「一成」

 ふいに呼ばれて、一成はシートの上で身構えるように背筋をまっすぐにする。

「何ですか」

 榮は顎を下げて笑う。

「君は相変わらず素直だ。私へ向ける敵意も素直だ」

 まるで青少年をあしらうような言い方に一成は苛立ちを噛み締めたが、表情は崩さなかった。自分を挑発している。そう感じて、気を静めて用心を深める。

「貴方への敵意ではなくて、警戒です」

 故意に語調を強くする。相手へ不信感があることを知らせるためだ。敵意と警戒はまるで違う。

 ――俺は深水先生に敵意は持っていない。

 もっと別なものだ。一成は少しだけ頬を歪ませる。

「謎だな」

 だが榮は気にも留めない。

「少なくとも、私が運転する車の助手席に乗った人間が口にする言葉ではない」

 どこか冷ややかさが潜む。

 一成はさりげなく右手でお腹の下あたりを押さえた。胃の不快感は治まりそうもない。だが榮の隣でわざわざ胃が不調であることをアピールするつもりもない

 ――高校時代の俺だったら、生意気に真っ向から言い返しただろうな。

 何も知らなかったから。

 馬鹿だったと思ってはいる。しかしその馬鹿だった頃の高校生ではないというのに、(ろく)に考えもしないで車に乗ってしまった自分は何なのだろう。

「そんなふくれっ(つら)をするんじゃない」

 榮はルームミラーへ目をやる。

「していません」

 ほとんど無意識に否定し、内心自分はどういう表情をしているのか気になった。

 ――先生に振り回されているな……

 胃がキリキリ、キリキリして、口に出せない気持ちを消化しようとしているかのようだ。

 車は細い路地裏に入って行く。ヘッドライトが周辺を明るく(あぶ)りだす。一方通行のような狭さだ。一軒家やアパートなどの住宅は道沿いにあるが、街灯も少なく人影もない。

「どうして教師になったんだ、一成」

 慣れた手つきでハンドルを回しながら、榮は会話の続きのように聞く。

「貴方は、どうして教師を辞めたんですか」

 一成はすぐに切り返す。おそらく聞いてくるだろうと予測はしていた。

「簡単だ。教師という職業に興味がなくなったからだ」

 榮はあっさりと言う。それ以外の理由などないかのように。

「興味が失せたことに人生を費やすほど貪欲(どんよく)ではない」
「……」

 一成は身を硬くして押し黙った。

 まるで鈍器(どんき)で殴られたような衝撃だった。

 ――貴方は……

 覚えていないのかと、卒業式で自分へ言った言葉を。

 いや、と振り払う。自分を動揺させるために口にしたのかもしれない。その目論見だったら成功した。自分はまともに相手の顔を見られない。――怖くて。

「それで、私への警戒は解けたか、一成」

 榮はゆったりとした声に冷笑を添える。

 一成は本能的に身震いした。自分の奥深くを覗かれたかのようにゾクッとした。

「あいにく……無理なようです」

 ――どうして、俺は車に乗ってしまったんだ。

 乗らないかと誘われて、拒否すればよかったのだ。拒否して背中を向ければよかった。

 ――あの時、俺がそうされたように。

 一成は喉の奥で生唾を呑み込む。不快感が這いずってくる。足元からひたひたと舐めるようにして。

「そうか」

 榮は短く相槌を打った。そこには何の感情も含まれてはいないようだった。

 ブリティッシュグリーンのミラジーノはさらに細い路地へと入って行く。街灯が明るい公園が見えてきた。ライトに照らされて犬を散歩している人の姿が視界に入る。

「どうして歩いていたんだ」

 一成は一瞬、何を言われているのか戸惑ったが、すぐに察した。

「車が故障したんです」

 愛車のフェアレディZが動かなくなったので、修理が終わるまで徒歩通勤していた。そして、榮と再会した。

 ――随分な偶然だな。

 心の中で皮肉ると、同じ言葉が耳元に流れてきた。

「興味深い偶然だ」

 思わず一成は榮へ視線をちらっと投げる。

「君が歩いているのを見たのは、これが二度目だ。一度目は高校生と歩いていた。とっさにはわからなかった。なぜなら君は大きくなっていた。私の想像を超えて」

 夜の暗闇が車の内部になだれ込んでいて、静かに語る榮の横顔ははっきりとは確認できない。

 ――桐枝と帰っていた時にも通ったのか。

 見られたのかと若干の警戒心が湧いて、そう思う自分に首をかしげた。別に見られても困ることではない。担任と生徒が普通に歩いて帰っていただけのことなのだから。

 ――深水先生の目的は何だ。

 榮の行動に疑念を強める。出会ったのは偶然ではなく必然だった。自分と出会えると確信していたのだ。

 ――なぜ、俺に会いに来た。

 教師になった動機を聞きたかっただけではないはずだ。先程から榮は肝心な部分をはぐらかしている。

「一成」

 不穏な沈黙が垂れ込める中で、榮は涼しげな声で空気を払いのける。

「頭の中で邪推(じゃすい)することではない」

 前を向いたまま、教師のようにたしなめる。フロントガラスの向こうに広がるのは、静寂な暗がりとヘッドライトの派手な光のコントラストだ。

「私が話したいのは、君が道を歩いていたから、私は見つけることができたということだ」

 一成は不可解そうに耳を傾ける。いったい何が言いたいのだろう。

「君は車が故障したと言った。それで歩いていた。その側を私は車を運転して通り過ぎた。とてもシンプルな出来事だが、全てが偶然だった」

 目の前にマンションが見えてくる。