その日家に帰って部屋で着替えていると、玄関の開く気配がした。母さんだ。こんな夕方に帰って来るなんて珍しい。
「仕事、早く終わったの?」
「あー違う違う、また泊まり込みだから着替えだけ取りに……それ、どうしたの?」
 俺の姿に目を留める。甲斐が勝手にポチった部屋着のパーカーは、胸のところに意味の通じない英語のロゴが入っていて、蛍光紫で、フードには猫耳がついているという気の狂った代物だ。が、着心地がいいのでつい着てしまう。……だってせっかくあるし。それ以外の意味はない。
「と……友だちが、選んでくれて」
「ちょっとカツアゲ? されてて」とはもちろん言えず、どうにか言葉を選んでそう言った。
「そう」
 いつも一分一秒も無駄な時間は使いたくない、みたいな母さんが荷造りの手を止めて、微笑む。
「いいわね。似合ってる」

 ******


 その日はなにも荷物が届かなかった。母さんが再び出かけたあと、甲斐も来ず、家は海の底みたいにしんとしている。
毎日少しずつ買っていた漫画はもう最新刊まで読んでしまって、次が出るのは数ヶ月後だ。
 ということは、それまで甲斐は来ないのかもしれない。

 来ないなら、来ないでもいい。
 ただ、なにか今すぐ話したいことがあるような気がして、でも、それがなんなのかわからなかった。

 ジンジャエール買いすぎたな……
 ダイオウグソクムシのぬいぐるみに頭を預けて、スマホを覗く。

 なにも欲しいものはない。

 なんでも買えるのに。

 昔からそうだ。だらだらと時間を無為に費やして、あとに残るのはむなしさだけ。

 そうわかってるのに、ひとりになるとやっぱり通販サイトをのぞくくらいしか俺にはやることがない。

 あれ? 
 俺は眉根を寄せた。
 通販サイトに、なにかが未発送になっていることを告げるアイコンバッジがついている。

 タップすると、商品が表示される。わたがし器。ピンクやらうすむらさきやらを基調に作られた、いわゆる子供向けのクッキングトイというやつだ。
 そういえば数日前「これは金払うから」とかなんとか言って、甲斐がなにかをポチっていた気がする。
「いや他のも払えよ」と思いつつ、もちろんそうは言えず、適当に流していたけれど、ラッピングの指定までしてあるのを見て思い当たった。

 これ、もしかして「うちにいるちび」へのプレゼントなんじゃないか?

 さすがにあんなに毎日来ていると、甲斐の家の事情もなんとなく察してくる。
 下に弟妹が何人もいること。
 そのために金のかからない家から一番近い高校に進学することは、親によって勝手に決められていたこと。
 春休みのバイト代は、当然のように半分以上家計の支払いに使われたこと。
 あんなにフィジカルに恵まれているのに、甲斐はなんの部活にも所属していない。……金と時間がかかるからだろう。
 両親は悪い人ではないみたいだが、話を聞いていると、その距離の近さが逆につらい、と俺は思った。
 甲斐の人生が、あまりにも自然に「家族という歯車」に組み込まれすぎている。
 うちが特殊なだけで、それが普通なのかもしれないけど。

 自分一人の部屋なんてもちろんない。自分のバイト代であっても、なにかを買ったりすれば勝手に開けられるのが当たり前。
 このおもちゃは、きっとサプライズで、こっそり買いたかったのだろう。

 それならそうと言えばいいのに。陽キャのくせに変なところで遠慮するなよ。
 俺は鼻の付け根に皺を寄せる。
 なんで未発送なんだろう?
 詳細をよくよく見て気がついた。
 バンドルの口座が空だ。代金の引き落としができてない。
 うっかりしていた。「経済的な不自由は絶対にさせない」という言葉通り、俺の口座には小遣いが普通の高校生より多めに振り込まれていたけれど、甲斐が来るようになって、出費が増えていたのだ。
 もちろん、今まで勝手に使われたことを思うと、こんなの無視したっていい。
 だけど――

『いいわね。似合ってる』

 あいつの選んだ服のおかげで、久し振りに母さんが俺を見てくれた。
 山ほどの段ボールは、いつの間にか片づけられた。
 買い物が、――毎日が、少し楽しくなったんだ。

 気づいたら俺は、部屋中の現金をかき集めていた。