「大きくなった」
信号機が青になって、ミラジーノは車の流れに乗って走り始める。
助手席に座る一成は硬い顔つきを崩さずに息を吐き出す。
「そうですね」
まるで小さかった子供が成長して大人になったと言われた感じがして、少々苛立った。俺は貴方にはそこまで子供に見えたんだなと。
「身長も体重も、失業式からあまり変わっていませんが。深山先生からは大きく成長して見えるようで安心しました」
皮肉げに言いながら一成は胃が痛くなる。けして皮肉好きな相手を喜ばすために口にしたわけではない。
「なるほど、素晴らしい」
榮は丁寧にハンドルを握りながら、ブラックのヘッドレストにゆったりと頭の後部をもたせる。
「口の聞き方も成長したようだ。どうやら会話も愉しめそうだ」
声は含むように笑っている。
一成はそっと右手で左腕の手首を押さえた。自分を落ち着かせるためだ。
外はすっかり暗くなっている。道路沿いの街灯は眩しく光り、車のヘッドライトと共に夜を照らしている。混雑する時間帯は過ぎたので走る車の台数は減っているが、ヘッドライトの光はいまだに道路に流れている。
「悪くはない」
車内がいったん沈黙し、居心地の悪さを感じていた一成は息をひそめて隣を覗き見る。榮はシートにもたれて運転している。暗がりだが、その姿はとてもリラックスしているように見える。
「大きくなった君を乗せて夜にドライブをする。ひどく小説的だ」
感じたことを読み上げるような口ぶりである。
一成は榮から視線を離し、前を向いた。榮はこういう言い方を好む。相手を翻弄させるために。
「貴方は小説家だから、そう感じるんです」
「良い返答だ、一成」
榮の口元は薄く笑っている。
「一流のフランス料理を提供されて、これは美味しい、なぜならフランス料理だからだと答えるようなものだ」
「フランス料理がお好きだったとは、初めて知りました」
榮の言葉に乱されてはならない。一成は胃がキリキリとするが我慢する。もう自分は榮と出会った高校生ではない。相手にそのことをわからせなければならない。
榮はふふっと笑う。
「あの料理はフランス人のように面倒だ。好きではないが、フランス人を知りたかったらフランス料理を食べるといい」
忠告めいて言いながら、青信号の交差点の十字路を直進する。どこに向かっているのだろうと、一成は憂鬱そうにカーウィンドウの外に広がる暗闇の世界を見る。どこに行くのか教えられないまま乗ってしまった。自分も聞かなかった。
「ところで、深水先生」
図書室で出会った榮が二学年の歴史担当の教師であることを知ってから、一成はそう呼んでいる。そう、先生。貴方は俺の先生だった。
「いまさら俺に何の用ですか」
冷静に聞いたつもりだった。声も普段通りだ。ごく自然だ。いまさらと口から出たのは無意識の領域だ。
榮はまっすぐにフロントガラスを向いて運転しながら、綺麗に描かれた瞳をかすかに細める。
「さて、どのように返答しようか」
面白がっている口調だ。
一成はシートの上で気持ちを落ち着かせる。榮に振り回されてはいけない。
「この前、貴方に会ったと聞きました。松本先輩と橋爪先輩から」
この間二人がうるさく喋っていた内容が脳内にこびりついている。古矢と理博が教育関係に関わる催しに出席した話だ。そこで榮と鉢合わせしたという。
「偶然だったんだ! 僕が理博と約束した時間から五分二十一秒後に来たから会えたんだ! だって深水先生は帰ろうとしていたんだよ! 約束時間を守っていたらすれ違いになっていたんだ! 奇蹟の五分二十一秒だ! すごくない!」
「完全にすごくない! お前をくだらなく待っていた私の人生の五分二十一秒を返せ!」
……二人のいつものコント芸を喰らいながら、一成は地を這うような溜め息をつきたくなった。
「二人から俺が教師になったという話を聞いたんですね」
コント芸の最中に「一成も教師になったって話しておいたよ! 深水先生はびっくりしていた! よかったね!」と古矢が良いことをしたオーラを発揮して言ってきたので、誰もいなければそのオーラに水をぶっかけていたかもしれないと思った一成である。
「松本君と橋爪君は、とても立派な男性になっていた」
榮は教え子だった二人をその当時の呼び方で言う。
「二人が教師になっていて、とても誇らしい。私にとっても名誉なことだ。もちろん、君もね」
「俺は自分の意思で教職を選んだんです。貴方が名誉に思うことじゃない」
反射的に言い返してしまい、一成は急いで前方を見つめる。落ち着けと言い聞かせる。感情的な言動はムキになっていると捉えられる。俺が教師になったのは断じて貴方の影響じゃない。
「それはそうだな。君が選択した名誉は君自身のものだ」
榮は静かに受け流して、交差点を右方向へ曲がった。照明の明るさを含んだ窓が夜の街に点在する住宅地へ入って行く。
一成は小さく身じろぎをした。貴方は本当に変わっていないと薄暗い気持ちになる。吾妻学園で過ごした高校三年間は不用意に思い出さないようにしている。三年間。改めて一成にはそれが短いのか長いのか判断がつかない。しかし榮の声も、言葉も、眼差しも、あの時のままだ。少しの濁りも曇りもない。おそらく、両手の肌の……
