順慶が名残惜しげに唇を離すと、冴人がふうっと息をついた。

「……ようやく終わったか」

 減らず口を叩きながらも、陶然(とうぜん)とした目つきになっている。そんな冴人がたまらないと言わんばかりに、順慶は抱いていた男の頭を撫でる。

 二週間ぶりである。冴人が忙しく、さりげなく順慶が誘っても「私が暇ではないと察しろ、順慶。それがお前の仕事だ」と可愛げの欠片もなく突っ返され、仕方がないなと我慢していた専任ボディガードである。

「俺は終わりたくなかったけれどな。もっとやるか、冴人」
「……そのような不埒(ふらち)なことを私に聞くな」

 つんと冴人は顔を背ける。順慶は相好を崩した。それが冴人のイエスの返事であるのは、長年の付き合いでわかっている。自分で決めろということだ。順慶は下半身が欲情したのを感じ、さらに激しく抱くことにして、そのために少し身体を休ませることにした。

「冴人も忙しかったな」

 両腕を回して背後から冴人を抱き、髪の中に顔を埋める。汗ばんだ匂いが、なぜか香ばしい。

「当たり前だ。理事長は忙しいのだ」

 つっけんどんな言い方だが、ぺたりとくっついている順慶を邪険に扱いはしない。

「順慶も忙しいはずだ。すぐに中間考査がきて、次は体育祭がある。(なま)けている時間などない」

 女性のように色っぽく喘いでいた声が、いきなり理事長の小言に変わる。

「体育祭は大切だ。生徒たちのためにも、素晴らしいものにしなくてはならない」
「ああ、もちろんだ」

 順慶は目を細めて、艶やかな髪の毛に口元を当てる。冴人は誰に対しても尊大無比だが、理事長として生徒たちを気にかけている。誰もが一度きりの高校生活を悔いなく過ごせるよう、心を砕いているのだ。日頃の態度からは想像もつかないが。

「俺たちの高校生活も、すごく良かったな」

 順慶は懐かしそうに忍び笑いする。冴人と出会った吾妻学園での三年間は、自分の人生を決定づけた。冴人をどういうわけか好きになり、初キス&初体験の相手が男の冴人という、まるでどこかの学園小説を地で行くように人生が転がっていった。最終的に冴人と生涯一緒にいようと、教師になった。

 ――冴人の魅力に負けたんだな。

 誰もいなくなった空っぽな教室で、窓から射し込む夕暮れの影にまぎれて冴人とキスをした。あの時の胸のドキドキは今でも忘れられない。ついでに宿題を取りにわざわざ家から戻ってきた親友の福朗(ふくろう)が、ドンピシャでキスをしている順慶と冴人を目撃してしまい、まるでオカルト現象にでも遭遇したかのように、ギャーと悲鳴を上げたのは、まあまあビックリさせちゃったかなと。その後、顔面蒼白になるほど冴人に凄まれ、泡を吹いてぶっ倒れそうになる福朗の背中を一生懸命支えたのは、順慶にとって苦笑いしたくなる青春の一ページである。ただ、現在その福朗が学園の校長をやっているのは、おそらくこの件で冴人に首根っこを掴まれてしまったんだろうなと、順慶は何とも言えない気持ちになるのだった。

「そうだ。私たちの三年間は唯一無二だった」

 冴人は大仰な言葉のわりには、特に感慨もなく頷く。

「この学園に入学してくる生徒たちにも、唯一無二の学園生活を送って欲しい。十代の高校生活に二度はないのだからな。それでだ」

 と、首を回し、三白眼の眦をグンとつり上げる。

「一成の話はどうなっているのだ。あれから何も報告がこないが……(なま)けているのか、順慶」

 自分の髪に顔を突っ込んでいる順慶に、ぴしゃりと喰らわせる。

 喰らった順慶は、冴人にわからないように肩をすくめた。二人っきりのベッドの上で愉しく過ごせているのに、何が悲しくて一成の話をしなければならないのか。しかし順慶の優先順位のトップは冴人なので、しぶしぶ顔を上げて、理事長へご報告した。

