「どうして、黙っていたんですか」

 一成は榮の家を訪れるなり、前置きもなく切り出した。

「俺に話せないことなんですか」

 キッチンカウンターでティーカップを手にしている榮へ、強い調子で詰め寄る。

 時間は夜九時をまわっている。一成は残業して学園での様々な業務を終えたあと、榮の家へ直行した。身体は疲れていたが、榮に連絡をすると、来てもいいと返事があったので、愛車を飛ばしてきたのだ。

 榮は白磁のティーカップの丸いハンドルを指で持ち、カウンターキッチンの柱に肩をよせて一成を見つめている。まるで招かねざる侵入者を前にしているように、冷ややかな目だ。

「一成、私と会話をしたいのなら、私にわかるように話しなさい」

 だが、一成はひるまなかった。

「話を逸らさないで下さい。どうして、学園の体育祭に来ることを隠していたんですか」

 数日前に順慶から話を聞いた一成は、居ても立ってもいられずに、すぐさま榮に確かめようとした。しかし榮は忙しいようで、すぐには会えなかった。ニ、三日後にと言われたので、疲れた身体を引きずって来たのだ。

 ――喧嘩腰は駄目だ。

 愛車のアクセルを踏みながら、落ち着けと自分に言い聞かせたが、我慢していた分こらえきれなかった。

 ――まるでガキだな。

 一成は自虐(じぎゃく)的に鼻で笑ったが、態度を改める気持ちにはならない。

 榮は柱に肩を寄せたまま黙っている。その表情はひどく鬱陶しげだ。

「君の話は」

 声まで素っ気ない。

「私が今、紅茶を飲むことよりも重要なのか?」
「そうです」

 一成は榮のペースに飲まれないように、心持ち身を引く。

「俺は、学園の教師をしていますから。貴方もご存じのように」
「君の皮肉は率直だな」

 榮は軽くいなすように言う。

「ええ、それが俺の性分です」

 一成も引かない。

「だからこそ、教師の俺に一言も話してくれなかったことに、違和感を持ったんです。何が目的ですか」

 低空飛行をし続けて着地点が見つからないような榮との押し問答には、正直苛立っていた。高校生だったら、謎解きゲームを解くような熱心さで「答え」を見つけ出そうとしただろうが、もう高校生ではない。一成は小さくため息をついた。

「目的は、学園の体育祭を見学することだ」

 榮はティーカップを持ったまま、面倒な用事を片づけるように告げる。

「君に話さなかった理由は、話すべき理由がなかったからだ。これで納得したか、一成」

 聞いた瞬間、一成は頬が熱くなった。今まで頭の片隅にそっと置いていた不信感が、ぞわぞわと這い出てくる。だが成長して得た自制心で、いつもどおりの表情を保った。

「わかりました」

 榮は言葉で相手を挑発する。一成も榮にならって言い返した。

「納得はしませんが、貴方が素直に話さないのはわかっていたので、納得するように自分に言い聞かせます」

「いい子だ」

 榮は冷たく言い放つ。

 一成の肌がわずかに震えた。だが唇を強く結んで顔を逸らした。榮を目にしていたら、感情がかき乱され、身体が否応なしに思い出す――自分が女のように抱かれていることを。

「――帰ります」

 もっと言いたい気持ちはあるが、これ以上榮を前にしていたら、平静でいられる自信がまるでない。一成は心の隅に(くす)ぶるものから目を背けるように、背中を向けた。

「帰るのか」

 榮の言葉が意外そうに紡がれる。

「残念だ」

 とても穏やかな声だった。

 一成はドアを前にして、背を向けたまま固まる。榮の声が身体に絡まり、身動きできなくさせようとする。それは絹のように優雅で良質なのに、縄のように頑丈で、しなやかに誘惑する。

 ――振り返るな。

 唾を呑み込み、胸の動悸を落ち着かせた。振り返っては駄目だ――一成は考えるよりも早くドアを開き、通路へ飛び出て、手早く閉めた。

 通路は人気がなく、隅々まで静まり返っている。LEDライトの照明が異様なほどに眩しい。

 数秒、ドアを背にして立っていた一成は、暗い表情のまま足早に立ち去る。まるで迷路でさまよっているのに気がついて、急いで出口を見つけ出そうとするかのように。