「万葉集は最古の歌集だが……」
一成は教科書を片手に説明しながら、目線だけを上げた。一年三組は五時間目、日本史の授業である。私立吾妻学園は、創立百年は過ぎている地元では有名な伝統校で、進学にも力を入れているが、同時に教養もしっかりと学ばせている。すなわち、古典と歴史である。
社会科の教師である一成は、一学年五クラスの日本史の授業を綾辻寧々子と二人で分担している。寧々子は一成がまだ高校生だった頃から社会科の教師で、その時は「副島君」と呼ばれていたが、同じ教師となった今は「副島先生」に変わった。その呼び名の変遷に、寧々子は自分も歳を取るはずと笑っているが、一成は同じ教師となって初めて、当時の、そして今現在の綾辻先生の苦労が知れた。
一年三組は自分の担任クラスである。今目の前にいる生徒たちは、この春に桜の花々に祝福されて入学してきた可愛い教え子たちである……が、一成はこめかみに怒りが集中するのを、何とか堪えていた。
昼食後の五時間目は、昼下がりのまったりとした時間帯で、保育園では子供のたちのお昼寝タイムである。もちろん、一年三組の生徒たちは三歳児でもなければ四歳児でもない。だが重要な日本史の授業で、一年三組の教室は見事に保育園のお昼寝部屋と化していた。
――俺の授業で居眠りをするとは、いい度胸だな。
教師の話を子守唄にしながら、うつらうつらしている生徒たちを目にして、この馬鹿たれどもをどうしようかと一成は考えていた。
何事も最初が肝心と心得ている一成は、夢の世界に飛んでいる可愛い教え子たちの頬を、平等に平手打ちしていこうかと物騒に思ったが、自分の手が痛くなるので止めた。
――気持ちはわかるがな。
日本史担当の教師も、昔の自分を思い出して唸る。歴史の時間は、とにかく眠たかった。そんな馬鹿相手に、綾辻先生は根気よく教えてくれたと今ならわかる。しかし、自分は教える立場になったのだ。はっきり言って、半分以上の生徒たちが半ば睡魔に襲われているという状況は、非常に憤慨ものだった。
さて、どうしようか。この「地元で有名な伝統校」には到底思えない光景に、教壇に立つ一成は思案するように教室内をぐるっと見渡す。すぐに、窓側の席の一番手前に座る生徒が目に留まった。
その生徒は、どこをどう見ても授業を聞いているとは思えなかった。なぜなら、堂々と机に突っ伏して、居眠りをしていたからである。
「……」
一成はわざと乱暴に教科書を閉じた。真面目に授業を受けていた半分の生徒たちは、あっと息を呑む。その何気にかたまった視線を全く気にせず、容赦ないと評判の日本史の教師はその席に近づくと、その頭に拳骨を喰らわせた。
「……いってえええ……」
勇太は頭に手をやりながら飛び起きた。
「……いってえ……めちゃいってえ……」
「綾野」
と、一成は教師にしてはとても怖ろしい声を出した。
「万葉集とは、何だ。答えろ」
「……へっ?……」
叩かれた部分をさすりながら、涙声の勇太はそばに立っている一成の姿を仰ぎ見て、自分の痛みの原因がわかったらしい。さらに、どうして叩かれたのかも悟ったようだ。
「……ま、まんよーしゅー?……」
よほど痛いらしく、言葉がひらがな調になっている勇太は、担任のおっかないオーラを本能で感じ取ったのか、両手でさすりながら答えた。
「……えーっと……らーめんとか、だんごとか……」
一成の背後で、誰かが噴き出した。
「……」
一成はぐいっと顎を持ちあげると、ゆっくりと肩越しに振り返った。ヤクザのような三白眼が、怒りで満ち満ちている。
生徒たちは合同練習でもしたかのように、一斉に下を向いた。広げた教科書を読む振りをして、この恐怖の展開に巻き込まれないようにする。
一成は不機嫌極まりない形相で、俯いた生徒たちを睨みつけたが、その中で、たった一人、平然としている生徒がいるのに気がついた。
伝馬である。
伝馬はまっすぐな姿勢を崩さず、一成へ顔を向けていた。その視線は、一成を非難するかのようにきつくて、刺々しい。
――俺に、ガンをつけているな。
