「何だ? どうした?」

 麻樹は振り返ったまま、気軽に聞き返す。

「あの」

 と、伝馬は何て言おうかと少しまごついた。すると麻樹が先回りして言った。

「二階堂先生なら、風邪を引いて今日は休みだ。だから遅れて行っても大丈夫だぞ」

 おそらく伝馬の態度から予想して気を回したのだろうが、伝馬は申し訳なさそうに目線を下げる。

「いえ、あの……部活のことじゃないんですけれど」
「え?……あ、そうか」

 麻樹は何かが閃いたというように、闊達(かったつ)そうな顔立ちを引き締める。

「宇佐美のことか。あいつにはマジでびっくりするよな。一年生はほぼ初めてだろうけれど、びっくりするのが普通だから。でも変な奴じゃないから。ただ声がデカいだけだから。意味不明なところもあるけれど、いい奴だから」

 突っ込み入れながら真剣にフォローする麻樹である。上戸先輩がいい人なんだなと伝馬は改めて安心した。

「すみません、先輩。俺が聞きたいのは……副島先生のことなんです」
「副島先生?」

 麻樹は鸚鵡(おうむ)返しに言う。

「そういや、桐枝の担任だっけ」
「はい」

 伝馬は緊張してきて唾を呑み込む。うだうだと悩んでいい加減に疲れた。

 ――もうどう思われてもいいから聞こう。

 俺はそういう奴なんだと半分開き直った。

「副島先生がどうかしたのか?」

 麻樹はドアノブから手を離して伝馬に向き直る。ちょっとだけ顔色が難しくなった。

「さっき先輩が言っていた空手部の先輩と喋っていた時に、副島先生のことを話していたのが聞こえてきて」

 麻樹は思い出そうとするように頭をかしげる。

「俺たち何か喋っていたっけ?」
「すみません、ほんとに聞こえてきて」

 何度もすみませんを繰り返しながら、伝馬はお腹に力を込めた。

「この間、空手部の先輩が副島先生にも話したって聞いて」
「あいつの声、普通じゃないもんな。聞きたくなくても聞こえてくるよな」

 伝馬の言いにくさを思いやるように麻樹は頷くと、思い出したという表情になって、ちらっと伝馬に視線を投げた。

「副島先生のことか」
「はい」

 伝馬は息をつめる。意味ありげな視線が怖かった。

 麻樹は少々考えるように胸のあたりで両腕をゆるく組む。

「桐枝、ちょっと聞くけど」

 また視線を投げる。

「どうして副島先生のことを聞きたいんだ? 担任だから?」

 その用心深い言い方に、伝馬の心臓の鼓動がマックスまで跳ね上がる。何? 副島先生に何があるんだ?

「あの、実は」

 気持ちがどうしようもなく取り乱れて、もうぶっちゃけることにした。

「俺、副島先生に告白したんです!」

「……」

 麻樹はパソコンがフリーズしたように数秒間腕を組んだ状態で固まった。それから両目がぱちぱちと瞬きし、身体の起動動作が回復すると、おもむろに前のめりになってゲホゲホッと咳き込んだ。

「……こ、告白?」

 声がひっくり返っている。

「桐枝、先生に告白したのか! マジか!」

 そのまま腰を抜かしそうになる。吃驚仰天という言葉を体現するのに相応しい剣道部主将のリアクションである。

 伝馬はさすがに恥ずかしくなって顔中が火照(ほて)った。言わなきゃ良かった。しかし頑張って前進した。

「そうです。だから俺」

 喉も熱くなる。声がかすれそうになったが、大きく深呼吸をして精いっぱい吐き出した。

「俺、副島先生のことを知りたいんです。できる限り」

 そうだと、伝馬は強く肯定した。俺は知りたいんだ。副島先生のことをたくさん知りたいんだ。とにかく知って知って知って。そして、もう一度――

 麻樹はまだ驚きの余韻冷めやらぬようだったが、これ以上ないくらい真面目な顔つきの伝馬を前に静かに口をつぐんだ。その両目は気遣うような(いた)わるような温かいもので、新入部員の後輩を見つめる先輩としては本当に優しかった。

「よし」

 ほどなく、麻樹は腹が据わったような一声を出した。

 伝馬は緊張で顔を強張らせながら麻樹を見上げる。

 と、その瞬間、更衣室のドアがド派手に開いた。

「上戸!! 居るのはわかっている!! さあ俺の話を聞け!!!」

 ビッグな声と共に両腕を広げた宇佐美が、空手着姿でダイナミックに登場する。その背後には同じ出で立ちの生徒が数人わらわらといて「主将! 早く戻って来て下さい!」「副主将がマジ切れしてるんです!」とギャグマンガのように宇佐美へ口々に訴えていたが、肝心の主将もまたギャグマンガのお約束よろしく聞いていない。

 麻樹は表情を変えずに後ろを向いた。意気軒高に立つ友人を冷静に見て「宇佐美」と真顔で言う。

「俺とお前は、無二の親友だよな」
「無論だ!! 俺に二言はない!!」
「だよな。なら、更衣室のドアの前に立って、部屋に誰も入れないようにしてくれ。やれるよな?」
「無論だ!! 俺にできないことはない!!!」

 宇佐美は全人類の耳の鼓膜に届けと言わんばかりのデカ声で力強く了承すると、ド派手にドアを閉めた。廊下からぎゃあぎゃあと騒ぐ会話が聞こえてきたが「俺は無二の親友との約束を守らねばならん!! それが俺の使命だと財前に伝えるがいい!!」との宇佐美のどや顔宣言で空手部員たちは絶句したらしく鎮静化した。