい場所へと連れて行ってくれるかもしれないと、彼自身も少しだけ感じていた。

心太朗の無職生活、今日も続く。

**無職3日目(9月3日)**

心太朗は、朝10時に目を覚ました。無職になってからの生活リズムは、まるで自由なダンスパーティーのよう。彼は「今日こそは!」と気合を入れたものの、布団の中でグダグダしているだけだった。彼の心の中では「布団の中が最強のシェルター!」といった感じで、まるでクマが冬眠しているようだった。

今日も神社に行くことに決めていた。「神様に『無職ライフ、何とかしてください!』とお願いしに行くぞ!」と決意を固めるも、動くのが面倒で、また一時間布団に埋もれていた。

神社に着くと、掲示板に目を引く言葉が掲げられていた。
「子孫が楽しく笑っていると神様ご先祖が喜ばれ、幸せを与えてくれます。笑いは感謝と喜びの表現です。無心に笑えば心の岩戸が開かれ、福がやってきます。」

心太朗は思わずツッコミを入れた。「おいおい、心の岩戸、どこにあるんだ?鍵はどこだ?」そう思いながらも、笑う余裕はまだ見つけられず、むしろ眠気が急襲。「人生の深い意味」を布団の中で考えるのが精一杯という日常だった。

その晩、心太朗の携帯が鳴った。LINEの通知が画面に表示され、心臓がバクバク。「まさか、職場からの『戻ってきてください!』攻撃か?お願いだから、もう勘弁して!」と頭の中で叫んでいた。

だが、心太朗は決めていた。「辞めてからの連絡にはノーリアクションだ!」引き継ぎをお願いしたにも関わらず、誰もそれに応じなかった過去が彼の心の中で燻っていた。今頃、同僚たちは「心太朗、戻ってきて!」とでも思っているのだろうか?

恐る恐るLINEを開くと、画面には母親からのメッセージが表示されていた。両親には仕事を辞めたことを言っていないので、心臓が急に早鐘を打ち始めた。まるで「親バレしたら即アウト!」なスリル満点のゲームのようだった。

心太朗は両親に対して負い目を感じていた。20代から30代半ばまでバンドをしていた彼だが、その頃、両親は「就職しろ!」と迫ってきた。心太朗は「遅めの反抗期モード」で距離を置いていたが、結局バンド活動がうまくいかず、「グラッツィエ」に就職。そこでようやく両親との関係が改善され、「親子の信頼関係バトル」は一時休戦。しかし、正社員から無職になった今、再び関係が悪化するのが怖かった。

心太朗は勇気を振り絞ってメッセージを読み始めた。
「お疲れ様、腰の痛み良くなってる? ステーキ🥩冷凍してるから、肉の腹の時に食べにおいでな。」
お母さん、今、冷凍肉を引き合いに出すタイミングじゃないんだよ〜!心太朗は思わず心の中でツッコミを入れた。

彼は葛藤しながらも、いずれは辞めたことを伝えなければならないと思った。メッセージを返すことに決めた。
「腰はマシになってるわ!でも、連勤続きでストレスがたまりまくって、澄麗に八つ当たりしちゃったりして、精神的にヤバかったから、澄麗と話し合って仕事辞めることにしたわ。今、有休中で、ちょっと休んでからまた仕事探すよ!心配かけてごめんね。」

返信が怖かったが、意外な返事が返ってきた。
「その仕事はキツいわ!いつもこんな時間まで頑張ってるのを見て、ほんまに身体が心配やわ。休みなんてないも同然やもんな。澄麗ちゃんと相談して、安定した仕事を見つけられたらいいな。子供もできるし、無理せず、また連絡してね!」

心太朗は母親に電話しようと思ったが、急に涙が溢れそうになった。このまま電話をかけたら、思わず泣いてしまう気がした。澄麗が「電話しないの?」と聞いてきたが、今の心境を伝えたら泣いてしまいそうだった。

心の中で葛藤していると、突然、涙がポロリと流れた。澄麗は彼の背中を優しく摩りながら、「大丈夫、あなたは頑張ってるよ!」と励ました。まさに心の応援団、彼は感謝の気持ちでいっぱいになった。

心太朗は自分がなぜ泣いているのかわからなかった。ただ、母親の優しさが心に染み込んでいくのを感じた。罪悪感もあったが、ただ二つだけはっきりと理解できていた。一つは、彼がまだ仕事から心が回復していないということ。そしてもう一つは、やっぱりステーキは食べたいということだった。肉の腹の時に、ガッツリ食べたい!

