「お、一成」
昼休憩時、図書室のドアを開けて入ると、テーブル席にいた七生が気づいて顔を上げた。背の高い男子生徒と文庫本を片手に話をしていたようで、一成が現れると、その生徒は「また来ます」と言って七生から文庫本を受け取り、一成と入れ違うように出て行った。
「なんだ、気にすることはないぞ」
一成は閉じられたナチュラルカラーのドアに向かって洩らす。今の生徒は自分が担任するクラスの子だ。鷹羽遼亜。バスケ部に所属している。物静かだが、大人しいわけではない。
「本の話をしていたんだ。ちょうど解釈が一致したところだから大丈夫」
七生は軽く手を振る。
「盛り上がって、つい話し込んじゃって。悪いことしたよ。お昼休みなのに」
と言いながらも、色気たっぷりの男振りがいい顔が隅々まで笑顔になっている。よほど嬉しいんだなと、親のような気持ちで一成は見守る。おそらく本好きモード全開で感想を喋りまくっていたのだろう。ただ遼亜がそんな七生の相手をするくらいに本を読むとは初めて知った。
「良かったな、七生」
「うん」
七生は少年のように頷く。
「この間の一成が羨ましくて。俺もそういうことをやって欲しいなって思っていたら、すごく本の趣味が合う生徒がいてね。結構図書室を利用してくれる子だったから、活字が好きなんだろうなとは思っていたんだ。確か一成のクラスの子だったかな」
「そうだ。そんなに図書室を利用しているとは知らなかった。本が好きなんだな」
「そうなんだよ」
饒舌に語る口調はとても熱い。
「その子が借りた本がミステリーで俺も面白かったから、なにげなく声をかけたら話が盛り上がったんだ。すごく楽しかったし、幸せだった。わかる? 一成? カクテルを飲みながら空を飛びたい俺の気持ちが」
「良かったな」
なぜカクテルを飲みながら空を飛びたいのかは理解できないが、気持ちが舞い上がっているのはよくわかった。下手なことは口が裂けても言えない。良かったなという言葉が一番ベターである。
一成はそっと周囲を見回す。図書室にはそれなりに生徒たちがいるが、みんな静かだ。自分と七生の会話が静寂な空間にノイズを発している。図書室は基本私語厳禁なので、図書室司書が率先してルールを破っているのは大変によろしくない。でも仕方がないだろうと高校時代からの友人は思う。オタクは推しを喋り始めたら止まらないのだから。
「そうだ、一成にもその本を勧めようと思っていたんだ。ちょうどあの子が返却してくれたから貸すよ」
七生は返却棚から文庫本を一冊持ってくる。
「ほら、深水先生の最新作だ」
一成は目の前に差し出された文庫本を黙って見つめる。表紙の一面は深くて暗い青色で統一され、脆く透明な色で『片想いの相聞歌』と端整に綴られている。まるで日も射さない深海の海中で文字が揺蕩っているような表紙のイメージだ。記されている人名もまた深海の奥底に沈んでいる。
「シリーズの新作だ。一成も読んでいただろう?」
「……そうだったな」
最初に七生から紹介されても読む気は起きなかったが、なぜか本のページをめくっていた。話自体はあまりよく覚えてはいない。
「面白いよね、このシリーズ。高校教師が事件を推理して解決するなんて、深水先生の願望だったのかな」
「さあな」
自分に差し出されたので、流れで一成は受け取った。七生の好意を無下にはできない。
「読み終わったら、また語ろうよ」
七生は気安く誘いながらも、両目は期待に満ち満ちて圧が凄い。一成は文庫本を片手に、内心の複雑な気持ちを押し隠して期待に応えた。
「読んだら返す。今忙しいから、すぐには無理だが」
「いいよ。楽しみにしている」
心底嬉しそうな七生をこれ以上刺激しないように、一成は図書室を去ろうとした。
「あれ、そういえば一成は図書室に何か用事があったわけ?」
ふと思いついたように七生は声をかける。しかし一成は「大した用じゃない」と伝えてドアを静かに閉めた。
まだ昼休憩時間なので、廊下には生徒たちがいて、何やら楽しそうにお喋りしている。それらを背にして職員室へ向かいながら、溜息が出そうになるのを堪える。
――まさかこの本を渡されるとはな。
文庫本なのに無性に重たく感じられる。まるで厚いハードカバーを持っているかのようだ。
――どうしようか……
七生との語る会は別に苦ではない。毎回七生が一人でディープに語りまくるので、自分は聞き役に回ってうんうんと相槌を打っている。それはいい。問題はそのためにこの本を読まなければならないことだ。
――既刊の二冊は目を通しはしたが……
どうして読もうと思ったのか自分でも理解できない。
――俺は……まだ知りたかったんだろうか……
一成は遮るように頭を少し振った。それ以上考えたくはなかった。
職員室へ戻ると、活気みなぎる喧しい声がドアを開けた瞬間に真正面からぶつかってきた。
「では君たち! 今から僕の言うことをよく聞いて!」
古矢が椅子から立ち上がって、スペシャルに盛り上がっている。
「まずは新呼吸だ! さあ吸って! 吐いて!!」
いきなり職員室でラジオ体操かとはた迷惑そうに眉をひそめた一成は、古矢の目の前で棒立ち状態になっている二人に三白眼を見開く。
「まずは君! 桐枝君! 次は君だ! 綾野君!」
