「桐枝」

 一成はソファーから腰をあげた。

「ちょっと立て」

 伝馬は一成を見上げて、はいと返事をし、自分も立ちあがる。

 一成は緊張したような教え子を見下ろした。自分より背は低いが、三年間の高校生活の中で、同じぐらいにはなるだろう。そういう気配がする。

「お前が俺を好きだというのは、よくわかった」

 伝馬の息を呑む様子が伝わってくる。

 一成は呼吸を整えるように一つ息を吐くと、教師の声で言った。

「俺も、それに答えようと思う」

 利き腕が、腰のそばで静かに握り拳をつくる。

「これが、俺の返事だ」

 そう言うなり、利き腕を持ちあげて、まるでボクサーのように伝馬の左頬をぶん殴った。





 ドアが壊れるような音を立てて閉じたのを合図に、一成は手をぶらぶらと振りながらソファーに座った。

「――おっかねえ音だな、一成」

 部屋の奥から、中年男性の暢気な声がした。

「ドアなら壊れていないぞ」

 煙草を吸いたくなって、ワイシャツの胸のポケットを探った。だがなかったので、仕方なく立ち上がり、奥の事務用机に取りに行く。

「お前のパンチが凄かったんだよ」

 声は可笑しそうである。

 一成は相談室を区切ってあるキャスター付きの衝立を乱暴にどけた。この部屋を訪れた生徒たちには見えないが、衝立の向こうには事務用机が二つ並べられてあって、その脇に古ぼけたソファーが一個置いてある。その上で靴を脱いで、まるで自室のように横になって寛いでいるのは、もう一人の相談員だった。

「昼寝していたんじゃないのか? じいさん」
「目が覚めたんだ。いや、いいところで起きたもんだ、俺も」

 筒井順慶は寝返りを打って、人の悪そうな笑顔を見せる。

 一成は引き出しから煙草の箱をひったくると、逆さにひっくり返し、一本取り出した。気分を落ち着かせるように口にくわえて、机の上にあった百円ライターで火をつける。

「おい、ここは禁煙だぞ」
「嫌なら、出てけ」

 そう言いながらも、窓際に寄り、少しだけ窓を開ける。

「苛々するな、一成。ここは野郎しかいないんだぞ? 好きだ嫌いだも、指導の一環だ。それなのにいきなり殴るなんて、可哀相だろうか。せっかく暴れん坊なお前を好きだって言ってくれたのに」

 一成は煙草の煙が外へ流れてゆく位置に立ち、順慶の説教をムカムカしながら聞いていた。どう考えても、こっそりと覗き見していたに違いない。

「お優しいな、じいさんは。昔、俺の頭を百科事典で叩いた暴力教師には到底見えない」
「仕方がないだろう。あれは、お前が宿題を忘れたんだから。お前が悪い」

 一成がこの学園の生徒だった頃、三年間ずっとクラスの担任だった順慶は、にべもなく言う。一成にとっては恩師にあたり、同じ教師という立場になってからは目上の人間にあたるのだが、平気でじいさんと呼んでいた。順慶は別段怒りもしないが、じいさんと呼ばれるにはまだ五十代で、壮健な男である。数学教師で柔道部の顧問でもあり、現在三年二組のクラスを担当していた。どんな強面相手にも負けない大柄で頑強な体格と、どこか茶目っ気のある顔立ちに、デリカシーが欠けていると評判の口を合わせれば、筒井順慶というどこかの武将みたいな名前を持つ男になるのである。

「しょうがないだろう、じいさん。目を覚まさせるには、殴るのが一番だ」

 煙草を口から離し、窓の外へ向けて、ふうっと息を吐く。

「桐枝は、男子校特有のウィルスに感染したんだ」
「ウィルス?」
「先生が好きです、同級生が好きですっていうウィルスだ。男子校を卒業すれば完治する。あの気持ちは何だったんだろうって、不思議に思うんだ」
「身も蓋もない言いっぷりだな」

 順慶はソファーの上で感心する。

「言っとくが、ウィルスじゃない場合だってあるんだぞ」
「じいさんの経験か?」
「俺だって、お前より若いときには、色々とあったもんだ」

 一成は疑いの視線を投げた。どれだけ想像を強くさせても、順慶が同性と付きあっている様子など浮かんでこない。

「俺も長くこの学園で教師をやっているんだ。先生が好きですって言われたこともあるさ」
「物好きもいたんだな」
「昔は、こんなにくたびれていなかったからな」

 からからと笑う声は、まだまだ力がみなぎっている。

「男子校で教師をやっている以上、こういうことは一度は経験するんだ、一成。生徒たちには二度とない高校生活なんだから、もう少し優しく対処しろよ」
「優しくした。力は抜いたからな」
「お前のどこが気に入ったか聞いてみろ」

 順慶は呆れたように投げつけて、また寝返りを打つ。

「その子も可哀相だな。お前みたいなデリカシーに欠けた奴に勇気を出して告白したばっかりに殴られるなんて。明日から登校拒否にならないといいけどな。それに、その子の親がうちの子を殴ったって、怒鳴り込んでこないといいけどな」

 嫌味のようなでかい声の独り言に、一成はそれを弾き飛ばすように煙草の煙を室内に大きく吐き出して、近くにあった安物の丸い灰皿に火を押しつけて消す。

「あとで、桐枝は俺に感謝するはずだ」

 順慶にあてこするように言う。

「あの時殴ってくれたおかげで、夢から目が覚めたってな」
「――おい、一成」

 背中を向けていた順慶は、首だけ回して一成を振り返る。

「お前、さっきから随分と突っかかった言い方をするな?」漢字(かんじ)
「じいさんがうるさいからだ」

 その口閉じろと言いたげに、一成も容赦ない。

 すると、順慶じいさんは男っぷりに溢れた顔立ちに、何やら意味ありげな皺模様を浮かばせた。