「桐枝、座れ」

 麻樹は更衣室の隅にある丸椅子に伝馬を促す。伝馬は少々ポカンとなって目の前の展開を眺めていたが、麻樹に呼ばれてすぐに「失礼します」と言われた通りに椅子に腰かけた。

「長い話じゃない。けれど、短くもない」

 麻樹はもう一つの椅子に伝馬と並んで座る。

 伝馬はきちんと膝の上に両手を置いて、姿勢を硬くする。まるでこれからサスペンス映画でも見るような緊張さが全身を覆っている。

「聞かされた話だ。だから、本当かどうかもわからない」

 そう口にしながらも、麻樹は真剣そのものだ。

 伝馬は心臓の動悸を感じながら、息を殺して麻樹の言葉に全神経をそそぐ。

「俺が一年生だった時に聞いた話だ」

 麻樹は淡々と語り始めた。




 夕闇が迫る中、一成は歩いて帰っていた。

 愛車のフェアレディZはあと数日で修理が終わるという。結局代車は借りずに、車が戻ってくるまで徒歩で学園まで通うという生活を送っていたのだが、歩いて帰るという新たな選択肢ができたのは良かったと感じていた。

 ――スーパーにも普通に立ち寄れるしな。

 帰宅ルートには日常生活に必要な小売店が並んでいる。用事がなければ車はなくても支障はないので、愛車が来るまでマンションと学園だけを往復する生活をしようと決めた。元々アウトドア派ではないし、気ままな独身である。特別に不都合はなかった。

 ――一日が無事に終わるとホッとするな。

 一成はやわらいだ風に一息つく。教職は生徒を相手にしているので、尚更に緊張の糸がゆるむ。車通勤していた時は運転席に座るとそう感じたが、自分の足で帰っていくと、学園外の景色や光景に刺激を受けるからか、ずっと気分がリラックスして心が軽い。この前のような踏んだり蹴ったりの一日ではなかったので余計によろしかった。

 ――生徒たちも何事もなかったし。

 つつがなく学園生活を送れているかどうかが一成には重要である。よく勉強してくれれば言うことはないが。

 ――来月は中間考査がある。その次は体育祭だ。どちらも早く取り掛からないと。

 一成は歩く速度を落とさずにつらつらと考える。中間考査は一年生が受ける初の定期テストだ。一成は全員に良い成績を取って欲しいのでテスト内容も色々と工夫している。良い点数を取れば面白く感じて、勉強にも熱が入るかもしれないという希望を抱いている。それが終われば体育祭だ。

 体育祭は例年七月に行われていて、各クラスで色々と準備が始められる。吾妻学園では生徒会が主体となって開催されるが、一番のメインイベントは各クラスから選ばれた一名がクラス代表の名誉をかけて競い合う学園一文武両道会である。某有名マンガからパロったおふざけ満載の名称で、当初は体育祭を盛り上げるネタイベントだったのだが、人間と言うのは競い始めると冗談では済まなくなっていくのだろう、いつのまにか本気度ナンバーワンイベントになってしまった。内容は名称の通り、文と武の両部門で得点を競い合い、最高得点者が優勝となる。そのクラス代表を決める話をホームルームでしたのだが、生徒たちの反応は鈍かった。まあ仕方ないと一成は理解している。学園に入学してまだ半年も経っていないのだ。だからこそ七月に開催されるのである。一年生たちが体育祭という行事を通じてクラスや先輩たち、学園の生活に馴染んでいけるようにとの学園側の願いである。

 ――その次は期末テストか。

 歩きながら夏休み前の主なスケジュールを頭の中で整理する。後ろから自転車に乗った学生たちが次々と一成を追い起していく。車もスピードをゆるめて注意しながら通り過ぎていく。

 ――桐枝に声をかけられたのはこの辺りだな。

 しばらくして歩調を落とし、住宅街の景色をゆるっと眺める。

 ――そんなに俺は教師が似合わないのか?

 この上なく真剣に聞いてきた伝馬を思い出して、声を洩らして笑う。

 ――まっすぐなんだな、桐枝は。とにかく全てにまっすぐだ。

 自分に対しても己の気持ちを尻込みすることなく告げてきた。

 一成は夕日の影が落ちるコンクリートへ視線を落とす。微妙な影が表情をかすめた。

 ――それが悪いわけじゃない。ただ……

 深いため息がひとつ、吐き出る。

 ――まだ若いんだ、桐枝は。

 だから、わからないんだ。

 一成は近づいてきた夜の気配に両目を伏せる。

 ――俺もわからなかったからな。

 今もわかっているかはわからない。

 一成はふっと自嘲気味に笑う。馬鹿げたことに自分自身もよく理解できていない。恋とか。愛とか。好きとか。

 軽く頭を振り払う。伝馬のことが浮かんだから、なし崩し的に浮かんできた。あの文庫本もだ。自分を(えぐ)る凶器だ。

 足並みを早くした。マンションの一室へ帰って頭も身体も心も休もうと思った。

 一台のメタリックグレーのアクアが道路の端を歩く一成をスムーズに追い越していく。夕方の混雑する時間帯は過ぎたので、歩行者や自転車の通行はあまり見当たらなくなってきた。

 もう一台、スピードを落として通り過ぎていく。ブリティッシュグリーンの可愛いミラジーノだ。

 ミラジーノは一成の少し手前で端に寄ると、ウィンカーをつけて流れるように停止した。

 一成は足を止めた。まるで自分の行く方向を遮るように車が止まった。パッと見て、目にしたことのない車種である。知り合いではなさそうで警戒心が湧いてきた。

 やがて運転席のドアが開いて、中から長身の男性が出てきた。キャメル色のジャケット姿だ。ドアを丁寧に閉めると、一成の方へ革製の靴の爪先を揃えて向いた。

「やあ」

 男性は穏やかな微笑を浮かべる。

「久しぶりだ、一成」

 親し気な声色(こえいろ)だ。

 一成は驚きのあまり、言葉が出なかった。信じられないように目に力を込めて男性を見つめる。その表情は驚愕を通り越して強張っている。まるで恐ろしい夢でも見ているかのように。

「私を忘れてはいないはずだ」

 一成が無言で立ち尽くしているので、男性は苦笑する。

「さあ、一成。私は待たされるのが好きではない。わかっているはずだ」

 どこか自信に満ちた言い方に、一成は束縛が溶けたように息をついた。

「……ええ、もちろん。わかっています」

 胸の動悸が激しい。死にそうなほどだ。

「お久しぶりです……深山(みやま)先生」

 一成が絞りだすように言うと、深山(みやま)(えい)はまるで試験に合格した生徒を見つめる教官のように、祖父のイギリス人の血を受け継いだ端正な容貌で魅惑的に()んだ。