昼休憩時、図書室のドアを開けて入ると、テーブル席にいた七生が気づいて顔を上げた。背の高い男子生徒と文庫本を片手に話をしていたようで、一成が現れると、その生徒は「また来ます」と言って七生から文庫本を受け取り、一成と入れ違うように出て行った。
「なんだ、気にすることはないぞ」
一成は閉じられたナチュラルカラーのドアに向かって洩らす。今の生徒は自分が担任するクラスの子だ。鷹羽遼亜。バスケ部に所属している。物静かだが、大人しいわけではない。
「本の話をしていたんだ。ちょうど解釈が一致したところだから大丈夫」
七生は軽く手を振る。
「盛り上がって、つい話し込んじゃって。悪いことしたよ。お昼休みなのに」
と言いながらも、色気たっぷりの男振りがいい顔が隅々まで笑顔になっている。よほど嬉しいんだなと、親のような気持ちで一成は見守る。おそらく本好きモード全開で感想を喋りまくっていたのだろう。ただ遼亜がそんな七生の相手をするくらいに本を読むとは初めて知った。
「良かったな、七生」
「うん」
七生は少年のように頷く。
「この間の一成が羨ましくて。俺もそういうことをやって欲しいなって思っていたら、すごく本の趣味が合う生徒がいてね。結構図書室を利用してくれる子だったから、活字が好きなんだろうなとは思っていたんだ。確か一成のクラスの子だったかな」
「そうだ。そんなに図書室を利用しているとは知らなかった。本が好きなんだな」
「そうなんだよ」
饒舌に語る口調はとても熱い。
「その子が借りた本がミステリーで俺も面白かったから、なにげなく声をかけたら話が盛り上がったんだ。すごく楽しかったし、幸せだった。わかる? 一成? カクテルを飲みながら空を飛びたい俺の気持ちが」
「良かったな」
なぜカクテルを飲みながら空を飛びたいのかは理解できないが、気持ちが舞い上がっているのはよくわかった。下手なことは口が裂けても言えない。良かったなという言葉が一番ベターである。
一成はそっと周囲を見回す。図書室にはそれなりに生徒たちがいるが、みんな静かだ。自分と七生の会話が静寂な空間にノイズを発している。図書室は基本私語厳禁なので、図書室司書が率先してルールを破っているのは大変によろしくない。でも仕方がないだろうと高校時代からの友人は思う。オタクは推しを喋り始めたら止まらないのだから。
「そうだ、一成にもその本を勧めようと思っていたんだ。ちょうどあの子が返却してくれたから貸すよ」
七生は返却棚から文庫本を一冊持ってくる。
「ほら、深水先生の最新作だ」
一成は目の前に差し出された文庫本を黙って見つめる。表紙の一面は深くて暗い青色で統一され、脆く透明な色で『片想いの相聞歌』と端整に綴られている。まるで日も射さない深海の海中で文字が揺蕩っているような表紙のイメージだ。記されている人名もまた深海の奥底に沈んでいる。
「シリーズの新作だ。一成も読んでいただろう?」
「……そうだったな」
最初に七生から紹介されても読む気は起きなかったが、なぜか本のページをめくっていた。話自体はあまりよく覚えてはいない。
「面白いよね、このシリーズ。高校教師が事件を推理して解決するなんて、深水先生の願望だったのかな」
「さあな」
自分に差し出されたので、流れで一成は受け取った。七生の好意を無下にはできない。
「読み終わったら、また語ろうよ」
七生は気安く誘いながらも、両目は期待に満ち満ちて圧が凄い。一成は文庫本を片手に、内心の複雑な気持ちを押し隠して期待に応えた。
「読んだら返す。今忙しいから、すぐには無理だが」
「いいよ。楽しみにしている」
心底嬉しそうな七生をこれ以上刺激しないように、一成は図書室を去ろうとした。
「あれ、そういえば一成は図書室に何か用事があったわけ?」
ふと思いついたように七生は声をかける。しかし一成は「大した用じゃない」と伝えてドアを静かに閉めた。
まだ昼休憩時間なので、廊下には生徒たちがいて、何やら楽しそうにお喋りしている。それらを背にして職員室へ向かいながら、溜息が出そうになるのを堪える。
――まさかこの本を渡されるとはな。
文庫本なのに無性に重たく感じられる。まるで厚いハードカバーを持っているかのようだ。
――どうしようか……
七生との語る会は別に苦ではない。毎回七生が一人でディープに語りまくるので、自分は聞き役に回ってうんうんと相槌を打っている。それはいい。問題はそのためにこの本を読まなければならないことだ。
――既刊の二冊は目を通しはしたが……
どうして読もうと思ったのか自分でも理解できない。
――俺は……まだ知りたかったんだろうか……
一成は遮るように頭を少し振った。それ以上考えたくはなかった。
職員室へ戻ると、活気みなぎる喧しい声がドアを開けた瞬間に真正面からぶつかってきた。
「では君たち! 今から僕の言うことをよく聞いて!」
古矢が椅子から立ち上がって、スペシャルに盛り上がっている。
「まずは新呼吸だ! さあ吸って! 吐いて!!」
いきなり職員室でラジオ体操かとはた迷惑そうに眉をひそめた一成は、古矢の目の前で棒立ち状態になっている二人に三白眼を見開く。
「まずは君! 桐枝君! 次は君だ! 綾野君!」