外の世界は店内の喧騒が嘘みたいな静寂に包まれている。
里村君は道路を挟んだ向かい側の街灯の真下に立っていた。その姿は光輝いて見える。きっと、街灯に照らされている事だけが理由ではないだろう。
私は左右を確認してから、小走りで道路を渡った。
「ごめん。お待たせ」と言うと、里村君は首を左右に軽く振った。
「どうしたの? ふたりで話がしたいって……」
「うん。君に伝えておきたいことがあって。君にはとても感謝してる。君に歌を聴いてもらえて、本当に良かったと思ってる。僕はこれからも、ずっと、歌を歌っていくつもり。有名にはなれないかもしれない。でも、僕にとって、そんなことはどうでもいいんだ。歌を歌い続けることが大切だと思ってる」
里村君の話は不思議だ。自分が思っている事を話しているだけなのに、それが、歌のように私の心に響いてくる。
「うん。そうしてほしいな。私は、そう願ってる……」
街灯の明かりで陰影がはっきりと出ている、里村君の顔を見つめて言った。
「ありがとう。ひとつ、お願いがあるんだ」
里村君がそう言うと、街灯が瞬いた。
「なに?」
「うん」
私が返事をした時には、里村君は自分の世界を築いていた。
静寂が静謐《せいひつ》に変わる。
ほんの一瞬で。
里村君が歌い始めたのは、あの時の歌だった。あの冬の雪が降っていた、あの時。そうだ。あの雪は、あの年の初雪だったはず。今、思い出した。
歌い始めて、すぐに、あの時とは違う事に気が付いた。歌には日本語で歌詞が乗っている。
私は瞳を閉じた。里村君の歌声は相変わらずだった。自然と心に寄り添ってくれる。
歌詞も自然と心に届いてくる。その歌詞は、どうやら、遠く離れた地で生きる事を決めた仲間に向けた歌のようだ。
私は少しだけ目を開けて、里村君を見た。
その姿は街灯に照らされて、まるで、プロのステージで歌っているみたいだ。そうか。もう、立派なプロだ。里村君の歌を必要としている人は確実にいるのだから。私みたいに。
これから、里村君は、もっともっと、たくさんの人に必要とされるだろう。気が付けば、私の手が届かない場所まで、瞬く間に行ってしまうかもしれない。
でも、それでいい。
里村君の歌は、もっともっと、たくさんの人に聴かれるべきだ。たとえ、本人が望んでいなくても。
私の目からは、いつの間にか涙が零れていた。
一筋、また、一筋。それは、地面にあっという間に落ちて、一瞬で乾いた。私の想いとは逆だ。私の想いは、どんどん膨れ上がっていく。気持ちが心から溢れ出したのと同時に、里村君の歌の最後のロングトーンが重なった。
私の心は揺さぶられた。心どころか魂ごと揺さぶられた。
鳥肌が立って、身震いをした。
里村君は歌い終えると、私の双眸をじっと見つめて、深くお辞儀をした。
私は夜の闇の静けさを破るように拍手を送った。しばらくの間、私の拍手だけが辺りに響き渡った。
「ありがとう」と里村君が言った。
「私こそ、ありがとう」
「僕は歌でしか、自分の想いを、他人には伝えられない。君が上京してから、辛い思いをしていることは、すぐにわかった」
「上京してから、上手くいかないことばかりだった……。何度も、あの頃に戻りたいと思った……」
「うん。僕もあの頃は、とても満ち足りていた。でも、あの頃には戻れないんだ。僕は、君が困っていても、何もしてあげられない。でも、歌は歌い続ける。何があっても、歌い続けていくから」
「ありがとう……。それで、じゅうぶんだよ。里村君が歌を歌い続けてくれることが、何よりも支えになる。今日、里村君に会うのは、すごく楽しみだったけど、少しだけ不安な気持ちもあったんだ。里村君が、歌を辞めてたらどうしようって。でも、それは、私の勝手な思い。里村君は里村君の想いで、歌を続けてた。私も、見習わなくちゃ……」
外は静かだ。私たちの言葉が次々と夜の闇に吸い込まれていく。
「ねえ、里村君? 覚えてるかな? さっきの歌を初めて歌ってくれた日のこと」
「もちろん」
「五年も経ったんだね……」
「そうだね」
「早かった?」
「どうかな」
「ありがとうね。いろいろ……」
「何もしてないよ」
私たちが話している間、車も人も風さえも通らなかった。
私はふたりで外に出てから、ずいぶんと時間が経っている事に気付いた。亜紀子が心配しているはずだ。里村君とでなければ、とっくに様子を見に来てくれているはずだ。
「あっ……。そろそろ、戻らないと。みんな、心配してるかもよ」
「そうだね。戻ろう」
「うん。じゃあ、先に戻ってるね」
今、里村君と並んで歩くのは、なんだか恥ずかしい。
「ちょっと、待ってもらえる」
里村君はそう言うと、アウターの内ポケットから、何かを取り出した。
「渡したい物があるんだ」
里村君は、くしゃくしゃの紙袋に包まれた何かを差し出した。
「なに……?」
「うん。さっきの曲を、録音しておいたんだ。嫌じゃなければ、受け取ってもらえないかな?」
「もちろんだよ。ありがとう。嫌なわけない。すごく、嬉しい……」
里村君の大きな手のひらから、くしゃくしゃの紙袋を受け取る。そして、里村君に背を向けて、その紙袋を胸元で抱きしめた。
その姿勢のまま、
「じゃあ、先に戻ってるね」と言った。
今の顔は、とてもじゃないけれど、里村君には見せられそうにない。
