「とても回りくどい言い方ですね、相変わらず」

 一成は(たま)らずに吐き出す。

「結局、言いたいのは何ですか、深水先生」
「偶然の終着点だ」

 榮はちょっとだけ微笑む。

「偶然が重なり合った。まるで方程式のようだ」
「そんな方程式なんて知りません」

 一成はつっけんどんに言い返す。その言い方が子供じみていて自分でも嫌になる。

「俺の人生にも、生憎そんなものは存在しません」

 あってたまるかと一成は苦虫を嚙み潰したような思いになる。偶然なんてそこら中にある。特別なことではない。決して。

「君が気がついていないだけではないのか」

 榮は車のスピードを落として直進する。道路の正面に見えるのは高層マンションの地下駐車場ゲートだ。

「ああ、ここで終わりにしよう」

 ヘッドライトが暗闇にぽっかりと穴が開いたようなゲートを浮き上がらせる。その先もまた暗闇だ。

「何を……終わりにするんですか」

 どこへ行くんですかと聞きたかった。しかし聞かなくても肌が粟立(あわだ)つ。

「君との戯言(たわごと)だ」

 榮は素っ気なく言い捨てながら、スピードをあげずに地下ゲートをくぐっていく。地下駐車場は目に優しい色合いの照明がついていて、清潔で明るい。一面の広くて平らなスペースには十数台の車が駐車してある。どれも洗車したてのように小奇麗だ。

 榮は駐車スペースの左奥の方でラインに沿って停車すると、サイドブレーキのペダルを踏んでエンジンを切った。

「ついて来なさい」

 当たり前のように言い置いて、シートベルトを外し先に運転席から降りる。

 一成は身じろぎもしないで前方を見つめる。頭の中では赤いランプが点滅し、降りるな、降りるなと警告している。そうだ、降りるな。一成は人気のない駐車場内の一点を凝視しながら、両手がゆっくりとシートベルトを外した。降りるな。赤いランプが警告している。降りるな。脳内でその言葉が繰り返されながら、助手席側のドアハンドルに手をかけ、ドアを押し開き車の外へ出た。

 榮は何も言わずに身をひるがえす。向かう先にはエレベーターがある。

「先生、俺は」

 反射的に一成は言う。

「待って下さい、俺は」

 行かない――と口がはっきりと動く前に、榮はいったん立ち止まると、冷ややかに振り返った。

「君はもう、子供ではないだろう」

 その端正な声はひどく冷徹だった。

 一成は銃口を向けられたように後ずさる。何かが全速力で這い上がってくる。それは腕や足を(から)め捕り抵抗できなくさせる。

「私が運転する車に乗ったということは、そういうことだ」

 榮は微塵も容赦しなかった。

「来なさい」

 一成は拒むようにうなだれた。だが高校生だった時と変わらず、榮の言葉には逆らえなかった。

 地下の冷たいコンクリートに二つの硬い足音が響いていった。




 榮の部屋は上層階にあり、エレベーターが止まったその階の通路の角側にあった。

 オートロック式のクラシカルで奥行きのあるドアから入った一成は、脱いだ靴を手で揃えると、差し出されたベージュ色のスリッパを履いて室内へ足を踏み入れた。部屋は広くて明るく、清潔感に溢れさっぱりとしている。よくあるマンションの広告に出てくるオープンハウスのようだ――まるで生活感がない。

 一成はキッチンがカウンターで仕切られたリビングダイニングを前にして、今から起こりうることを漠然と考えた。気分が悪い。だが、それくらいのことでは解放してくれないだろう。

 ――どうして。

 片手で拳を握る。手のひらは汗ばんでいる。

 榮はそんな一成を気にする素振りもなく、ジャケットを脱いでクローゼット内のハンガーにかけると、椅子に座るよう言った。

「お腹は空いていないか」
「いえ、大丈夫です」

 一成はシンプルなデザインの天然木(てんねんぼく)の椅子に、気まずそうに腰を下ろす。空腹とかそんな生理的な現象など当に麻痺している。

「軽い食事を持ってこよう」

 榮は一成の返事を聞かずにキッチンへ行く。

 一成はキッチンへ背を向けて座ったまま、胸元に手をやり、ネクタイを軽くゆるめた。何とか気持ちを落ち着かせたいが、どうにも緊張が止まらない。

 ――今からでも立ち去ろうか。

 背後からちょっとした物音が聞こえてくる。冷蔵庫を開ける音、袋を破る音、棚から皿を出す音……

 ――あの頃は、俺の好きなものを食べさせてくれたな……

 ふいに浮かんでくる。高校生の頃はスナック菓子が当たり前のように好きで。定番のポテトチップスなどを食べさせてくれた。バクバク食べる自分を、榮は優雅に紅茶を飲みながら微笑んでくれた。その後は……

 一成は右手でわき腹を押さえる。あの頃の自分は夢中だったんだと今更ながら痛感する。

 ――貴方だけを見ていた。

 どうしようもないほどに。

 ほどなく榮は一成の前にサンドウィッチを盛った皿を置いた。

「家にあるのは、ワインと紅茶とコーヒーだ。飲みたいのを選びなさい」

 一成は一拍置いて答えた。

「コーヒーでお願いします」

 二人きりの時は炭酸飲料も飲んでいたが、あれは自分のために榮が購入してくれたのだろう。榮が飲んでいる姿を見たことがないし、なんなら紅茶を飲んでいた記憶しかない。

「私も君と同じものにしよう」

 榮はキッチンへ戻る。先生もコーヒーを飲むのかと、少々面食らったように一成も首を回して後を追う。

 榮はカウンターでガラス製のコーヒーサーバーに白いドリッパーをセットすると、それにペーパーフィルターを広げて、挽いたコーヒー豆を入れた。それから電気ケトルを沸騰させる。手慣れた様子だ。