「同級生で気が合って友達になった奴がいるんだけれど。いきなり副島先生に告白したんだ」

 え? と息を詰めて聞いていた伝馬は目を丸くしてびっくりする。

 麻樹も当時の気持ちが甦ったのか、ため息交じりに続ける。

「なんか先生に優しくされたとか。詳しくは聞かなかったけれど、まあ、そんな感じ。いい奴なんだけれど、思い込んだらそれ目がけて突進する奴でさ」

 顎や口の周りを手のひらで撫でる。

「今思えば、のぼせたんだと思う。副島先生に」
「……」

 伝馬は石のように固まりながら、心の中で呟いた。まるで俺みたいだ……

「副島先生はそれをわかっていたみたいで。告白したら目を覚ませって往復ビンタされたってさ。あいつ、めちゃくちゃ怒っていたな」
「……」

 さらに伝馬は居たたまれずに身を縮めた。俺はストレートパンチだった……

「あんまりにも怒りまくって、俺もその時に始めて聞かされたんだけれど。当時仲良くなった同じ部活の先輩にまで喋ったんだ」

 麻樹は膝上に両肘をつくと、両手を絡ませて顎をのせ、数秒間口をつぐむ。

「――その時に、その先輩が話してくれたんだ。副島先生は昔、付き合っていた相手がいたらしい。けれど振られて別れた。それで、自分に告白してくる相手には手酷い態度を取るようになったっていう話」
「……えっ、それって」

 伝馬は意表をつかれたように麻樹を振り返る。麻樹も視線だけを伝馬に飛ばす。

「付き合っていた相手はうちの学校の生徒だったらしい。で、振ったのはその相手の方。しかも転校したんだって。先生はそれが辛かったから、もう二度と同じことを繰り返さないって。そういう話を先輩が教えてくれた」

 あくまで噂だからと本気でフォローする。

「話してくれた先輩も、本当かどうかはわからないって言っていた、。ただ、転校した生徒は本当にいた。先輩のいっこ上の人。で、その転校した生徒は色々と問題児だったらしくて、副島先生が色々と面倒見ていたらしい。先生が担任だったって言っていた」

 麻樹はまた考え込むように少し黙った。

「でも、桐枝。話してから言うのも何だけれど、俺はあんまり信じていないんだ」

 伝馬は隣で全身から力が抜け落ちて茫然自失状態になっているが、麻樹の言葉にはなんとか耳を傾ける。

「先輩の話の内容が、副島先生のイメージに合わないんだよな。しっくりとこないっていうか」
「……あ、俺もそう思います」

 伝馬はかすれた声で同意する。麻樹は心配そうに伝馬を見やる。

「なんかさ、副島先生がそんなことするかなって思うんだ。先生はおっかない目つきの人だけれど、真面目だから。桐枝には悪いが、それなのに生徒と付き合うかな」

 うん、と伝馬は心が沈んだ。それは俺もわかります。副島先生はとても真面目です。生徒には親身になってくれるし。入学式でも桜に見惚れて遅刻しそうな馬鹿な生徒を探しに来てくれたし。だから俺は好きになったんです。

 ――それなのに、教え子と付き合って振られて別れたとか。

 自分の知っている副島先生じゃないみたいだ。伝馬は頬っぺたに両手をくっつけて俯き、重いため息を吐く。自分の願望が入り交じっているのかもしれないとますますへこみそうになった。

「桐枝、元気出せ」

 麻樹は伝馬の頭を優しくポンポンする。

「最初にも言ったけれど、本当かどうかわからないから。だいたいこういう話は本人しか知らないはずだし。それなのに話した俺も悪かった。謝る」

 みるからにガリガリに落ち込んでいる伝馬を心配して、麻樹は伝馬の顔を横から覗き込んで肩を叩く。

「俺はデリカシーが足りないって妹たちによく言われる。もっと言葉に気をつければよかった。だから気にするな。元気出せ」
「だ……大丈夫です」

 伝馬はなんとか言った。自分から聞いたんだ。先輩は全然悪くない。

「すみませんでした」

 ぺこりと頭を下げる。自分から聞いておいて、教えてくれた上戸先輩に謝罪させるって最低だろう。申し訳ない気持ちで別方向に落ち込む。

「お前は気を使い過ぎだって」

 麻樹はそんな伝馬をいたわるように今度は背中をポンポンする。

「余計な気遣いは疲れるって。桐枝は自分の大事なことに集中しろ。いいな」
「……はい」

 先輩の気遣いに素直にうなだれた。

「よし、じゃあ話はこれで終わり。部活に行くぞ」

 空気を変えるように話を打ち切って、麻樹は立ち上がる。

 はいと伝馬も元気なく腰を上げる。麻樹は気にしながらも更衣室のドアを開けたら、空手着姿の海坊主が仁王立ちでどんと待ち構えていた。

「終わったようだな!! 俺は疲れたぞ!!」
「……あ、そういやお前いたっけ」

 という麻樹のボケで幕引きとなった。

 ――上戸先輩にも悪いことをした。

 一連の出来事を思い返しながら、片手で机の上に頬杖をつく。

 ――でも、先生の話は本当かどうかはわからないし。

 黒板の前では、取り憑いていた生霊でも離れて正気に戻ったのか、理博がエニグマの暗号もどきを消して、白いチョークで教科書の方程式をみちみちと書きながら説明している。伝馬は顔を黒板へ向けて視界にその方程式が入っているが、頭は聞いた話のことでいっぱいいっぱいだった。

 ――でも、もし本当だったら。

 視線が険しく歪む。もし本当だったら。

 ――先生には好きな人がいた……

 頭のてっぺんからガツガツした岩が転がり落ちてきて、ぺちゃんこにされたような気分になる。小さなため息を五・三倍にしたような盛大なため息が出た。

 ――先生に本当のことを聞きたい……いや、そもそも先生に聞いていいものか……

「――桐枝」

 突然耳元でゾッとするような声がした。伝馬は頬杖をついたまま、現実に目が覚めてそーっと振り向く。

 いつの間にか、正気に戻った数学教師が机の脇に立っていた。

「私の授業が不満という意思表示のため息か、桐枝」

 右手にはマストアイテムの算盤があって、左の手のひらにポンと叩く。

 やばい、と颯天のように焦る。気が付けば、教室中が伝馬に注目していた。

「立て、桐枝」

 伝馬は急いで言う通りにした。

「今からお前に、数学を教えてやる。数字と付き合えるくらいにな」

 理博はホラー映画のナレーションのように不気味な口調になると、そのまま今日の説教モードに突入した。