だってきっと、笑われそうな顔をしてるだろうから。
里村君は道路を挟んだ向かい側の街灯の真下に立っていた。その姿は光輝いて見える。きっと、街灯に照らされている事だけが理由ではないだろう。
私は左右を確認してから、小走りで道路を渡った。
「ごめん。お待たせ」と言うと、里村君は首を左右に軽く振った。
「どうしたの? ふたりで話がしたいって……」
「うん。君に伝えておきたいことがあって。君にはとても感謝してる。君に歌を聴いてもらえて、本当に良かったと思ってる。僕はこれからも、ずっと、歌を歌っていくつもり。有名にはなれないかもしれない。でも、僕にとって、そんなことはどうでもいいんだ。歌を歌い続けることが大切だと思ってる」
里村君の話は不思議だ。自分が思っている事を話しているだけなのに、それが、歌のように私の心に響いてくる。
「うん。そうしてほしいな。私は、そう願ってる……」
街灯の明かりで陰影がはっきりと出ている、里村君の顔を見つめて言った。
「ありがとう。ひとつ、お願いがあるんだ」
里村君がそう言うと、街灯が瞬いた。
「なに?」
「うん」
私が返事をした時には、里村君は自分の世界を築いていた。
静寂が静謐《せいひつ》に変わる。
ほんの一瞬で。
里村君が歌い始めたのは、あの時の歌だった。あの冬の雪が降っていた、あの時。そうだ。あの雪は、あの年の初雪だったはず。今、思い出した。
歌い始めて、すぐに、あの時とは違う事に気が付いた。歌には日本語で歌詞が乗っている。
私は瞳を閉じた。里村君の歌声は相変わらずだった。自然と心に寄り添ってくれる。
歌詞も自然と心に届いてくる。その歌詞は、どうやら、遠く離れた地で生きる事を決めた仲間に向けた歌のようだ。
私は少しだけ目を開けて、里村君を見た。
その姿は街灯に照らされて、まるで、プロのステージで歌っているみたいだ。そうか。もう、立派なプロだ。里村君の歌を必要としている人は確実にいるのだから。私みたいに。
これから、里村君は、もっともっと、たくさんの人に必要とされるだろう。気が付けば、私の手が届かない場所まで、瞬く間に行ってしまうかもしれない。
でも、それでいい。
里村君の歌は、もっともっと、たくさんの人に聴かれるべきだ。たとえ、本人が望んでいなくても。
私の目からは、いつの間にか涙が零れていた。
一筋、また、一筋。それは、地面にあっという間に落ちて、一瞬で乾いた。私の想いとは逆だ。私の想いは、どんどん膨れ上がっていく。気持ちが心から溢れ出したのと同時に、里村君の歌の最後のロングトーンが重なった。
私の心は揺さぶられた。心どころか魂ごと揺さぶられた。
鳥肌が立って、身震いをした。
里村君は歌い終えると、私の双眸をじっと見つめて、深くお辞儀をした。
私は夜の闇の静けさを破るように拍手を送った。しばらくの間、私の拍手だけが辺りに響き渡った。
「ありがとう」と里村君が言った。
「私こそ、ありがとう」
「僕は歌でしか、自分の想いを、他人には伝えられない。君が上京してから、辛い思いをしていることは、すぐにわかった」
「上京してから、上手くいかないことばかりだった……。何度も、あの頃に戻りたいと思った……」
「うん。僕もあの頃は、とても満ち足りていた。でも、あの頃には戻れないんだ。僕は、君が困っていても、何もしてあげられない。でも、歌は歌い続ける。何があっても、歌い続けていくから」
「ありがとう……。それで、じゅうぶんだよ。里村君が歌を歌い続けてくれることが、何よりも支えになる。今日、里村君に会うのは、すごく楽しみだったけど、少しだけ不安な気持ちもあったんだ。里村君が、歌を辞めてたらどうしようって。でも、それは、私の勝手な思い。里村君は里村君の想いで、歌を続けてた。私も、見習わなくちゃ……」
外は静かだ。私たちの言葉が次々と夜の闇に吸い込まれていく。
「ねえ、里村君? 覚えてるかな? さっきの歌を初めて歌ってくれた日のこと」
「もちろん」
「五年も経ったんだね……」
「そうだね」
「早かった?」
「どうかな」
「ありがとうね。いろいろ……」
「何もしてないよ」
私たちが話している間、車も人も風さえも通らなかった。
私はふたりで外に出てから、ずいぶんと時間が経っている事に気付いた。亜紀子が心配しているはずだ。里村君とでなければ、とっくに様子を見に来てくれているはずだ。
「あっ……。そろそろ、戻らないと。みんな、心配してるかもよ」
「そうだね。戻ろう」
「うん。じゃあ、先に戻ってるね」
今、里村君と並んで歩くのは、なんだか恥ずかしい。
「ちょっと、待ってもらえる」
里村君はそう言うと、アウターの内ポケットから、何かを取り出した。
「渡したい物があるんだ」
里村君は、くしゃくしゃの紙袋に包まれた何かを差し出した。
「なに……?」
「うん。さっきの曲を、録音しておいたんだ。嫌じゃなければ、受け取ってもらえないかな?」
「もちろんだよ。ありがとう。嫌なわけない。すごく、嬉しい……」
里村君の大きな手のひらから、くしゃくしゃの紙袋を受け取る。そして、里村君に背を向けて、その紙袋を胸元で抱きしめた。
その姿勢のまま、
「じゃあ、先に戻ってるね」と言った。
今の顔は、とてもじゃないけれど、里村君には見せられそうにない。
だってきっと、笑われそうな顔をしてるだろうから。