「珍しいか、一成」
一成が文字通りガン見しているので、榮は口元で笑う。
「いえ、あの……先生もコーヒーを飲むんだなと」
言葉が足りないと思ったので付け足した。
「紅茶を飲んでいるイメージが強かったんです」
「そうだな、君の前では紅茶しか飲んでいなかった」
ケトルが沸騰したので、ドリッパーにお湯をそそぐ。コーヒー豆を通って、サーバーの中で熱くて濃厚な色合いのコーヒーが出来てゆく。
「紅茶を飲むのは、イギリスでの習慣だった。それが私の習性になってしまった」
独り言のように口にして、棚から白いコーヒーカップを二つ取る。同色のソーサーの上にのせると、一成とその反対側にそれぞれ置いた。それからコーヒーサーバーを持ってきてカップに手際よく淹れる。
一成は芳醇な匂いがするカップに目を落とす。カップの持ち手は以前と変わらずに左向きに置かれている。
「砂糖とミルクは必要か」
「――いえ、大丈夫です」
普段は微糖の缶コーヒーばかり飲んでいるが、とてもそんな寛いだ気分にはなれない。
榮はカウンターにサーバーを置くと、ようやく一成と向かい合う形で椅子を引いて座った。
「手を洗いたかったら、そこで洗ってきなさい」
手で玄関の方向を差す。一成は礼を言って玄関に隣接している洗面室へ向かい、ボトル式のハンドソープで手をくまなく粟立ててからお湯を出して洗った。洗面室は落ち着いた感じのモダンな造りだが、やはり生活感が足りない。壁に設置されたタオルハンガーに掛けられてあるグレイカラーのタオルで手を拭きながら、怪訝に顔をしかめる。本当にここに住んでいるのだろうか。
――前の家はどうしたのだろう。
高校生時代に通された部屋は二階建ての家だった。今よくよく考えれば、独身の若い男性が一人で一戸建ての家住まいという環境は、教師という年収の面からもある意味珍しいと思った。元々生まれ育った場所であれば特におかしくはないが、どうもそのような雰囲気ではないようだった。一成も教師として働き始めてから、榮の一人暮らしが少々妙な部類であるということがわかった。
――学園からも遠かったな。
遠い目をしながら、目の前の鏡に映っている自分の姿を見る。磨かれたガラスには、十代の馬鹿みたいに無邪気で浅はかだった若者ではなく、少し年を取って無邪気というパーツを失くしてしまった疲れた男の顔が映っている。
一成は目を閉じると、くたびれた気持ちを吐き出すように息をついた――もう行かなければ。
テーブル席に戻ると、榮はカップに口をつけていた。
「君もコーヒーを飲んで、サンドウィッチを食べなさい」
カップの持ち手をつまむようにして持っている。変わっていないなと思いながら、一成は「いただきます」と断って、右手でカップを持ち、一口飲んだ。ドリップコーヒーは久しぶりだったが、美味しそうな匂いをそのまま味として凝縮したような良い風味が口の中に広がった。
「美味しいです」
ちょっとだけ目を見張った。
榮はやんわりと笑う。
「最近の中では悪くはない味だ」
そう皮肉気に言って、口元にカップを運ぶ。
一成も間を持たせようとコーヒーを飲む。車に乗っていた時も沈黙が落ちる度に胃が痛かったが、少なくともここでは飲んで食べるという行動ができる。
――どうするんだ、俺は。
榮は瞼を伏せ、無言でコーヒーを飲んでいる。その所作はやはり端整だ。本当に変わっていないなと見つめながら、どうして自分の目の前に現れたのかを改めて考えた。過去に関係があった相手の部屋へ入って、何も起きないと思うほど子供ではない。引きずられるようにして来てしまったが、だからこそ理由が知りたかった。
「深水先生」
そう口にすると、胸にチクリとした痛みが奔る。教師と生徒だったという現実が問答無用で突きつけられて気持ちがきつい。
「ここに住んでいるんですか?」
それを聞いてどうするのかと自分でも思ったが、榮は自分から話を振るタイプではないので、会話をさせるには自分が口火を切らなければならない。
「そうだが」
榮は軽く目をあげる。
「面白いことを聞くな、一成」
「長く住んでいるようには見えなかったので」
住み始めたばかりなのかもしれないと考えた。
「ひと月前に、知人から借りた。その理由も知りたいか」
榮は一成の意図を読んだように、知的な目元に謎めいた笑みを含ませる。
一成は身体を強張らせた。だが表情が変わらないように奥歯を噛み締める。
「以前の家は……どうしたのかと思いまして」
「慣れた家が良かったのか」
涼しげでいて惑わすような声。
一成の頬がじわりと熱くなった。喉が鳴る。ああ……あの時と同じだ。気持ちを落ち着かせるため、ゆっくりとソーサーにカップを置いた。
「知人からお借りしたのは、仕事のためですか」
話を続ける。
「そうだ」
榮はコーヒーを飲みながら相槌を打つ。
「これから取り掛かる物語には必要なものがある。そのためだ」
推理作家である榮はその内容を思い浮かべたかのように、物憂げな表情を見せる。
「以前の家は遠い。それでも良かったが、今あの家には住人がいる。一緒に住むとなるとお互いに邪魔だろう」
何かしらの遠慮を感じさせる。
身内の方が住んでいるのかと一成は一瞬思った。あの当時、榮は一人で住んでいた。家族関係はわからないが、榮が気遣いを見せるのは誰であれ珍しいと思った。自分の前ではいつも辛辣な皮肉家だったから。