「何も話すことはないぞ。まったく、微塵もない」

 一成が生徒とイケない仲になるわけがない。逐一見張ってなくとも、順慶は一成を信頼している。

「本当だな、順慶。嘘偽りはないな」

 順慶と違って実の甥に冷たい冴人は、くどいくらいに念を押す。

「本当だ。俺はいつだって、お前に嘘はつかない」

 と、口にしつつ、一回くらいはあったかなと、首をかしげる。まあ誤差の範囲だと数学教師らしい結論で終わった。

「そうか。引き続き気をゆるめずに見張れ、以上だ」

 冴人は上官のように命じると、猫のような仕草で身体の向きを変えた。順慶と向かい合い、白く端整な顔立ちを子供のようにムスッとさせると、高慢な動きで手の甲を突き出す。順慶は仕方ないなあと頬で笑い、冴人の手を大事そうに握って、その手の甲に熱いキスをした。

 ――また()ねるんだな。

 順慶は恭しく手を離す。ちらっと上目遣いに見れば、冴人の目がいかにも怒っていますというように据わっていて、プンスカしているのが一目瞭然である。自分が一成の肩を持っているように見えるのが、大変に気に喰わないのだろう。

 ――俺はいつだってお前が一番なのに。

 順慶はどこか甘酸っぱい表情になる。まあ、拗ねられるのも悪くはないかと、口角をあげてニヤッとした。

「笑うとは何事だ、順慶」

 冴人は優雅な眉を逆八の字にする。

「いや、冴人が可愛いから」

 順慶はぬけぬけとノロケて、ますます逆八の字が炎上しそうになったところに、ひょいと話を振った。

「体育祭で思い出した。深水先生は何時頃来るんだ?」

 聞こうと思っていたことだった。

 すると冴人は逆八の字だった眉をすーっと戻して、新たな戦闘態勢に入る。

「お前が聞いてどうするのだ」

 まるで尋問口調である。どこまで拗ねるんだと、順慶は口元をやわらげて、やれやれと首の付け根を手で撫でた。

「俺は正直、彼がこの学園の体育祭を訪問する理由がわからないんだ、小説の取材と言っていたが、彼は馬鹿じゃないだろう?」
「私に嘘をついたと言いたいのか」

 冴人の怒りモードだった顔つきが、やにわに沈静化する。

「そうだ」

 冴人の様子を見ながら、少しは疑っているんだなと感じた。

「今さらと言っては悪いが。突然どうしたのかと不思議に感じたんだ。他に理由があるのかと思ってな」

 自分の不信感を素直に口にする。一成が動揺した姿も脳裏をよぎった。

「特におかしい理由ではない」

 冴人は平常に戻っている。

「深水君は、我が学園の教師をしていた。体育祭を見学したいのなら、気が済むまですればいいだけの話だ」
「体育祭が目的なのか、本当に」
「それ以外に何があるのだ、順慶」

 冴人は鋭く順慶を見る。

「正直、わからん。だから、ちゃんと予定を聞いておこうと思うんだ。予期せぬ事態に直面しても、冷静に対処できるようにな」
「深水君の案内役は手配している」

 冴人は順慶の真意を探り出そうというように、男らしい目を覗き込む。

「一成にさせるつもりだ」
「……」

 順慶は息が詰まったように押し黙った。どうしようかと考えて、自分を見つめる冴人の鷹のような視線が厳しくなった。

「お前は、私に嘘をつかないと先ほど言ったな」
「……そうだ」
「では、答えてもらおうか、私に隠していることを。どうやら一成が関係しているようだな」

 声が鞭のように空気を叩く。

 順慶は口元を引き締めて、抱いていた相手を慎重に(うかが)った。先ほどまでとは打って変わって容赦のない冴人には、各段に細心の注意を払って接しなくてはならないことを、長年の経験で知っている。

 さて、と素早く頭の中で何を言うべきかめぐらせた。