「もしかして、お前も昔、ウィルスに感染したことがあるのか?」
「ない」

 一成は言下で否定した。

「あるわけないだろう」
「そうだよな。お前みたいな雑で気の荒い奴には及びでないデリケートな話だよな」

 順慶も当然のように頷く。

「悪かったな」

 一成はいくぶん気分を悪くしたが、順慶の言葉には少しだけ警戒した。デリカシーに欠けていると生徒たちからは評判のこの教師は、それと同時に実は洞察力が鋭いのである。

「ま、頑張れや」

 ぽんと手土産を置くような軽さでそう言うと、順慶は顔を引っ込めて、また昼寝の体勢に入った。

 一成も窓辺から離れて、衝立を戻し、またソファーに腰を下ろす。石のようにかたい感触がソファーの古さを物語っているが、もう慣れているので気にもしていない。だが、知らない人間が普通に座ったら、柔らかさにはほど遠い座り心地にびっくりするのではないか。

 ちょっと前まで、自分の前に座っていた生徒はそんな素振りを微塵も見せなかったことに、今になって気がついた。




 綾野勇太(ゆうた)は一年三組の教室のドアから顔だけ覗かせて、廊下をきょろきょろと見渡す。お昼時間もそろそろ終わる頃で、出かけていた生徒たちが教室に戻り始めている。三組にも何人か帰ってきているが、まだ半数しかいない。友人の藤島圭も図書室から帰ってきていないが、もう一人の親友の姿がずっと見えなくて、勇太は心配していた。

「どこ行ったんだろう……」

 もしかして、どこかで迷っているのかもと、勇太は閃いた。自分もいまだに校舎内で道に迷うのである。圭に言わせれば、そんなの勇太だけなそうだが、もしかして、もしかして、もしかしなくてもそうなのかもしれないと思っていると、階段がある奥の廊下から探していた姿が見えてきて、慌てて教室を飛び出た。

「伝馬!」

 勇太はすれ違う生徒を避けながら、小走りに駆け寄る。

「どこ行ってたの? 姿が見えないから心配してたんだよ!」

 二人は幼馴染みで、幼稚園も小学校も中学校も一緒だった仲である。いつも無邪気にドジる勇太と、何やってんだと言いながら毎回世話を焼く伝馬は、まるで少年漫画に出てくるような凸凹コンビで、知り合ってまた一ヶ月しか経っていない圭からも、一生腐った縁が続くねとシュールなコメントを頂戴している。

 そんな間柄なので、互いに気を遣うこともなく、思ったことをズケズケと吐き出すのだが、伝馬はまとわりついてきた勇太を無視して歩いた。

「……伝馬?」

 様子がちょっとおかしいことに勇太も気がついた。何やら、近寄りがたいオーラを出している。だが腐った縁の友人は気にせず追いかけた。

「ねえ、伝馬。具合でも悪いの?」
「……悪くない」

 押し殺したような低い声が洩れる。

 ここで少しでも空気が読めるのなら、そっとしておいた方が無難だと察知するのだが、あいにく勇太のセンサーはその辺が壊れていた。

「えー! でも、具合が悪そうだよ!……大丈夫?」
「……大丈夫だって」

 心配げに寄ってくる勇太に今気がついたというように、伝馬は声を和らげた。

「トイレ行ってくる」

 続けて何かを言いかけた勇太を素通りして、トイレに向かった。

 勇太は置いてきぼりにされたように、教室の入り口の前で立ちすくんだ。何だろう? と、トイレの中へと消えた親友に首を傾げる。もしかしてトイレを我慢していたのかな? と首を傾げるが、どうも違うような気がする。腕を組んで、うーんとひとつ唸ると、いきなり背後から声が飛んできた。

「様子が変だね」

 勇太は慌てて振り返った。いつのまにか後ろに圭が立っていた。

「け、圭ちゃん……ビックリ……」
「させたつもりはないんだけど。勇太が気づかないだけ」

 圭の手には本が数冊ある。図書室から帰ってきたのはわかるが、いつからそこにいたのかは皆目わからない。

「ここにいたら邪魔だから、中へ入ろう」

 戸口に立って思いっきり入室の邪魔をしている勇太を促した。勇太はクラスメートが戻り始めて、しぶしぶ従う。

「何か変な物でも食べて当たったのかなあ……」
「そうかもしれないね」

 圭は同情するように頷いた。だが、その眼鏡の奥にある鋭そうな目つきは、ちらりとトイレの方へ流れる。伝馬の片方の頬が、若干赤くなっていたのを見逃さなかった。




「……くっそ……」

 伝馬はトイレの手洗い台の前で、鏡に映る自分を、鼻息を荒く睨みつける。左頬はまだうっすらとだか赤い。殴られた痛みも、まだおさまっていない。

「何で、殴られなきゃならないんだ……」

 担任に告白しただけなのにと、怒りで頭に血が上りっぱなしである。

 トイレの外からは、休み時間を終えて戻ってくる生徒たちの話し声やかけ声、教室へと急ぐ足音がひっきりなしに聞こえてくる。トイレには自分しかいないが、すぐに誰か入ってくるだろう。

 伝馬は鏡に向かって、しかめ面をする。じくじくと痛む頬を撫でながら、唸るように呟いた。

「……絶対許すもんか……あの暴力教師……」