――俺って、馬鹿なんだな。

 最近の伝馬のトレンドである。オレッテ、バカナンダナ……

 この間のことが胸の中で黒いしこりとなっている。そのしこりの名前は憂鬱(ゆううつ)だ。

 ――先生と一緒に帰れたのは嬉しいけれど。

 下校途中で偶然一成を見つけて、思い切って声をかけた。帰る方向が同じだったので、少しの間だったが一成と二人っきりになれた。伝馬は舞い上がっていたが、まっすぐに伸びている一成の背中を見つめながら、気になっていることを聞こうかという気持ちが湧いてきた。胸内で重たくなった曇り空が夕暮れ時の景色と染まりあって、背中を後押しした。

 いざ切り出してみた。「聞きたいことがあるんです、先生」だが一成が怪訝そうに顔をかしげたのが目に映ると、伝馬は言葉に詰まった。「先生は、恋の話とか、好きじゃないんですか?」まさしく猪突猛進(ちょとつもうしん)に聞こうとして、急いで呑み込んだ。

 ――圭に言われたのは、そういうところだよな……

 伝馬も怪我をするよというありがたい助言を思い出して踏みとどまった。しかし何かを言わなければ不審がられるだろう。とっさに浮かんだことを口にした。伝馬的にはこれで変に思われずに済んだとホッとしたが、家に帰ってから、逆にどうしてあんなことを聞いたんだろうという後悔の沼に頭のてっぺんまでどっぷりと漬かってしまった。

 ――どうして教師になったんですかなんて、すごい馬鹿なこと聞いたよな……圭が知ったら呆れるだろうし、勇太も……

 いや勇太は何とも思わないだろうなと考えつつ、ため息が出そうになるのを何とか踏ん張る。昼休憩時に一成が読んだ本を貸してくれる約束をしただけで、ちょっとだけ気持ちも浮上した。

「まだ喋っているってヤバくね?」

 颯天(はやて)がドアへ視線を投げる。他の一年生や二年生、三年生たちも更衣室に集まって着替えていて賑やかだ。だが肝心の主将は現れない。ドアを閉めていても廊下の騒々しい空気が更衣室まで伝わってくる。

「上戸先輩も大変そう」
「大変だけど、大丈夫じゃないか」

 何だかんだ言って仲良さそうだしと口にすると、颯天はちょっとだけ考えるように白い天井を見て「ヤバい」と呟いた。

 道着に着替えた順に道場へ向かう。更衣室を出る度に廊下の声が筒抜けだが、みんな俯きながら通り過ぎる。一年生たちも固まって向かおうとした。

 最後に伝馬が更衣室を出ようとして、一応室内を見回したら窓が開いていた。颯天たちには先に行くように伝えて、窓辺に近づき窓を閉めて鍵をかける。以前に窓を開けっぱなしにしていたら、生徒が窓から入ってきたというアニメのような話を聞かされた。その生徒は友達と冗談半分でやった行為のようだが、顧問の雷太に見つかり説教。担任からも説教。学年主任からも説教。もちろん両親からも大説教。一生分の説教を一日で喰らったそうだが、当人は全くノーダメージだったそうだ。ということを麻樹が話してくれたので、麻樹と同じ三年生なのかなと伝馬は推測したりしたが、その話の趣旨は誰もいない時は窓に鍵をかけましょうということなので、それを実行した。

「アホか!」

 荒っぽく更衣室のドアが開いて、麻樹が入ってきた。

「俺は宇佐美の母親じゃないっつうの! 宇佐美を体育委員長にしたのは藤島だろうが! 藤島が責任もって宇佐美とやれって!」

 全部の窓を閉めて鍵をかけてから、伝馬は振り向く。麻樹は自分のロッカーを開けて黒いバックパックを肩からずり下ろすと、頭に右手をやってハーっと疲れたような息を洩らした

「上戸先輩」

 伝馬が声をかけると、え? というように顔を上げて振り向く。人がいることに気づかなかったようだ。

「桐枝? どうした?」

 真新しい入部生たちの名前はしっかりと覚えた主将である。伝馬は安心して近づく。

「窓を閉めていました。最後にこの部屋を出るのは自分だったんで」
「なんだ、まだ俺がいるから大丈夫だぞ」

 麻樹は表情を崩して笑う。

「本当は先輩の連中がちゃんと確認しなきゃいけないんだ。桐枝はまだ新入生だし、そんなに気を使うことない」
「あ、はい」

 麻樹も気遣ってくれているのがわかる。

「桐枝はいつも周りに気を配っているよな。世話焼きっていうか。すげえなって思う。たまには面倒臭がってもいいんだぞ」

 部を率いる主将らしく周囲を細かく見ているようだ。くだけた調子ながらも伝馬のことを考えてくれているのが伝わってきて、伝馬は少しだけ俯いた。なんとなく気恥ずかしい。そんなに周りの面倒を見てはいないと思うが、麻樹にはそう見えるのだ。

 ――上戸先輩こそ気を使ってくれているよな。俺たち一年生にも。

 ちょっとほんわかした。

 麻樹は手早く制服を脱いで藍色の道着と袴に着替える。手慣れた動きで身だしなみを整えると、伝馬を振り返った。

「さ、行くぞ」

 伝馬も「はい」と返事をしてついて行こうとした。だが胸の中の黒いしこりがざわざわした。

 ――聞いてみようかな。

 思い切って。

 ――誰もいないし。

 こんな場面はあまりない。

 更衣室を出ていこうとする麻樹を、伝馬は息を呑んで窺う。変に思われたらどうしよう。でもいいか。俺が気になっているんだから。いや気になっていても聞いたら駄目だ。もっとよく考えてから。でも――ハムスターが動かす回し車のように思考回路がクルクルと回転して、さらにコロコロと回転して、まだまだ大回転していく。

「どうした、桐枝」

 ドアノブに手をかけて、麻樹は動こうとしない伝馬を振り返る。

「具合でも悪いのか」

 心配そうに言葉をかけられて、回し車はぴたっと止まった。

「上戸先輩」

 伝馬は思い切ったように前に進み出る。

「あの、聞きたいことがあるんですけれど」