---

**無職4日目(9月4日)**

無職生活4日目を迎えた心太朗。若い頃はアウトドアに夢中で、友達とキャンプに行き、自然の美しさを満喫していたのに、今では仕事に追われてその楽しみはどこへやら。最近の心太朗と自然の関係は、冷め切った恋人のようだった。「もっと仲良くしていればよかった」とちょっと後悔。

「まだ残暑が続くこの時期、学生たちの夏休みも終わりかけ。今がキャンプのチャンスだ!」と心太朗は思った。以前、澄麗が「仕事辞めたらどこに行きたい?」と尋ねたところ、心太朗は「キャンプに行きたい」と言っていた。

しかし、澄麗のお腹はどんどん大きくなってきて、普通のキャンプは厳しいかもしれない。「コタちゃんが元気になるなら行ってみたい」と澄麗は言ってくれたが、妊婦には普通のキャンプは無理だった。そこで、快適さを求めて「グランピング」に行くことに決定!心太朗は、今までの人生にはグランピングなんてなかったなと考えた。

**グランピングの魅力**

グランピングとは、英語の“Glamorous”(魅力的な)と“Camping”(キャンプ)を組み合わせた新しいスタイルのキャンプで、手ぶらで豪華なキャンプ体験ができる。普通のキャンプでは、テントや寝袋、食材を持参して、自分で設営や料理をしなければならないが、グランピングではすべて用意されている。これなら妊娠中の澄麗も気軽に自然を満喫できそうだ。しかも、料理スキルを披露せずに済むのが嬉しかった。つまり、心太朗にとって都合のいいズボラキャンプ!略してズボキャン!「これまでのキャンプって、もしかしてただの修行だったのか?」と過去の自分を見つめ直した。

2日前、心太朗と澄麗は関西でズボキャンスポットを探したが、なかなか見つからなかった。「無職が遊ぶな!」と神様に言われているように思ったとき、ふとスマートフォンの広告に目が留まった。「滋賀でグランピング『VIWAKOGLASTAR』」の文字があった。(https://glastar.jp/)サイトを覗くと、意外にも空いている。ワクワク感に変わった。「超穴場かも!」と心躍らせていた。


**出発と到着**

早朝、心太朗と澄麗は車で滋賀県へ出発した。天気は最高の快晴だった。運転中、心太朗は「眠たくない」ことに気づく。無職になってから毎日眠かった彼にとって、これは久しぶりの「楽しい」感覚だった。

途中でランチを取り、「VIWAKOGLASTAR」に無事到着!琵琶湖の美しい景色が広がっていて、心太朗は感動した。スタッフたちは想像以上に丁寧な接客で、「パリピな接客かもしれない」と心配していた心太朗も安心した。

軽く案内を受けながら、澄麗のために振動を抑えて運転してくれるスタッフに感謝した。受付では無料のクラフト体験を勧められたが、心太朗はなんとなく断った。しかし、澄麗の「やりたい」という表情に負けて、二人でキーホルダー作りに挑戦することにした。「まさかグランピングでハンドメイドの時間を過ごすとは…」と心太朗は驚愕した。

**キーホルダー作り**

キーホルダー作りは、革に好きなローマ字を打ち込むシンプルな作業だった。二人はすでに考えていた子供の名前を打ち込むことにした。「女の子の名前はこれ、男の子の名前はあれ」と二人で笑い合いながら作業を進めた。打ち込む際にずれないように気を付けることに、心太朗は甘く見ていた。「こんなに楽しいとは!」と、先ほど断った自分の判断をすぐに否定した。

完成したキーホルダーは、いつか子供たちにプレゼントしようと約束し合い、クラフト体験を終えた。「これが親の心か」と、すでに親バカになっている自分を自覚した。「まさかこんなところで親バカになるとは…」

**琵琶湖のほとりでのひととき**

心太朗と澄麗は琵琶湖の目の前にあるテントを選んだ。テントの中は思った以上に広くて快適だった。「これがグランピングか、これまでのキャンプは何だったんだろう」と思いながら、琵琶湖を眺めつつコーヒーを楽しんだ。「こんな幸せ、久しぶりだな」と心から感じていた。