数日前、その生徒に告白され、返答としてその頬をぶん殴った一成は、憎い仇でも見るかのような伝馬に少しだけ苛立った。だから面倒臭いんだと毒を吐きたくなったが、その睨みっぷりに免じて、まだ答えがわからないでいる勇太から伝馬へ矛先を変えた。
「桐枝、万葉集とは何だ」
突然の指名に、何人かの生徒たちが頭を上げて、そっと周囲を盗み見る。当の伝馬は、慌てた様子もなく答えた。
「最古の歌集です」
「あとは?」
「知りません」
一成はその答えが気に入らないというように、教壇へ戻る。
「万葉集は当時のあらゆる階層の人々の歌をおさめた、世界でも類を見ない歌集だ。日本だけではなく、人類の大切な遺産だ」
「覚えておきます」
伝馬は喧嘩でも売るような返事の仕方をする。
「そうしろ」
一成は無視するように教科書を再び開いた。
「万葉集には様々な歌がおさめられている。自然を歌ったものや、人の感情、哀しいことや嬉しいこと、それに恋を歌ったものも多い。お前たちも、一度は読んでおけ。案外、面白く感じるかもしれないぞ」
実際の自分の経験を踏まえて言ってみたが、おそらく誰も読まないだろうという前提である。
「――読んでみます」
一成は教科書から顔をあげる。
伝馬は教壇に立つ担任を睨みつけながら、素っ気なく言った。
「読んだら、先生に感想を言ってもいいですか?」
「……」
一瞬、一成は何を言われたのかわからなかった。ほんの数秒、伝馬だけを見つめて、その険しい表情のどこかに、混じりけのない率直な気持ちが浮かんでいるのに気がついてしまった。
数日前の出来事が、甦る。
「……ああ、いいぞ」
あの時の真っ直ぐな眼差しと重なり、一成は振り払うように背中を向けた。白いチョークを持って、黒板へ書き始める。
「お前ら、いつまでも下を向いていないで、頭をあげろ。授業を進めるぞ」
いきなり強面の声が教室内に轟き、他人ごとを決め込んでいた生徒たちは、胸座を引っ張られるように黒板へ顔を向ける。勇太も頭をさすりながら、教科書のページをめくる。
「ちゃんと、ノートに書いとけ」
そう言いながら、一成はただ一人の生徒の視線だけを背中で感じていた。それは、どうとも形容し難いざわつきを、一成へもたらした――
一成は教科書を片手に説明しながら、目線だけを上げた。一年三組は五時間目、日本史の授業である。私立吾妻学園は、創立百年は過ぎている地元では有名な伝統校で、進学にも力を入れているが、同時に教養もしっかりと学ばせている。すなわち、古典と歴史である。
社会科の教師である一成は、一学年五クラスの日本史の授業を綾辻寧々子と二人で分担している。寧々子は一成がまだ高校生だった頃から社会科の教師で、その時は「副島君」と呼ばれていたが、同じ教師となった今は「副島先生」に変わった。その呼び名の変遷に、寧々子は自分も歳を取るはずと笑っているが、一成は同じ教師となって初めて、当時の、そして今現在の綾辻先生の苦労が知れた。
一年三組は自分の担任クラスである。今目の前にいる生徒たちは、この春に桜の花々に祝福されて入学してきた可愛い教え子たちである……が、一成はこめかみに怒りが集中するのを、何とか堪えていた。
昼食後の五時間目は、昼下がりのまったりとした時間帯で、保育園では子供のたちのお昼寝タイムである。もちろん、一年三組の生徒たちは三歳児でもなければ四歳児でもない。だが重要な日本史の授業で、一年三組の教室は見事に保育園のお昼寝部屋と化していた。
――俺の授業で居眠りをするとは、いい度胸だな。
教師の話を子守唄にしながら、うつらうつらしている生徒たちを目にして、この馬鹿たれどもをどうしようかと一成は考えていた。
何事も最初が肝心と心得ている一成は、夢の世界に飛んでいる可愛い教え子たちの頬を、平等に平手打ちしていこうかと物騒に思ったが、自分の手が痛くなるので止めた。
――気持ちはわかるがな。
日本史担当の教師も、昔の自分を思い出して唸る。歴史の時間は、とにかく眠たかった。そんな馬鹿相手に、綾辻先生は根気よく教えてくれたと今ならわかる。しかし、自分は教える立場になったのだ。はっきり言って、半分以上の生徒たちが半ば睡魔に襲われているという状況は、非常に憤慨ものだった。
