「よーし、一年生は帰っていいぞ!」

 剣道部主将の上戸(うえど)麻樹(あさき)が雑巾片手にそう言い渡すと、稽古場を掃除していた一年生たちは元気よく返事をして、雑巾やモップを手早く片付けた。それから先輩たちに挨拶をして、隣の更衣室で着替えると、また明日と言葉をかけ合いながら、それぞれに出ていく。

 伝馬も制服に着替えて、上着のボタンを締める。剣道部に入部し一ヶ月以上は過ぎた。だいぶ部活に馴れてきている。稽古や筋トレはきついが雰囲気が良い。入部した一年生は七名で、伝馬も含めて和気藹々(わきあいあい)とやっている。先輩たちも変に厳しくはなく、主将の麻樹は話しかけやすい。元来面倒見が良いのだろう。挨拶も率先してやってくれる。顧問の二階堂雷太(らいた)は遠慮なくスパルタやるが。

「今日も先生、いつものようにヤバかったな」

 隣で着替えた倉本颯天(はやて)はこぼす。

「剣道は気合いだ、気合いで相手を突けって、ヤバくね?」
「うん、ヤバいな」

 伝馬は颯天の言い方を真似る。

「あれは先生の口癖なんだと思う。とりあえず、気合いって言っておかないと、自分が落ち着かないっていうか」
「それって、絶対ヤベーよ。気合いなんか、オレねーよ」

 颯天はロッカーの戸を弱々しく閉める。

「マンガみたいな根性論がいっちばん苦手なんだ。オレは楽しく竹刀を振り回したいだけなのに」
「別に大丈夫じゃないか?」

 伝馬は入部してから稽古中の先輩たちの様子を見ていて、顧問の雷太には結構フレンドリーに意義を唱えているのに気づいた。

「この前、上戸先輩が先生に言っていたぞ。一年生には気合いじゃなくて、もっと具体的な指導をして下さいって」

 それに対して、ごついといかついで外見が成り立っている雷太は両腕を組んで、うーんと難しく考え込んでいた。その態度からは主将の申し出を真摯に受け止めているという感じだったが、(ふた)を開けてみれば、気合いだ! とまた口から飛び出している。伝馬にすれば、毎度の口癖なんだろうなあという結論だ。

「なんだよ、やっぱりヤベーじゃんか」

 上戸先輩がせっかく言ってくれているのにと、颯天はヤベーを繰り返す。颯天のヤベーも顧問の気合いだ! も根本的に一緒なんだろうなと伝馬は思ったりした。颯天とはクラスは違うが、なにげにウマが合って友人になり、部活が終わると途中まで一緒に帰っている。

「もう帰ろう、倉本」

 伝馬は更衣室のドアを開け、へーいと颯天がついていく。

 廊下に出た途端、馬鹿デカい声に襲われた。

「俺の恋愛運がついに爆発した!! 聞いているか!! 上戸!!」

 伝馬も颯天も更衣室のドア前で突っ立ち、襲いかかってきた方へ揃って顔を向ける。稽古場がある廊下から麻樹ともう一人の生徒が歩いてくる。剣道部の先輩ではない。

「聞いているって。俺の鼓膜が破れたら責任取れよな」

 麻樹はあからさまに右側の耳に手を添える。よほどうるさいのだろう。しかし海坊主のような頭と牛のような体格で白い空手着を着ている生徒は、頓着なく胸を張る。

「大丈夫だ!! まだ俺の周りで鼓膜が破れた奴はいない!! ということは上戸も大丈夫だ!!」

 口から言葉が飛び出る度に、ビックリマークが一個も二個も三個もくっついているようなデカ声だ。

「あの先輩、だれ?」

 小声で颯天が聞く。しかし伝馬もちょっとだけ横に首を振る。

「だから聞け!! 俺もついにきたぞ!!」

 麻樹の同級生で空手部主将の蘭堂(らんどう)宇佐美(うさみ)は、牛がモーモーと大きく鳴くようにダイナミックに吠える。

「彼女から連絡がきた!! 今度会いましょうって!!!」

 盛大にビックリマークをくっつける。

「あ、そっ」

 麻樹は宇佐美から思いっきり身体を引いて、手で両耳を押さえている。ちなみに二人のずっと後方には剣道部のニ・三年生たちがいるが、誰一人近寄ろうとしない。

「どうでもいいけど、彼女の鼓膜破くなよ」
「ふん!! 副島先生と同じことを言いおって!! 嫉妬は見苦しい!!」
「副島先生にも話したのかよ」

 麻樹が表情をしかめて呆れる。

 一成の名前に、声がうるさいだけで興味なく眺めていた伝馬がピクッと反応した。

「先生にそんなしょうもない話をするな」
「しょうもない話じゃないぞ!! 俺に彼女ができるかもしれないのが、そんなに羨ましいのか!! 見損なったぞ上戸!!」
「アホか」

 麻樹は両耳を押さえて突っ込む。

「先生はそんな話好きじゃないって。宇佐美もいい加減に気づけ、バカ」
「バカとはなんだー!! そんなに彼女ができた俺が羨ましいのかー!!」

 宇佐美は海坊主も真っ青な迫力で麻樹に詰め寄る。だが麻樹は毎度お馴染みの光景なのだろう、ハイハイと適当に受け流し、更衣室の前で石像のように立っている二人の新入生に気がついた。

「お前ら、大丈夫だから帰っていいぞ」

 おそらく宇佐美にびっくりしたのだろうと、これまた何度も目にした光景であるらしい麻樹は片手を振って、帰れ帰れと促す。

 伝馬と颯天は石化の魔法が溶けたように主将へ頭を下げると、昇降口へ向かって歩く。

「あのな、俺と会話したかったら、まずその口のボリュームを下げろ。お前のバカ話より俺の鼓膜が大事なんだよ」
「それが無二の親友の幸せに対する態度か!! お前は何て奴なんだ!!」
「お前の無二の親友でいて欲しかったら普通に喋ろ。出来なかったら、ここでお前との友情も終わり。じゃあな」
「信じられないぞ上戸!! そんな簡単に終わる友情だったのか!!」
「そうだよ。友情が終わるくらいうるさいんだよ」

 後ろから延々と聞こえてくる剣道部と空手部の無二の主将同士の会話を背中に貼りつけて、伝馬と颯天は学校を出た。