夕方、二人は持参した食材で鍋を作ることにした。グランピングに来て鍋を作るというのも珍しかったが、BBQの片付けが面倒だったのでこの選択にした。「これができるなら、毎日鍋でもいいかも」と考えつつ、波の音や虫の声を聞きながら自然の中での鍋を楽しむ心太朗は、このひとときに心から満足した。

夜、澄麗がシャワーを浴びに行くと、心太朗は一人でハイボールを楽しんでいた。ここでのドリンクは初日は飲み放題という嬉しいサービスがあり、彼は心ゆくまで楽しむことができた。「これが無職の特権か?」とつぶやきつつ、ふと空を見上げると、驚くほどの満天の星空が広がっていた。

「何年ぶりに星を見ただろう」と思いながら流れ星がスッと空を横切った。「俺、幸せになれた」と涙が溢れ出す。「死にたくなることもあったけど、生きていて良かった」と心太朗はつぶやいた。

**養老孟司の話**https://www.youtube.com/watch?v=znffrG1fb0E&rco=1

心太朗は以前YouTubeで「死にたい」という物騒な検索ワードで偶然見た解剖学者・養老孟司の話を思い出した。養老が学生たちに「幸せですか?」とアンケートを取った際、理由はほぼ全てが人間関係に関連していたという話が心をよぎった。

「ある人が、自分が中学生の時にいじめられた経験を本にしたことがある。14歳の時のことを24歳になった時に書いた。その本を読んだ時の印象と皆さんがここにアンケートで答えた印象が非常に似ているんです。その本の中に一言も出てこなかったことがある。それを端的に言うと『花鳥風月』なんです。花であり、鳥であり、風であり、月なんですよ。つまり広い意味の自然なんです。人の世界でない世界がほとんどないんだってことに気がついた。そうすると、子供の世界にそういうものがないと何が起こるかというと人間の世界が大きくなるんです。」

心太朗はこの数年、「花鳥風月」を忘れていたことに気づく。「綺麗な星、波の音、虫の声」これを美しいと感じる心を、久しぶりに取り戻した。澄麗が戻ってくると、二人で星空を見上げながら、幸福な時を共に過ごした。

---

**無職5日目(9月5日)**

グランピング2日目、心太朗は朝6時に目を覚ました。かつては「朝起きれない男」の称号を持つ彼が、ここに来てまさかの早起き!自然のパワーは恐るべし、いや、もはや神の領域だ!特別早く寝たわけでもないのに、心が癒されてる?心太朗は思わず「これが『自然の力』か!」と感動の涙を流すところだった。

澄麗はまだ夢の中。妊娠中にも関わらず、心太朗を癒すためにグランピングに連れてきてくれたことに感謝の気持ちが止まらない。「彼女こそ宇宙一の妻だ!」と心の中で叫びたいが、今は彼女を起こさないように、そっとテントを出る。もちろん、寝顔に「お前が宇宙一の妻だ!」なんて言ったら、彼女が目を覚ましたときに赤面必至だ。

ぼんやりとコーヒーを片手に朝日を眺めつつ、心太朗は澄麗との出会いを思い出す。甘~い思い出タイムが始まった。「澄麗との出会いは、心太朗がバンド活動をしていたとき、客として来ていた彼女に話しかけた……」と語りたいところだが、実はそれは表向きのストーリー。実際は、今流行りのマッチングアプリでの出会いだった。

心太朗は長い間、彼女がいなかった。音楽を辞めて就職した途端、出会いゼロ。入社したばかりの「グラッツィエ」で修行中の心太朗は、長時間働く中でも人間関係は良好だった。当時は本店勤務でなく、休みもしっかりあった。だが、心の中では「早く結婚したいな~」と独り言をつぶやく。「お前は結婚を望む35歳独身男だ!」心の奥で恐怖の声が響く。

ある程度仕事に慣れてきたころ、心太朗は35歳独身男としての危機感に襲われた。「友達は次々と結婚して、俺は婚活市場の化石になりそうだ!」と絶望感に包まれ、紹介してくれる友達も減少。そこでついに、マッチングアプリの利用を決意した。

