感情の苛々を抑えるように、自分専用の胸板に遠慮のかけらもなく背中を押しつけて()しかかる。冴人は自分が学園不在の間の様子を順慶にも聞いている。順慶はそうだなあとごつい手で首筋を撫でながら毎回話す。といっても大した内容ではない。大体が副理事長や校長と同じだ。一成よりは少しだけ話を水増ししているが。

 今回もいつものように内容が無いような話をしたあとで、おまけとして相談室での一件を口にした。順慶からすれば男子校の青春の一つだという認識なのだが、冴人は文字通り血相を変えた。

「普通に口で(さと)せばよいだけの話ではないか。そこでなぜ手を出すのだ。一成め」

 聞いている順慶は冴人に気づかれないように首をひねる。確かに冴人だったら口を開いてちゃんと言葉にするだろうが、その言葉の選択を誤れば、逆上もしくは怨恨を買い、相手にナイフか包丁で刺される危険性がある。というより、冴人の日頃の態度から予想するに、間違いなく逆上&怨恨ルートだ。まあ俺が側にいたら大丈夫だけどなと、オチまで想像する長年の専任ボディガードである。

「そんな深刻に心配することじゃないだろう。一成を信じてやれ。お前の甥だぞ」
「私が心配しているのは一成ではない」

 問答無用で尖りまくっていた唇が、やおら切なく悲しげな息を吐き出した。

「このことを知ってしまわれたら、大切なお姉様がどのようにお心を痛められるか」

 いきなり染み一つない両手で顔を覆うと、心配だと肩を震わす。

「……」

 ああ始まったと、順慶は冴人専用の胸板に徹した。冴人が「大切なお姉さま」の話をし始めたら、下手に口を聞かないのが身のためである。精神的に。

「誰よりもお美しく、気高く、そしてお優しいお姉様……息子の所業を知ってしまわれたら、お姉様のお心が悲しみに打ちひしがれてしまわれるだろう……ああ、なんてお可哀想に……私の大切なお姉様が……」

 冴人は顔を伏せて辛そうに絞り出す。両手もふるふるしていて、鼻まで啜っている。涙を流す寸前まで感情が昂っているのかもしれない。

「……」

 冴人にとって壁となっている順慶は、そのまま冴人の感情が落ち着くまで壁になることにした。冴人が極度の「お姉様っ子」なのは長年の付き合いからもはや驚くことではないが、五十を過ぎても変わらず、それどころかパワーアップしているような気がするのは自分の思い過ごしではないだろう。まあ冴人だからと、順慶は何とも思わないが、他人から見ればひたすら不気味である。ただ不思議なのは、冴人の「大切なお姉様」の字面のイメージは清楚で可憐だが、実際に何回か会ったことがある順慶のイメージは「よお姉御!」である。

「……私の大切なお姉様を悲しませるようなことは、断じて防がねばならない」

 冴人は顔を伏せながら両手を口元まで下げる。尊大な三白眼がきらりと鈍く光る。

「一成は見境のない男じゃない。ちゃんと常識を(わきま)えているぞ。子供じゃないんだからな」

 何やら不穏な空気がぷんと匂ってきたので、順慶は冴人の「大切なお姉様」へのビッグな感情を刺激しないように、やんわりとだが的確に口添えする。

 すると冴人はむくりと顔を上げ、明らかに気に入らないという体で背後の壁を振り返った。

「順慶、お前は私の味方なのか。それとも一成の味方なのか」

 両目が据わっている。

 しょうがないなあと順慶は胸の中で苦笑いした。どうも間違った方向のスイッチを押してしまったらしい。

「俺はいつだってお前の味方だ。わかっているくせに聞くな」

 敵とか味方とかいう問題ではないのだが、冴人がこれ以上ヘソを曲げないように後ろから優しく抱きしめた。

「わかっているのならば、私を怒らせるな」

 冴人は片眉を上げてぴしゃりと言うが、順慶の大きな腕の中に大人しく抱かれたままなので、居心地は良いのだろう。順慶も気持ちよさそうに冴人の肩に顔を寄せると、まだまだ肌艶が整っている身体をぎゅっとした。

「筒井順慶、お前に命じる」

 自分を守るように包み込む温かい肌を感じながら、冴人はご主人様の口調になる。

「一成を見張れ。不心得なことをしないよう、逐一私へ報告するように。いいな」

 当然自分の言う通りにすると信じて疑わない態度だ。順慶は「わかった」とご主人様へ返事をしたが、頭の中では冴人はドラマの見過ぎだろうと呑気に呆れた。教師と生徒がイケない関係になるなど、そうそうあってたまるか。いくら男子校だからといって――




「お、いらっしゃい、一成」

 お昼休みに借りた本を返すため図書室へ行くと、司書の貴水原(たかみはら)七生(ななみ)がカウンター席で椅子に座りながら、まるで客を出迎えるバーテンダーのようにゆったりとした笑みを浮かべた。

「本を返しに来た」

 一成は右手で持っていたハードカバーの分厚い本をカウンターに丁寧に差し出す。七理は椅子から立ち上がると、その本のページを軽くめくった。

「俺が紹介した本は面白かったか?」
「面白かった。七生は面白い本を見つけるのが相変わらず得意だな」
「ふん、嬉しいね。それじゃ、俺と一緒にこの本を語り合おうか」

 まるで一緒に飲もうかという気軽さで、七生はその分厚い本を閉じて自分と一成のちょうど真ん中に置くと、夜の男のような色気を放つイケメンの顔立ちを輝かせて、目の前の一成に期待に満ちた目を見せる。