信号機が青になって、ミラジーノは車の流れに乗って走り始める。
助手席に座る一成は硬い顔つきを崩さずに息を吐き出す。
「そうですね」
まるで小さかった子供が成長して大人になったと言われた感じがして、少々苛立った。俺は貴方にはそこまで子供に見えたんだなと。
「身長も体重も、失業式からあまり変わっていませんが。深山先生からは大きく成長して見えるようで安心しました」
皮肉げに言いながら一成は胃が痛くなる。けして皮肉好きな相手を喜ばすために口にしたわけではない。
「なるほど、素晴らしい」
榮は丁寧にハンドルを握りながら、ブラックのヘッドレストにゆったりと頭の後部をもたせる。
「口の聞き方も成長したようだ。どうやら会話も愉しめそうだ」
声は含むように笑っている。
一成はそっと右手で左腕の手首を押さえた。自分を落ち着かせるためだ。
外はすっかり暗くなっている。道路沿いの街灯は眩しく光り、車のヘッドライトと共に夜を照らしている。混雑する時間帯は過ぎたので走る車の台数は減っているが、ヘッドライトの光はいまだに道路に流れている。
「悪くはない」
車内がいったん沈黙し、居心地の悪さを感じていた一成は息をひそめて隣を覗き見る。榮はシートにもたれて運転している。暗がりだが、その姿はとてもリラックスしているように見える。
「大きくなった君を乗せて夜にドライブをする。ひどく小説的だ」
感じたことを読み上げるような口ぶりである。
一成は榮から視線を離し、前を向いた。榮はこういう言い方を好む。相手を翻弄させるために。
「貴方は小説家だから、そう感じるんです」
「良い返答だ、一成」
榮の口元は薄く笑っている。
「一流のフランス料理を提供されて、これは美味しい、なぜならフランス料理だからだと答えるようなものだ」
「フランス料理がお好きだったとは、初めて知りました」
榮の言葉に乱されてはならない。一成は胃がキリキリとするが我慢する。もう自分は榮と出会った高校生ではない。相手にそのことをわからせなければならない。
榮はふふっと笑う。
「あの料理はフランス人のように面倒だ。好きではないが、フランス人を知りたかったらフランス料理を食べるといい」
忠告めいて言いながら、青信号の交差点の十字路を直進する。どこに向かっているのだろうと、一成は憂鬱そうにカーウィンドウの外に広がる暗闇の世界を見る。どこに行くのか教えられないまま乗ってしまった。自分も聞かなかった。
「ところで、深水先生」
図書室で出会った榮が二学年の歴史担当の教師であることを知ってから、一成はそう呼んでいる。そう、先生。貴方は俺の先生だった。
「いまさら俺に何の用ですか」
冷静に聞いたつもりだった。声も普段通りだ。ごく自然だ。いまさらと口から出たのは無意識の領域だ。
榮はまっすぐにフロントガラスを向いて運転しながら、綺麗に描かれた瞳をかすかに細める。
「さて、どのように返答しようか」
面白がっている口調だ。
一成はシートの上で気持ちを落ち着かせる。榮に振り回されてはいけない。
「この前、貴方に会ったと聞きました。松本先輩と橋爪先輩から」
この間二人がうるさく喋っていた内容が脳内にこびりついている。古矢と理博が教育関係に関わる催しに出席した話だ。そこで榮と鉢合わせしたという。
「偶然だったんだ! 僕が理博と約束した時間から五分二十一秒後に来たから会えたんだ! だって深水先生は帰ろうとしていたんだよ! 約束時間を守っていたらすれ違いになっていたんだ! 奇蹟の五分二十一秒だ! すごくない!」
「完全にすごくない! お前をくだらなく待っていた私の人生の五分二十一秒を返せ!」
……二人のいつものコント芸を喰らいながら、一成は地を這うような溜め息をつきたくなった。
「二人から俺が教師になったという話を聞いたんですね」
コント芸の最中に「一成も教師になったって話しておいたよ! 深水先生はびっくりしていた! よかったね!」と古矢が良いことをしたオーラを発揮して言ってきたので、誰もいなければそのオーラに水をぶっかけていたかもしれないと思った一成である。
「松本君と橋爪君は、とても立派な男性になっていた」
榮は教え子だった二人をその当時の呼び方で言う。
「二人が教師になっていて、とても誇らしい。私にとっても名誉なことだ。もちろん、君もね」
「俺は自分の意思で教職を選んだんです。貴方が名誉に思うことじゃない」
反射的に言い返してしまい、一成は急いで前方を見つめる。落ち着けと言い聞かせる。感情的な言動はムキになっていると捉えられる。俺が教師になったのは断じて貴方の影響じゃない。
「それはそうだな。君が選択した名誉は君自身のものだ」
榮は静かに受け流して、交差点を右方向へ曲がった。照明の明るさを含んだ窓が夜の街に点在する住宅地へ入って行く。
一成は小さく身じろぎをした。貴方は本当に変わっていないと薄暗い気持ちになる。吾妻学園で過ごした高校三年間は不用意に思い出さないようにしている。三年間。改めて一成にはそれが短いのか長いのか判断がつかない。しかし榮の声も、言葉も、眼差しも、あの時のままだ。少しの濁りも曇りもない。おそらく、両手の肌の……