ここで心太朗が言いたいのは、今や生き方に多様性がある時代だということ。結婚が全てではないが、出会いがないならマッチングアプリは一つの手段。心太朗のように見た目も収入も平均以下でも、作戦次第で宇宙一の妻がゲットできるかもしれない。年齢など関係ない。心太朗ができたのだから。

さて、心太朗の「最短で彼女を作る大作戦」を発表する!簡単にまとめると以下の通り:

作戦① プロフィール写真は顔がわかるもの
作戦② プロフィールは相手が自分と交際したイメージが沸くようにする
作戦③ 顔がタイプならいいねする
作戦④ メッセージは10通以内で誘う
作戦⑤ 週に4人と会う
作戦⑥ 目を見つめる
作戦⑦ 脈アリなら手を繋ぐ

順を追って振り返る。


**作戦①**
まず心太朗が手を付けたのはプロフィール作りだった。「最も大切なのはプロフィール写真だ!」という自信満々の信念が彼の中で芽生えていた。マッチングアプリでは写真を数枚載せられるが、特に重要なのがトップの写真だ。女性たちからの精査が始まる場面である。顔が見えない写真?それはもはや「お前、誰やねん!」という話だ。見た目に自信がないからといって遠目の写真にするのはダメ。自撮りは自殺行為。ナルシスト感丸出しで、「うわっ、こいつやばっ」と思われるのがオチだからだ。

しかし、心太朗には引きこもり生活と「グラッツィエ」での修行のおかげで、顔がはっきりわかる写真がほぼなかった。そこで、彼は一人で山に行き、スマホスタンドを使って自然な表情を狙って撮影した。彼が特に注意したのは「清潔感」だった。これが大事だとネットで教わったからだ。

こうして、顔がはっきりわかるトップ写真が完成。続いて2枚目と3枚目は、彼の雰囲気を伝える写真を選定した。過去に友人と行ったキャンプの写真とビアガーデンでの写真だ。顔はあまり見えないが、彼がどんな男かをアピールできる。女性はチャラ男には警戒するが、友達がいない男にも警戒するのだ。要は、「見た目が普通で、友達がいて、なおかつオシャレすぎない」といったバランスが求められる。

残りの写真は顔がわからなくてもOKだ。むしろ、あまり顔を出すと「こいつ、ナルシストか?」と思われるかもしれない。趣味や仕事、料理の写真で埋めていく。心太朗は当時、謎に茶道がマイブームだったので、自分が立てたお茶の写真、イタリアンレストランで働いていた時の手元の写真、外食した時の寿司の写真、そしてギターを弾いている写真(顔は写っていない)を用意した。どれも彼の不思議なセンスを映し出していた。

---

**作戦②**
次に力を入れたのがプロフィール文だった。文体は丁寧に。「俺、常識ある男だぜ!」とアピールするための自己紹介だ。まずは名前と住んでいる地域を書き、軽い経歴とアプリを始めた理由を書く。心太朗は30代前半までバンドばかりやっていたが、嘘偽りなくその事実を綴った。アプリを始めた理由は、仕事が落ち着いてパートナーと出会うためと書いた。「もういい加減、彼女が欲しいんだ!」という心の叫びもこっそり盛り込まれていた。

コンプレックスは細身の身体。休日はジムに行っていると書くことで、「ほら、俺、努力してるから!」とアピールした。コンプレックスをさらけ出すことで親近感を得る一方、ネガティブな要素は避けるのがセオリーだ。どこまでいっても、マッチングアプリでネガティブは厳禁である。

趣味やどんな交際をしたいかも書いた。特に交際については、女性たちにイメージを持たせるのが大事だと考えていた。散歩したり、外食したり、軽いおしゃべりを楽しむイメージを描けば、女性たちも「この人、楽しそう」と思ってくれるはずだ。

最後は「よろしくお願いします!」で締めくくった。心太朗は、バンド時代のマーケティング経験が活かされるとは思いも寄らず、「まさか、バンド活動がマッチングアプリで役立つとは!」と驚愕していた。

