廊下の窓から射し込む光が、通り過ぎる順慶にも容赦なく落ちる。順慶は眩しそうに顔を背ける。
――あの男なら、やるな。何の躊躇いもなく。
記憶にある日本史教師はいつも泰然としていた。声を張り上げることもなく、笑い声をあげることもなく、誰かを叱ることもなく、不機嫌になることもなく。身だしなみはいつも整っていて、常に落ち着き払った態度だった。学園では。
――皮肉は凄かったな。
順慶は角ばった手のひらで頬をそっと撫でる。あれはふとしたことで冴人に呼ばれ、自分への用件並びに榮への言づても命じられたのだ。その言づて自体は大したことではなかったので、榮のいる職員室へ向かい、ちょうどテストの採点をしていた榮へ手短に告げて出て行こうとした。すると、榮は他愛なく言った。
「筒井先生は、理事長の大切な同級生なんですね、何年経とうとも」
順慶は「そうだな」と軽く相槌を打っただけだったが、榮が何を仄めかしているのかは察した。別に榮と親しい間柄ではなく、単に同僚としての付き合いしかなかったが、皮肉めいた言い方をするのは正直に賢いやり方ではないと思った
――だが、ああいうところが当人の性分なんだろう。
イギリス人の血を引き、イギリスで育ったとは聞いているが、順慶に言わせれば、生まれ持った性質が必ずある。環境は確かに人格形成に重大な影響を及ぼすが、それだけで人間という個性は出来上がらない。
――今さらだな。今さら。
順慶は苦い味を噛み続ける。一成はもう高校生ではない。教師だ。しかも日本史の。
――あいつは大人になった。まっとうな社会人だ。自分で考え、行動できるはずだ。
二人が真実どういう関係なのかは想像の域を出ない。先程の一成の様子は榮から何も聞かされていないのだろう。榮がこの学園を訪問することに心底驚いていた。
順慶は深々と息を洩らす。それから耳穴を軽くほじって、自分は考え過ぎなのかもしれないと戒めた。
伝馬が颯天と剣道部の更衣室へ入ると、一斉に歓声が沸いた。
「桐枝! お前クラス代表になったんだってな!」
「すげーよ! 代表になるのは簡単じゃねえんだぞ!」
剣道部の先輩たちが手を叩いて口々に誉めそやす。
伝馬は愛想笑いがうまくできないような微妙な表情で、入り口に突っ立つ。一週間前にクラス代表に選ばれて、今日各クラスの代表者が公示された。校内は一気に盛り上がり、よくわからない一年生たちも先輩たちのはしゃぎっぷりを見て、段々とお祭りに参加するような興奮が芽生えてきた。颯天も「早く教えろよ! ヤバいヤバい!」とヤバいが二倍になっていた。
そんなにすごいのかと、伝馬は周りの声援にうつらうつら感じながら道着に着替える。クラス代表に選ばれた時のモチベーションのマイナスっぷりに比べたら、ややゲージは上がってはいるが、それでもやる気ラインは低空飛行を続けている。もっとも体育祭は七月に開催されるので、まだまだ先の話だ。開催が近づいてきたら、さすがの自分も頑張ろうという気になるだろうとは思っている。
先に行くぞーと、一年の部活仲間たちに肩を叩かれて、伝馬は「わかった」と返事をして、隣の颯天を振り返る。颯天はリュックサックとロッカーの中を交互に見ながら「ヤバい!」と叫んだ。
「道着忘れた! たぶん教室だ! 取ってくる!」
バタバタと駆け足で更衣室を飛び出る。「先に行ってていいから!」と気を使ってくれて、伝馬はどうしようかと迷ったが、先に行って颯天のことを伝えておくことにした。
藍色の道着に身を固めて、更衣室を出ようとして、何気なしにドア側の隅っこにあるスタンドミラーをチラ見する。姿見に映った自分の顔が真面目に元気ない。とてもどんよりと沈んでいるような感じ。
伝馬は鏡に映る自分へ向かって、そうだよなとうなだれる。
「……どうして、先生は何も言ってくれないんだろう」
気持ちが浮かないのは、それがある。
この間、休憩時間に教室を出て行った圭はまもなく戻ってきて、「あとで先生から、伝馬にエールがくるはずだ」とこっそりと話してくれた。え? とびっくりしたが「先生は快く引き受けてくれたよ」と圭は冷静に言い、それを聞いた勇太も「やったあ、圭ちゃん、えらい」と屈託なく喜んだ。もちろん伝馬も嬉しかったが、それを押し隠すように俯いてしまった。先生、いきなりで変に思わないだろうか。俺に呆れないだろうか。そわそわ。どうしよう。でも。でも。とっても嬉しい!