一成が文字通りガン見しているので、榮は口元で笑う。
「いえ、あの……先生もコーヒーを飲むんだなと」
言葉が足りないと思ったので付け足した。
「紅茶を飲んでいるイメージが強かったんです」
「そうだな、君の前では紅茶しか飲んでいなかった」
ケトルが沸騰したので、ドリッパーにお湯をそそぐ。コーヒー豆を通って、サーバーの中で熱くて濃厚な色合いのコーヒーが出来てゆく。
「紅茶を飲むのは、イギリスでの習慣だった。それが私の習性になってしまった」
独り言のように口にして、棚から白いコーヒーカップを二つ取る。同色のソーサーの上にのせると、一成とその反対側にそれぞれ置いた。それからコーヒーサーバーを持ってきてカップに手際よく淹れる。
一成は芳醇な匂いがするカップに目を落とす。カップの持ち手は以前と変わらずに左向きに置かれている。
「砂糖とミルクは必要か」
「――いえ、大丈夫です」
普段は微糖の缶コーヒーばかり飲んでいるが、とてもそんな寛いだ気分にはなれない。
榮はカウンターにサーバーを置くと、ようやく一成と向かい合う形で椅子を引いて座った。
「手を洗いたかったら、そこで洗ってきなさい」
手で玄関の方向を差す。一成は礼を言って玄関に隣接している洗面室へ向かい、ボトル式のハンドソープで手をくまなく粟立ててからお湯を出して洗った。洗面室は落ち着いた感じのモダンな造りだが、やはり生活感が足りない。壁に設置されたタオルハンガーに掛けられてあるグレイカラーのタオルで手を拭きながら、怪訝に顔をしかめる。本当にここに住んでいるのだろうか。
――前の家はどうしたのだろう。
高校生時代に通された部屋は二階建ての家だった。今よくよく考えれば、独身の若い男性が一人で一戸建ての家住まいという環境は、教師という年収の面からもある意味珍しいと思った。元々生まれ育った場所であれば特におかしくはないが、どうもそのような雰囲気ではないようだった。一成も教師として働き始めてから、榮の一人暮らしが少々妙な部類であるということがわかった。
――学園からも遠かったな。
遠い目をしながら、目の前の鏡に映っている自分の姿を見る。磨かれたガラスには、十代の馬鹿みたいに無邪気で浅はかだった若者ではなく、少し年を取って無邪気というパーツを失くしてしまった疲れた男の顔が映っている。
一成は目を閉じると、くたびれた気持ちを吐き出すように息をついた――もう行かなければ。
テーブル席に戻ると、榮はカップに口をつけていた。
「君もコーヒーを飲んで、サンドウィッチを食べなさい」
カップの持ち手をつまむようにして持っている。変わっていないなと思いながら、一成は「いただきます」と断って、右手でカップを持ち、一口飲んだ。ドリップコーヒーは久しぶりだったが、美味しそうな匂いをそのまま味として凝縮したような良い風味が口の中に広がった。
「美味しいです」
ちょっとだけ目を見張った。
榮はやんわりと笑う。
「最近の中では悪くはない味だ」
そう皮肉気に言って、口元にカップを運ぶ。
一成も間を持たせようとコーヒーを飲む。車に乗っていた時も沈黙が落ちる度に胃が痛かったが、少なくともここでは飲んで食べるという行動ができる。
――どうするんだ、俺は。
榮は瞼を伏せ、無言でコーヒーを飲んでいる。その所作はやはり端整だ。本当に変わっていないなと見つめながら、どうして自分の目の前に現れたのかを改めて考えた。過去に関係があった相手の部屋へ入って、何も起きないと思うほど子供ではない。引きずられるようにして来てしまったが、だからこそ理由が知りたかった。
「深水先生」
そう口にすると、胸にチクリとした痛みが奔る。教師と生徒だったという現実が問答無用で突きつけられて気持ちがきつい。
「ここに住んでいるんですか?」
それを聞いてどうするのかと自分でも思ったが、榮は自分から話を振るタイプではないので、会話をさせるには自分が口火を切らなければならない。
「そうだが」
榮は軽く目をあげる。
「面白いことを聞くな、一成」
「長く住んでいるようには見えなかったので」
住み始めたばかりなのかもしれないと考えた。
「ひと月前に、知人から借りた。その理由も知りたいか」
榮は一成の意図を読んだように、知的な目元に謎めいた笑みを含ませる。
一成は身体を強張らせた。だが表情が変わらないように奥歯を噛み締める。
「以前の家は……どうしたのかと思いまして」
「慣れた家が良かったのか」
涼しげでいて惑わすような声。
一成の頬がじわりと熱くなった。喉が鳴る。ああ……あの時と同じだ。気持ちを落ち着かせるため、ゆっくりとソーサーにカップを置いた。
「知人からお借りしたのは、仕事のためですか」
話を続ける。
「そうだ」
榮はコーヒーを飲みながら相槌を打つ。
「これから取り掛かる物語には必要なものがある。そのためだ」
推理作家である榮はその内容を思い浮かべたかのように、物憂げな表情を見せる。
「以前の家は遠い。それでも良かったが、今あの家には住人がいる。一緒に住むとなるとお互いに邪魔だろう」
何かしらの遠慮を感じさせる。
身内の方が住んでいるのかと一成は一瞬思った。あの当時、榮は一人で住んでいた。家族関係はわからないが、榮が気遣いを見せるのは誰であれ珍しいと思った。自分の前ではいつも辛辣な皮肉家だったから。