---

**作戦③**
プロフィールと写真が完成したら、次は出会いのステップだ。出会わなければ何も始まらない。心太朗はとにかく足跡を踏みまくった。マッチングアプリの足跡機能を利用して、女性たちが自分のプロフィールを見たことを確認する。年齢と住まいの近さを絞って検索し、良さそうな女性にはいいね!を押しまくる。「未来の素敵な奥さん、いないかな~」という気持ちが心の中で渦巻いていた。

ただ、いいねには限られた数があるため、無駄打ちは厳禁だった。心太朗はプロフィールを熟読せず、まずは顔がタイプかどうかをチェックする。この時点では見た目だけで判断した。いいねを押しても必ず返ってくるわけではなく、綺麗事無しに「生理的に受け付けない見た目」というものがある。それ以外は数打つことが勝負だ。

---

**作戦④**
マッチングしたら、お相手のプロフィールを確認し、基本的には心太朗の方からメッセージのやり取りを始める。心太朗から送る初メッセージは、「はじめまして、心太朗です。マッチングありがとうございます。お話ししましょう!」という、普通すぎる自己紹介だ。結局、普通が一番だと思っていた。

メッセージのやり取りは基本的に10通以内でお会いする約束をするのがポイントだ。早すぎると警戒され、遅すぎると相手が萎えてしまう。だからこそ、10通がベストだと信じていた。

---

**作戦⑤**
そして、心太朗は週に4人と会うことに決めた。「彼女を作る!」という目標に向かって一直線だった。仕事の日は会えないため、休みの日にお昼と夜にそれぞれ1人ずつ、週に4人の女性と会う計画を立てていた。彼女作りに全力投球する心太朗の姿勢は、まさに本気そのものだった。

その中の1人が澄麗だった。数回メッセージをやり取りした後、彼らは中間地点で会うことに決めた。

---

**作戦⑥**
澄麗との会話はとても楽しかった。彼女がどんな仕事をしているのか、趣味は何か、恋愛観はどうなのかを探る心太朗は、基本的に聞き手に回る作戦を取った。しかし、質問攻めは禁物だ。まずは自分のことを話し、そこから彼女に質問を広げる。これが会話術の真髄だと心太朗は感じていた。

目を見つめながら話すことで、相手に興味を示し、「あれ?この人、私に興味あるの?」と思わせることが成功のカギだ。気持ち悪いくらいが丁度いい。じっと見つめて話を聞くと、やがてお相手の方から目を逸らす。その目の逸らし方を見逃すべきではない。俯いたように逸らした時、それは脈アリだ。もちろんネットの情報だが、心太朗はマッチングアプリを通しての出会いでそれを確信していた。

---

**作戦⑦**
澄麗が脈アリだと心太朗が感じたとき、彼は一緒に散歩することを提案した。「酔っ払ったから」とか「風を浴びたい」とか、どんな理由でも良い。「もうちょっと話したい」という言い訳が一番のキーポイントだ。脈アリと判断し、彼はここで男を見せることにした。心太朗は居酒屋を出てすぐに澄麗の手を握った。「あれ?これ、成功するか!?」と内心ドキドキしていたが、澄麗は嫌がってはいない様子だった。

そして、公園で話を続け、終電までおしゃべりを楽しんだ。心太朗の恋愛攻略、まさかの成功!?という感覚が彼の心を満たしていた。


まるで心太朗がチャラい遊び人のように見えるかもしれないが、実際のところ、彼の恋愛経験は薄っぺらい薄焼きクレープのようなものだった。ネットで集めた情報を必死に守るだけの彼。いや、これが実践できているのが奇跡とさえ思える。

その翌週、心太朗はついに澄麗と正式に交際をスタートさせた。もちろん、彼はその後、マッチングアプリを速攻で退会し、「澄麗一筋」に愛を誓った。言ってみれば、「もう二度とネットで出会うなんて言わないぜ」という決意表明だ。まるで「これが俺の本気だ!」と宣言しているようだったが、果たしてそれが本気なのかどうかは不明だが。

一年後には見事に入籍し、半年後には子供を授かることに。恋愛経験の少ない心太朗の大作戦は、まさに「宇宙一の妻」との出会いという大成功を収めたのだった。「大成功」と言っても、結局、ネットの情報をそのままなぞっただけなのだが、彼の頭の中には「作戦成功! 俺天才!」という声が響いていた。








