――鼻で感じるわけじゃない。なんとなく嗅ぎ取れるんだ。

 順慶に抱かれた後の冴人から匂ってくるものが、気が付くと最近の一成からもじわりじわりと匂ってくるのだ。

 ――あいつ、抱かれているんだな。

 順慶は奇妙そうに口元をゆるめた。仮に一成の相手が同性だったとしても驚くことではないが、自分と同じく抱く側だと思っていた。

 ――そこまで似るんだな。

 妙に感心して、渡り廊下に出る。校舎と道場を繋ぐ廊下だ。放課後とはいえ、春の季節の日があたたかく光っている。

 ――生徒じゃなければいいさ。

 人のプライベートには関心がない順慶である。一成の相手が誰であろうが自分には関係ない。自分は冴人だけで人生の全てが予約されているのである。

 順慶は渡り廊下を進みながら、ふと頭をあげた。鳥の心地よい鳴き声がする。春は生き物たちにとっても新たなサイクルの始まりなのだ。

 両足を止めて、その鳴き声に耳を傾ける。毎年聞いているなと思った。黒い詰襟学生服を着ていた昔から、白いワイシャツにネクタイを締めたスーツになってからも、ずっと。

 ――そういえば……

 なにげにこの前聞いた話が頭をもたげた。ベッド上で冴人が話していたことだ。

 ――一成の奴、随分と慕っていたな、確か。

 順慶は指先で鼻先をちょろっと撫でる。まあいい、と邪推(じゃすい)を切り上げた。一成は大人だ。相手も大人だ。勝手にすればいい。

 歌うような声が鳴き続ける。順慶も鼻歌を口ずさみながら渡り廊下を歩いて行った。





 壁を背にして立ち、一成と榮はキスをしていた。

 一成は唇を奪われながら、両手で榮の肩に抱きつく。榮もキスを重ね合わせて、ようやく口元を離し、小さく息をついた。

「お腹を満たしたい子供のようだ」

 からかうように一成の唇を親指でなぞる。

「全部……貴方のせいです」

 一成は見栄えの良い肩に縋りつく。着衣しているのはくしゃくしゃになった白いワイシャツだけである。だがボタンは全て外されている。

 榮は薄手のグレージュのナイトガウンを羽織っている。

 リビングルームの照明は明るさを落としている。鈍い光で地味に照らされながら、ソファーの上で激しく抱き合っていた。お互いに衣服は脱いだが、榮は一成にはワイシャツだけ着るように言った。「そういう気分だ」一成は素直に従った。

 一成は体内に溜まった(たけ)りを吐き出すように熱い息を繰り返し、榮を見た。榮は端整な容貌は崩さずに、知的な目元にわずかな熱を含ませている。すらりと整った裸体にガウンだけをまとっているのは、そういう気分なのだろう。どのように一成を抱いたのかは、身に着けさせているワイシャツの汚れ具合を見ればわかる。

「君の視線はまるで物乞いのようだ」

 一成が魅入られたように見つめているので、榮は冗談めかして言う。

 一成は恥ずかしそうに目を逸らす。無意識の行為だったが、ひっそりと(ひざまつ)く自分の心の内を当てられたようだった。

「いけませんか」

 静かに言い返す。高校生の自分だったら、思いっきりムキになっていただろうなと自嘲的になる。

 榮は低く笑った。

「成長したな、一成」

 その返答が気に入ったというように、再び一成の唇を塞ぎ、壁に身体を押しつける。

「身体だけが成長したわけではないようだ」
「貴方らしい褒め方ですね」

 一成は榮の肩から手を下げて、力いっぱいシニカルぶった。

「怒ることではないと思うが」

 榮はなだめるように一成の頬に右手を寄せる。

「君の中で子供と大人が喧嘩をしている。たまにあることだ」
「言っていることが、よくわかりません」

 本当はなんとなく察せられたが、突っぱねた。だがそれがまさしく子供染みているようで、一成は自身に苛立った。

「君がわからなくとも、大したことではない」

 榮はやんわりと薄い色合いの瞳で笑う。

「私には重要ではない」

 そう言うと、榮は再び抱きはじめる。

「……先生」

 一成は堪らずに呻いた。

 ――俺は馬鹿だ。

 頭の片隅で冷ややかに自分を見ている自分がいる。一成は頭を上げて天井を睨む。女性のように声を上げさせている男は、高校生だった自分にひどい仕打ちをしたのだ。あれほど貴方に夢中だった生徒を、けんもほろろに捨てたのだ。それなのに抱かれている自分は馬鹿野郎だ、どうしようもない馬鹿野郎だ、馬鹿野郎……