「あの、先生」
「――何だ」

 一瞬身構えそうになった一成だったが、伝馬は熱が収まったような静かな声で言った。

「俺が一学年のクラスで優勝したら、話を聞いてもらえますか?」

 一成はその声を辿るように伝馬に視線を向けた。伝馬は(まなじり)凛々(りり)しく、この上なく真剣だったが、その表情は嵐が過ぎ去ったように落ち着いていた。

 良かったと一成は安堵を感じながらも、不思議そうに小首をかしげる。桐枝をどうこうするつもりもないのに。そんなに気になるのか?

「――わかった」

 話を聞くだけだったらいいだろうと思った。

「優勝したらな」
「優勝します」

 一瞬のうちにパアッと顔を輝かせた伝馬は、間髪入れずに返す。

「絶対に優勝します! ありがとうございます!」

 馬鹿丁寧に上半身を折り曲げて、一礼をした。

「別に頭を下げることじゃない」

 一成は仕方ないなと優しく見つめる。俺は話を聞くだけなのに。この律儀なところは伝馬らしいというか。

「はい」

 ちょっと気恥ずかしそうに頬を赤らめた伝馬は、まだもじもじしている。そろそろ潮時だと、一成は感じた。

「俺はまだ仕事が残っている。桐枝も部活に行け。話があるなら、また後だ」

 伝馬は小さく下を向く。嫌だという意思表示を微妙な態度で示したが、結局一成の言う通りにした。

「先生、失礼しました」
「ああ、またな」

 一成も返事を投げて、机に戻ろうとした。嘘ではなくて、本当に業務は残っている。やれやれ、早く終わらせたいと背伸びをすると、いきなり「先生」と声がかかった。

 振り返れば、伝馬がドアの前で佇んでいる。

「どうした」

 伝馬は身じろぎをした。何か躊躇っているようだ。

「あの……聞いてもいいですか?」

 迷いを含んだ口調だが、眼差しはまっすぐに一成を捉えている。

「何だ」

 相変わらずだと一成は呆れた。どんな時でもまっすぐな目をする。呆れるほど眩しいくらいに。

「先生は――好きな人がいたんですか」

 伝馬は一瞬黙ってから、ひと息に言った。

「……」

 一成はやや驚いたように口を開ける。

 ――いきなりどうした。

 突然のことに内心狼狽(うろた)える。そんなことを聞いてどうする――と、口にしかけて呑み込んだ。

 先程のやり取りが脳裏をかすめる。

 伝馬はドアに手をやって、いつでも廊下へ出られる態勢を取っている。しかしその顔はずっと一成へ向けられている。

 もの問いたげな眼差しは、若さに満ち溢れ、どこまでも真摯だ。

 一成は手で口元を触れる。昔の自分が、今の伝馬に重なった。

「そうだな」

 肩で息をついた。

「いたな」

 一成はやるせなさそうに目を落とす。自分でも本当にわからない。今でも榮が好きなのかどうか――

「……ありがとうございました」

 低い声が遠く聞こえる。

 一成は顔をあげる。伝馬の背中が視界に入って、ドアが重たそうに閉じられた。

 その場に残ったのは、ドアを見つめて立ち尽くす一成と、誰かがため息をついたような静寂だった。