そんな宇宙一の妻が目を覚まし、心太朗と共に琵琶湖を見つめていた。二人は朝日を浴びながらグランピング2日目を満喫し、帰路に着く。こんな素敵な時間を過ごしているのに、心太朗はふと現実に戻り「帰ったらどうやって生活していこうか」という不安を抱えていたのだから、まったくもって悲観的で笑える。彼の頭の中には、グランピングの楽しい思い出から、無職の未来がデンと居座っていたのだった。



**無職6日目(9月6日)**

心太朗は、ここ最近驚くほど早起きになった。仕事を辞めたばかりの最初の2、3日は、まるでベッドと一体化したように寝てばかりだったのに、昨日から目覚めが妙にいい。…おかしい。**これが「無職の力」ってやつか?**と思わず首を傾げた。

毎朝の朝食は決まっている。納豆ご飯に生卵をかけてぐるぐるとかき混ぜるというシンプルなメニュー。これを15年も続けてきた。結婚してからは、澄麗が味噌汁を追加してくれて、少しだけ豪華になった。

そんなある朝、いつものように食事をかき込んでいた心太朗はふと気づいた。

「あれ?今日、なんか美味しいぞ!」

いや、待て。**15年も同じ朝食を食べ続けてきて、今日やっと気づくのかよ!**と自分でも突っ込みを入れたくなる。それまで「食べる=義務」だったのに、今は違う。朝の空気を感じながら、ゆっくりと食べることができる。そして、その結果、朝ご飯が驚くほど美味しいことに気づいてしまった。
心太朗は感動していた。これが「人間らしさ」ってやつだろうか。

心太朗は、仕事を辞めてから変わった日常を新鮮に感じていた。彼の無職生活は、思った以上に充実しており、少しずつ「人間らしい」生活に戻ってきたことを実感している。以下、彼の変化をいくつかのポイントに分けてまとめてみよう。

① 食事が美味しくなった

朝昼晩の食事が、まるで「グルメツアー」にでも参加しているかのような楽しさを感じられるようになった。米や魚、野菜に至るまで、一つ一つがまるで新発見。今までどれだけ味わうことを忘れていたのか、心太朗は自分の感覚の鈍さに驚いていた。

さらに、毎回「いただきます」と「ご馳走様」をきちんと言うようになったことにも彼は気づいた。これまで当たり前のことさえおろそかにしていた自分に、「どんだけ生き急いでたんだ」と心の中でツッコミを入れずにはいられない。

② 寝たい時に寝れる

かつて不眠症に苦しんでいた心太朗だが、仕事を辞めてからその悩みも徐々に改善してきた。在職中はゾンビのような生活を送り、退職直後も昼間は朦朧としていた。しかし今では、睡眠の質も量も向上している。澄麗が「前は毎晩呪われたみたいにうなされてた」と言ってきた時は、思わず「どんな寝相だよ…」と笑ってしまった。退職後に寝言すらぴたりと止まったことから、仕事がまるで悪霊のように彼に取り憑いていたことを実感する。

③ 肌艶が良くなった

久しぶりに会った知人から「肌が綺麗になったね」と言われた心太朗は、逆に「おれ、どれだけ劣化してたんだ…?」と不安になった。仕事をしていた頃は、疲れ果てて風呂に入ることさえ面倒だったのだ。しかし今では、毎晩風呂に入り、さらにはフェイスパックまで欠かさず行うようになっている。そのおかげか、心太朗の肌はみるみるうちに回復。ストレスフリーな生活が彼を「美肌男子」へと進化させた。美容系YouTuberデビューも夢ではない…かもしれない。

④ 家族との時間が増えた

仕事をしていた頃、心太朗の生活は常にギリギリだった。朝は寝坊、夜は食事を済ませてすぐに寝るだけ。休みの日もベッドから離れられず、澄麗との会話もほとんどなかった。そんな日々が続き、いつもイライラしては彼女に八つ当たりすることもしばしば。**よく離婚されなかったな…**と冷や汗をかく心太朗。

だが、今では一緒に買い物に行ったり、何気ない時間を一緒に過ごすことが増えた。心太朗は、澄麗の体調を気遣う余裕すら持てるようになった。「おれ優しくなったな!」と自信を持ちながらも、心の中で「いや、これがスタート地点だったんだよ」と一人で突っ込む。

