伝馬は一成をずっと見つめている。一度も瞬きをしないので、それこそ息をしているのか心配になるレベルだ。一成は大丈夫かと伝馬の様子を窺いながら、肩から手を引いた。

「――先生」

 ほどなく伝馬は声を上擦らせて、俯く。

「ありがとうございます」

 そのまま頭を下げた。

「そんな堅苦しく受け取るな。リラックスしていけ」

 一成は気楽に言う。頼まれごとを忘れていた自分が悪いので、伝馬が訪ねてきてくれて良かったと逆に感謝したくなった。

「先生」

 伝馬は改まったように、規律正しく背筋を伸ばす。

「俺も……先生に話したいことがあるんです」
「何だ」

 一成は気軽に返事をしながら、伝馬の様子に首をかしげる。なにやら、深刻そうな感じだ。先程まで硬かった表情は、ひどく真剣な色合いを帯びている。

「あの、俺……」

 そわそわして落ち着きがない。

「どうした、何かあったのか」

 激励を受けに来ただけではないようだと、一成は訝る。別の相談事であれば、じっくりと話を聞いて対応しなければならない。誰もいないソファーに視線を走らせた。

「俺、その……両道会にクラス代表として出場したら、先生に……」

 伝馬は言葉を切って、顎を引き、考え込む。どこか思い詰めた表情だ。

 ん? と一成の脳裏に過去の記憶がS字フックで引っかかる。前にも似たような表情を目撃したような気が――

「いや、やっぱり……出場したらじゃなくて。俺が一学年のクラスで優勝したら」

 伝馬は思いついたように顔を上げて、一成を見る。ひたむきな眼差しが熱い。

 今度は一成の心がそわそわする。ヤバいと直感した。

「俺が優勝したら――もう一度先生に!」

 ここで、相談室のドアがタイミングよく開いた。

 助かったと、一成は真顔で振り向く。ずけずけと入ってきたのは、順慶だった。

「お、何か相談事か」

 順慶は室内の空気などお構いなしに二人を交互に見て、自分の机に向かう。放課後だが、白いワイシャツにスーツ姿である。

「どうした、筒井先生」

 さすがに生徒の前でじいさん呼ばわりはできない。放課後なのに珍しく柔道着に着替えてはいない順慶に、何か用事でもあるのかと思った。

「忘れ物を取りに来た。最近年のせいか、忘れっぽくなってな」

 机の上に転がっていた使い古しのボールペンを手に取り、それをワイシャツの胸ポケットに差し込んでクリップで留めた。

「あまり遅くならないようにしろよ。ご両親が心配するからな」

 一成にニヤリとし、伝馬にも目で笑いかけると、颯爽(さっそう)と相談室を出て行った。

 一成は呆気に取られて、閉じたドアを眺める。一体じいさんは何しに来たんだと、わけがわからない。机の上のボールペンは、ずっとそこに置かれている代物である。昨日も順慶はそのボールペンを使って、机の上で書きものをしていた。それを忘れ物として取りに来たとか、全く意味不明である。

 ――呆けたか。

 と、阿呆らしく思ったが、一成はふっと息を吐いて頭を振った。

 ――俺と桐枝がいたからか。

 こっそり首をすくめる。伝馬が相談室へ入るところを目撃したのかもしれない。それで様子を見に来たのかもしれない。なにせ、伝馬が一成に告白しに来た時、衝立(ついたて)の陰に隠れて狸寝入りをしていたのだから。

 ――まあ、しかし助かった。

 あのまま桐枝の話を聞いていたら――一成はホッとしたのも束の間、伝馬が痛いくらいに自分を見つめているのに気づいた。

 いつも直球なその眼差しは、どことなく薄暗い(かげ)(はら)んでいる。

 一成は自分を落ち着かせるために、またネクタイを締め直す。おそらく桐枝は――表情からも態度からも言動からも丸わかりである。

 ――桐枝は、俺に告白したいんだな、もう一度。

 そういうことかと、一成は伝馬に感づかれないように、努めて平静を装う。そうなったら、どうするか。一成はおもむろに右手を握る。またストレートパンチをしようか、それとも往復ビンタにしようか……

 室内に重たい沈黙が横たわる。

 伝馬は懸命に歯を食いしばっているようだった。

「桐枝」

 一成は空気を変えようと、優しく言葉をかける。

「体育祭は、生徒全員で参加するものだ。勝敗も大事だが、生徒たちが一緒になって競技を行うことに意味がある」

 体育祭の話に意識を集中させよう。一成も高校生時代の想い出が、回転ドアとなって甦ってくる。

「実は俺も、一度だけ文武両道会のクラス代表に選ばれたことがある」

 伝馬が驚いたように目を大きくした。その反応が意外そうで、一成は苦笑いする。

「三年生の時だったが、楽しかった」

 ――そういえば、俺も緊張していたな。

 伝馬のように。

 ――桐枝と違って、俺は減らず口を叩いてばかりだった。

 同級生や友人たちの前では強がっていたが、内心は戦々恐々だった。それを素直に口に出せたのは、榮だけだった。榮は微笑を浮かべて言った。楽しみなさい、一成と。

「だから、思う存分楽しめ、桐枝」

 榮のことがよぎって、胸が痛くなる。どうしてあの人のことを想う度に、苦しまなければならない――一成は硬く口を結ぶ。思い出すなと念じる。桐枝には関係がない。

「――楽しみます」

 伝馬の張り詰めていた顔が、ゆっくりと崩れた。