さて、どうしようか。この「地元で有名な伝統校」には到底思えない光景に、教壇に立つ一成は思案するように教室内をぐるっと見渡す。すぐに、窓側の席の一番手前に座る生徒が目に留まった。
その生徒は、どこをどう見ても授業を聞いているとは思えなかった。なぜなら、堂々と机に突っ伏して、居眠りをしていたからである。
「……」
一成はわざと乱暴に教科書を閉じた。真面目に授業を受けていた半分の生徒たちは、あっと息を呑む。その何気にかたまった視線を全く気にせず、容赦ないと評判の日本史の教師はその席に近づくと、その頭に拳骨を喰らわせた。
「……いってえええ……」
勇太は頭に手をやりながら飛び起きた。
「……いってえ……めちゃいってえ……」
「綾野」
と、一成は教師にしてはとても怖ろしい声を出した。
「万葉集とは、何だ。答えろ」
「……へっ?……」
叩かれた部分をさすりながら、涙声の勇太はそばに立っている一成の姿を仰ぎ見て、自分の痛みの原因がわかったらしい。さらに、どうして叩かれたのかも悟ったようだ。
「……ま、まんよーしゅー?……」
よほど痛いらしく、言葉がひらがな調になっている勇太は、担任のおっかないオーラを本能で感じ取ったのか、両手でさすりながら答えた。
「……えーっと……らーめんとか、だんごとか……」
一成の背後で、誰かが噴き出した。
「……」
一成はぐいっと顎を持ちあげると、ゆっくりと肩越しに振り返った。ヤクザのような三白眼が、怒りで満ち満ちている。
生徒たちは合同練習でもしたかのように、一斉に下を向いた。広げた教科書を読む振りをして、この恐怖の展開に巻き込まれないようにする。
一成は不機嫌極まりない形相で、俯いた生徒たちを睨みつけたが、その中で、たった一人、平然としている生徒がいるのに気がついた。
伝馬である。
伝馬はまっすぐな姿勢を崩さず、一成へ顔を向けていた。その視線は、一成を非難するかのようにきつくて、刺々しい。
――俺に、ガンをつけているな。
数日前、その生徒に告白され、返答としてその頬をぶん殴った一成は、憎い仇でも見るかのような伝馬に少しだけ苛立った。だから面倒臭いんだと毒を吐きたくなったが、その睨みっぷりに免じて、まだ答えがわからないでいる勇太から伝馬へ矛先を変えた。
「桐枝、万葉集とは何だ」
突然の指名に、何人かの生徒たちが頭を上げて、そっと周囲を盗み見る。当の伝馬は、慌てた様子もなく答えた。
「最古の歌集です」
「あとは?」
「知りません」
一成はその答えが気に入らないというように、教壇へ戻る。
「万葉集は当時のあらゆる階層の人々の歌をおさめた、世界でも類を見ない歌集だ。日本だけではなく、人類の大切な遺産だ」
「覚えておきます」
伝馬は喧嘩でも売るような返事の仕方をする。
「そうしろ」
一成は無視するように教科書を再び開いた。
「万葉集には様々な歌がおさめられている。自然を歌ったものや、人の感情、哀しいことや嬉しいこと、それに恋を歌ったものも多い。お前たちも、一度は読んでおけ。案外、面白く感じるかもしれないぞ」
実際の自分の経験を踏まえて言ってみたが、おそらく誰も読まないだろうという前提である。
「――読んでみます」
一成は教科書から顔をあげる。
伝馬は教壇に立つ担任を睨みつけながら、素っ気なく言った。
「読んだら、先生に感想を言ってもいいですか?」
「……」
一瞬、一成は何を言われたのかわからなかった。ほんの数秒、伝馬だけを見つめて、その険しい表情のどこかに、混じりけのない率直な気持ちが浮かんでいるのに気がついてしまった。
数日前の出来事が、甦る。
「……ああ、いいぞ」
あの時の真っ直ぐな眼差しと重なり、一成は振り払うように背中を向けた。白いチョークを持って、黒板へ書き始める。
「お前ら、いつまでも下を向いていないで、頭をあげろ。授業を進めるぞ」
いきなり強面の声が教室内に轟き、他人ごとを決め込んでいた生徒たちは、胸座を引っ張られるように黒板へ顔を向ける。勇太も頭をさすりながら、教科書のページをめくる。
「ちゃんと、ノートに書いとけ」
そう言いながら、一成はただ一人の生徒の視線だけを背中で感じていた。それは、どうとも形容し難いざわつきを、一成へもたらした――