⑤ 周りは思った以上に優しかった

退職当初、心太朗は社会に対する罪悪感でいっぱいだった。「これで社会の落伍者か…」と一人で落ち込んでいたが、意外にも周囲は温かかった。澄麗や両親、さらには義両親までもが「無理せず休んで」と優しい言葉をかけてくれたのだ。

彼はもっと非難されるだろうと思っていたが、その反応に驚き、勝手に周りを敵視していたことに気づいた。これを機に本音で話せるようになり、孤独感も少しずつ薄れていった。心太朗は、実は自分がちゃんと社会に受け入れられていたことをようやく実感した。

⑥ よく笑うようになった

澄麗に対して以前はイライラすることが多かったが、今では彼女の明るさや優しさを素直に受け入れ、笑顔が増えた心太朗。笑顔で過ごすことの大切さを知り、彼はようやく澄麗の存在に感謝できるようになった。心の中で「澄麗よ、今まで本当にごめん…」とつぶやく日々が続いている。

⑦ 自分の価値観を見直す

最近、心太朗はジャーナリングを始めた。ノートに思いをひたすら書き殴るだけだが、これが驚くほど効果的。自分自身と向き合う時間を持ち、家族や健康が何より大切だと改めて気づかされるようになった。仕事の選択肢は無限に広がり、やりたいこととやりたくないことがはっきりしてきたが、**やりたくないことが多すぎないか?**と心の中でまた突っ込む。

不安は完全に消えたわけではないが、心太朗は仕事を辞めたことに後悔はない。彼の「人間らしさレベル」は日々更新中だ。

**無職7日目(9月7日)**

心太朗は無職生活を始めて1週間が経過した。意外と早いス時期に心身が回復していることに、自分でも思わず「俺ってこんな単純な生き物だった?」と疑ってしまったほどだ。眠たい時には遠慮せずに寝て、グランピングで自然パワーを吸収した結果、まさかの「心も体も元気です!」状態。巷でよく聞く「自然に癒される」なんて台詞が、まさかここまで効くとは思わなかった。仕事に戻れるんじゃないかと一瞬頭をよぎったが、「いやいや、まだそれは無理っす。もうちょっと無職を楽しませてくれ」と、彼は無職ライフを満喫しようと決めた。

そんな彼に、現実という名のパンチが迫ってきた。「あれ、俺、あと2ヶ月で父親じゃん」。予定通りなら、父親デビューまで残りわずか。いや、無職のままでデビューとか、心太朗自身が心配でしかない。「まだ働くの怖い…」なんて言い訳しているが、そもそも父親になる実感すらないという問題。澄麗はお腹もかなり大きくなって、すっかり母になる準備万端な感じだが、心太朗は「父親の予習ゼロ」。よく「母は子供が産まれる前に母になる、父は産まれてから父になる」って言うけど、今のところ全然ピンとこないどころか「本当に俺、父親になれるの?」というレベル。

そんなこんなで、赤ちゃんが産まれる前に必要なものを揃えなきゃいけない時期に突入。働いてた頃は13時間労働や休日出勤で、準備なんてする余裕は皆無。しかし、今は無職!つまり、動ける時間はある!…いや、多少は、、。

そこで、澄麗と一緒に赤ちゃんグッズを買いに行くことに。驚いたことに、家の周りには赤ちゃん用品店が意外と充実していて、西松屋、ベビーザらス、アカチャンホンポ、バースデイまで揃っている。「赤ちゃん用品のドリームチームかよ」って思うほど。しばし無職という事実を忘れ、2人はベビー用品選びに没頭する。

澄麗がしっかりとリストアップしてくれた必要なアイテムは次の通り:

- チャイルドシート(最重要…らしい。まだ無職だけど安全には投資しなきゃ)
- バウンサー(簡易ベビーベッド)
- 紙おむつとおしり拭き(どれだけ使うか未知。たぶん魔法のごとく消えるらしい)
- 肌着10枚、服4着、アウター1枚(11月生まれだから)
- 布団(寝具は絶対重要)
- 哺乳瓶、ミルク(哺乳瓶を洗うグッズも買うべき)
- 爪切り(赤ちゃんの爪って、いつの間かに伸びるらしい)
- ベビークリーム、ソープ、洗濯用洗剤(赤ちゃんの肌は超敏感)
- ベビーバス(赤ちゃんのお風呂)
- 母乳パッド(え、これ何に使うの?)

