「お、一成、いたか」

 順慶である。

 一成は馴染みの声に肩の力が抜けて、椅子ごと振り返る。

「今から稽古か、じいさん」

 順慶は白い柔道着姿である。着慣れた感じの道着が非常に似合っていて、いかにも柔道をたしなんでいるという体格をよりいっそう引き立たせている。じいさん呼びしている一成も、じいさんじゃないなとチラッと反省した。

「忘れ物を取りに来た」

 と言って、順慶は自分がいつも寝そべっている古ぼけたソファーにある数学の教科書を手に取る。新年度から使い始めたばかりの教科書だが、もうページがよれている。

「教科書は俺の相棒だ。いつでも俺の側にいてくれないとな」
「だったら、もう少し丁寧に持ち歩けばいいのに」

 ソファーの上で横になり、半開きにした相棒を雑に顔にのせている順慶の姿を度々目撃している一成は、呆れた口調になる。順慶は笑い飛ばした。

「俺の相棒は俺に慣れているから大丈夫だ」

 片手で教科書を持ち、もう片方の手で表紙をパンパンと叩く。

「お前も相棒を大切にしろ、一成」
「言われなくても大切にしている」

 おなざりに流して、今度こそテストの作成に集中しようと椅子を回転し、机に向き直った。

「おい、一成」
「何だ」

 机にあるパソコンの画面を注視しながら、一成は面倒そうに返事をする。

「俺は忙しいぞ」
「深水先生を覚えているか」

 不意打ちだった。

 一成はキーボードのEnterキーを押したまま指が止まる。カーソルが勢いよく下まで改行をするが、液晶画面を見つめる顔色は能面のように白い。

「……何だって?」

 やや待って、指を離した。カーソルも停止する。

「誰だって?」
「深水先生だ。以前この学園で日本史を教えていた男性だ。今は作家になっている」

 順慶の言い方は妙に親切だった。

 画面を見つめる三白眼がかすかに引き()る。声が緊張を(はら)まないように、生唾を吞み込んだ。

「深水先生なら知っている。それがどうかしたのか」

 順慶を振り返らずに、Backspaceキーを押しながら改行の矢印を消していく。

「七月の体育祭に来るぞ」
「……えっ!」

 声が裏返った。

 一成は動揺を隠せずに慌ただしく椅子から立ち上がり、順慶を見る。順慶は手に教科書を持ち、もう片方の手は腰にやって、ドアの前で太々(ふてぶて)しく立っていた。その老獪(ろうかい)そうな目はじっと一成を(とら)えている。

「びっくりだろう、一成。俺も驚いた」

 順慶はニタッと笑う。

「小説の取材に来るそうだ。彼なら、わざわざそんなことをしなくてもいいと思うんだが。記憶力は抜群にいい先生だった」

 昔を思い出すように腰から手をあげて顎に押し当てる。

 一成は両腕を垂らして呆然と立ち尽くしている。驚きのあまり、言葉が何も出ない。

「以上、業務連絡だ。伝えたからな」

 順慶は一成のおかしな様子には触れずに、言うだけ言うと、数学の教科書を片手に相談室をのんびりと出て行った。

 残された一成は棒のように突っ立ったまま、順慶が出て行ったドアに視線を向け続ける。その表情は血の気がなく、やがて倒れ込むように椅子に座った。

 ――どういうことだ。

 片手で頭を抱える。混乱して思考がまとまらない。

 ――どうして先生がここへ来るんだ。

 頭から冷水をかけられたようにショックだった。順慶が口にしたことは、当の本人から何一つ聞いてはいない。

 ――どうして……それを俺に喋ったんだ。

 順慶が何の脈絡もなく喋るわけがない。確実に何事か含んでいた。

 一成は椅子の背に深々(ふかぶか)ともたれかかる。泥にまみれたようなため息が口から這い出て、小さな汚れが染み付いた床に消えてゆく。

 シンとなった相談室の外からは、元気なかけ声が聞こえてくる。窓は西日が射してもまだまだ明るい。一日は終わらない。

 一成はしばらく動こうともしなかった。



 ――間違いないな。

 順慶は厳しい顔つきで道場へ向かっていた。

 途中三学年の職員室に立ち寄り、教科書を自分の机の上に置いていった。隣の席には国語教師の真緒がいて、麻樹が邪魔にならないように脇に立ち、物静かに話をしていた。

「無理はしないようにね、上戸君」
「はい」

 麻樹はおとなしく返事をしていた。

 順慶はさりげなく麻樹の様子を確かめた。顔色は悪くはなかった。真緒は麻樹のクラスの副担任だ。ああいう温和な教師なら相談事もたやすくできるだろうと職員室を後にした。

 ――蘭堂もな。

 順慶は口元で苦笑いした。宇佐美は話が長いが、けしてだれかれ構わず遮二無二(しゃにむに)に話しているわけではない。ちゃんと相手を見定めて選んでいる。順慶の見るところ、自分の意図に気づかれないように、声がデカくて話も長くまさに変人というイメージをつくって、自分の周りを(けむ)に巻いているような感がある。頭はすこぶるいい。

 ――高校生活は一度きりだからな。

 強い夕日が広がる廊下を進みながら、順慶は先程の動揺しきった一成の態度を思い返していた。

 ――高校時代、だな。いきなり関係が始まるわけがない。

 男ぶりする表情が険しそうに歪む。担任だった自分が気づけなかったのが、痛恨の極みだった。

 順慶は手の先で額を押す。気づけなかったのは、一成が生徒だったからだ。今回は教師として同じフィールドに立っているから気が付けた。しかし生徒だった時は相手を慕っている態度から、まさかそこまでの関係に陥っていたとはわからなかった。

 ――彼が誘ったんだな。