俯いた表情は控えめながらにやけてきて、下から心配そうに覗き込んだ圭はクールに目を逸らし、勇太は「伝馬、顔が真っ赤だ。やっぱり、せ……」と無邪気に実況しようとして、素早く伸びだ圭の手で口元を塞がれた。
それから伝馬は今か今かと待っていた。なんて言ってくれるんだろう。胸はドキドキ、心はウキウキ。いつ言ってくれるんだろう。数日過ぎて、空へと舞い上がった期待は段々と地上へ下りてきて、今日には海中に墜落した。待ち望んだエールがいつまでたってもこないのである。
――俺、先生に嫌われたのかな。
体育の時間も陸上トラックを走りながら考え込んでしまって、目の前にいた水瀬に気がつかず当たって転ばせてしまった。急いで手を差し伸べて、平謝りに謝った。水瀬は大丈夫とすぐに立ち上がってくれたが「クラス代表になって怒っている?」と真顔で訊かれてしまった。全然そんなことはないと謝ったが、水瀬は「最近の桐枝は顔がマジ暗いってみんな言っている。俺もそう思う」と逆に心配されてしまった。
――あの男なら、やるな。何の躊躇いもなく。
記憶にある日本史教師はいつも泰然としていた。声を張り上げることもなく、笑い声をあげることもなく、誰かを叱ることもなく、不機嫌になることもなく。身だしなみはいつも整っていて、常に落ち着き払った態度だった。学園では。
――皮肉は凄かったな。
順慶は角ばった手のひらで頬をそっと撫でる。あれはふとしたことで冴人に呼ばれ、自分への用件並びに榮への言づても命じられたのだ。その言づて自体は大したことではなかったので、榮のいる職員室へ向かい、ちょうどテストの採点をしていた榮へ手短に告げて出て行こうとした。すると、榮は他愛なく言った。
「筒井先生は、理事長の大切な同級生なんですね、何年経とうとも」
順慶は「そうだな」と軽く相槌を打っただけだったが、榮が何を仄めかしているのかは察した。別に榮と親しい間柄ではなく、単に同僚としての付き合いしかなかったが、皮肉めいた言い方をするのは正直に賢いやり方ではないと思った
――だが、ああいうところが当人の性分なんだろう。
イギリス人の血を引き、イギリスで育ったとは聞いているが、順慶に言わせれば、生まれ持った性質が必ずある。環境は確かに人格形成に重大な影響を及ぼすが、それだけで人間という個性は出来上がらない。
――今さらだな。今さら。
順慶は苦い味を噛み続ける。一成はもう高校生ではない。教師だ。しかも日本史の。
――あいつは大人になった。まっとうな社会人だ。自分で考え、行動できるはずだ。
二人が真実どういう関係なのかは想像の域を出ない。先程の一成の様子は榮から何も聞かされていないのだろう。榮がこの学園を訪問することに心底驚いていた。
順慶は深々と息を洩らす。それから耳穴を軽くほじって、自分は考え過ぎなのかもしれないと戒めた。
伝馬が颯天と剣道部の更衣室へ入ると、一斉に歓声が沸いた。
「桐枝! お前クラス代表になったんだってな!」
「すげーよ! 代表になるのは簡単じゃねえんだぞ!」
剣道部の先輩たちが手を叩いて口々に誉めそやす。
伝馬は愛想笑いがうまくできないような微妙な表情で、入り口に突っ立つ。一週間前にクラス代表に選ばれて、今日各クラスの代表者が公示された。校内は一気に盛り上がり、よくわからない一年生たちも先輩たちのはしゃぎっぷりを見て、段々とお祭りに参加するような興奮が芽生えてきた。颯天も「早く教えろよ! ヤバいヤバい!」とヤバいが二倍になっていた。
そんなにすごいのかと、伝馬は周りの声援にうつらうつら感じながら道着に着替える。クラス代表に選ばれた時のモチベーションのマイナスっぷりに比べたら、ややゲージは上がってはいるが、それでもやる気ラインは低空飛行を続けている。もっとも体育祭は七月に開催されるので、まだまだ先の話だ。開催が近づいてきたら、さすがの自分も頑張ろうという気になるだろうとは思っている。
先に行くぞーと、一年の部活仲間たちに肩を叩かれて、伝馬は「わかった」と返事をして、隣の颯天を振り返る。颯天はリュックサックとロッカーの中を交互に見ながら「ヤバい!」と叫んだ。
「道着忘れた! たぶん教室だ! 取ってくる!」
バタバタと駆け足で更衣室を飛び出る。「先に行ってていいから!」と気を使ってくれて、伝馬はどうしようかと迷ったが、先に行って颯天のことを伝えておくことにした。
藍色の道着に身を固めて、更衣室を出ようとして、何気なしにドア側の隅っこにあるスタンドミラーをチラ見する。姿見に映った自分の顔が真面目に元気ない。とてもどんよりと沈んでいるような感じ。
伝馬は鏡に映る自分へ向かって、そうだよなとうなだれる。
「……どうして、先生は何も言ってくれないんだろう」
気持ちが浮かないのは、それがある。
この間、休憩時間に教室を出て行った圭はまもなく戻ってきて、「あとで先生から、伝馬にエールがくるはずだ」とこっそりと話してくれた。え? とびっくりしたが「先生は快く引き受けてくれたよ」と圭は冷静に言い、それを聞いた勇太も「やったあ、圭ちゃん、えらい」と屈託なく喜んだ。もちろん伝馬も嬉しかったが、それを押し隠すように俯いてしまった。先生、いきなりで変に思わないだろうか。俺に呆れないだろうか。そわそわ。どうしよう。でも。でも。とっても嬉しい!
俯いた表情は控えめながらにやけてきて、下から心配そうに覗き込んだ圭はクールに目を逸らし、勇太は「伝馬、顔が真っ赤だ。やっぱり、せ……」と無邪気に実況しようとして、素早く伸びだ圭の手で口元を塞がれた。
それから伝馬は今か今かと待っていた。なんて言ってくれるんだろう。胸はドキドキ、心はウキウキ。いつ言ってくれるんだろう。数日過ぎて、空へと舞い上がった期待は段々と地上へ下りてきて、今日には海中に墜落した。待ち望んだエールがいつまでたってもこないのである。
――俺、先生に嫌われたのかな。
体育の時間も陸上トラックを走りながら考え込んでしまって、目の前にいた水瀬に気がつかず当たって転ばせてしまった。急いで手を差し伸べて、平謝りに謝った。水瀬は大丈夫とすぐに立ち上がってくれたが「クラス代表になって怒っている?」と真顔で訊かれてしまった。全然そんなことはないと謝ったが、水瀬は「最近の桐枝は顔がマジ暗いってみんな言っている。俺もそう思う」と逆に心配されてしまった。