バウンサーは心太朗の姉がお祝いでくれるらしく、ベビーバスは心太朗の甥が使っていたものが実家にあるとして、心太朗は、「ベビーカーや抱っこ紐も必要なんじゃないの?」と思いつつも、澄麗曰く、焦る必要はないらしい。新生児は首が据わっていないため、ベビーカーや抱っこ紐はすぐには使えない。外出する機会もそんなに多くないし、抱っこしている間は軽いので問題ない。むしろ、産まれたばかりの赤ちゃんに早く買っても、結局あまり使わないという話もよく聞く。焦って「どんだけ無駄遣いしたんだ」と後悔するより、慎重に選ぶ方が賢明だと心太朗は思った。

それにしても、最も高価なのはチャイルドシートだ。ピンからキリまであり、10万円を超えるものも珍しくない。心太朗は「さすがにそこまでは必要ないだろう」と考えたが、交通ルールでチャイルドシートは150センチまで義務付けられている。「150センチって、どこの大人が乗るんだ?」と内心ツッコミを入れつつ、子供の安全が最優先なのは言うまでもない。しかし、これもどうせ3歳くらいでサイズアウトしてしまう。「じゃあ、3年で買い替え?これはもはや「お金をドブに捨てる」レベルだ」と心太朗は思った。だから、最初から高価なものを買う意味はない。3歳を過ぎたら、クッションや座高を上げるだけのシートで充分らしい。むしろ、「買い替え前提」の選び方をした方が賢いだろうと2人は考えた。下の子ができたら、そちらに回す手もあるのだ。

いろんな店を回った2人は目星をつけていたが、最後に立ち寄った西松屋で「秋の感謝祭セール」に遭遇。そこで目にしたのは、まさかの1万円のチャイルドシートだった。「これって運命?」と心太朗は思わず心が躍った。安全性を店員に念入りに確認し、ネットでもチェックして、満場一致で「これでいいじゃん!」となった。しかも、心太朗の車は古いためISOFIX(固定用のアレ)がない。「これがあるかないかで値段が変わるのか!自分の車が古くてよかった…のか?」と一瞬疑問に思ったが、逆に安く済んだのだ。「1万円は超お得だ。まさにラッキー買い物だ!」

次に2人が直面したのはおむつ問題。紙おむつとおしり拭きがどれだけ必要か、見当もつかなかった。しかし、ネットで調べると「異常な量を消費する」との情報が目に入った。とりあえず最初の2週間分だけ購入しておこうと2人は決めた。赤ちゃんの肌に合うかどうかもわからないため、慎重になるべきだ。ここで失敗すると、後で地獄が待っているらしいからだ。

布団もセットで購入し、悩む時間をゼロにした。これで安心だ。そして、最も楽しかったのは服選びだった。肌着を10枚セットで購入し、一安心した心太朗は、澄麗とともに服を2枚ずつ選ぶことにした。しかし、選んだ服はまさかの全く同じだった。「どんだけ息が合ってるんだ、俺たち」と心太朗は驚いた。残りの2枚は別々に選んだが、これもまたお揃いっぽくなり、夫婦の絆を感じた。「さすがは“仲良し夫婦”ってやつだ」と心の中で自画自賛。

レジで清算を済ませると、合計約4万円だった。チャイルドシートだけで3〜4万見込んでいたため、思いがけず節約できた。「無職でもいけるんじゃないか」と心太朗は胸を躍らせたが、油断は禁物だと自分に言い聞かせた。「これが無職の生活力か?」と少し自信がついた心太朗だった。

帰宅すると、すぐにチャイルドシートを車に装着した。赤ちゃんの布団も敷いてみると、心太朗と澄麗の布団の間に小さな可愛い布団が並ぶ。「これ、なんかニヤけちゃうな」と心太朗は感じた。澄麗が嬉しそうに赤ちゃんの服を畳んでいる姿を見て、心太朗は彼女が完全に「母親の顔」になっていることに気づく。「ああ、やっぱり子供って魔法だな」と思いつつ、自分も少しずつ父親になる実感が湧いてきたが、「いや、まだまだこれからだろうな」と心の中で自分に言い聞かせた。