「それじゃ、叔父貴を助けたからもう用事はないな。俺は忙しいから行くぞ」
何か言われる前にさっと背を向けて、部屋から脱出しようとした。
「待て、一成」
自分が命令すれば従うのは当然という尊大な声が、ふかふかな床の上を飛来して速やかに目標物へ到達する。
一成は鬱陶しそうに振り返る。冴人は両手を組んだ状態で身動き一つせずに、非常に怜悧で鋭い眼差しを向けていた。
「本当に、何もなかったのか」
一成は怪訝そうな表情を浮かべる。冴人の口振りが疑問形だからだ。
「俺が知っている限りは、叔父貴が気にすることは何もない。本当だ」
「そうなのか?」
冴人は一挙手一投足を見張るように、一成へ視線を貼りつけている。
「そうだ」
一成はきっぱりと言い切ると、冴人へ抗議を示すために無言で扉を開けて部屋を出た。
――一体、何なんだ。
相変わらず人気のない廊下を進みながら、一成は冴人の言動に首を傾げる。今までにない話の展開に少々驚いていた。明らかに理事長の冴人は何かを疑っていた。それにはどうも自分が関わっているようだ。
――何かしたか、俺は。
歩調をゆるめ、両腕を組みながら記憶を辿る。授業中に夢の世界にいた食べ物大好きな生徒を叱ったこと。廊下を陸上選手のように走っていた陸上部所属の生徒を叱ったこと。放課後の掃除中にモップでチャンバラしていた仲良し二人組の生徒たちを仲良く叱ったこと。相談室へ惚気話をしに来た彼女いない歴が長かった生徒をうるさいと叩き出したこと。以下云々。
――ほとんど叱ってばかりだな、俺は。
うーんと唸る。もしかしてそれに対して生徒の親たちから苦情がきたのかもしれない。今はどんな屁理屈でもごねた者勝ちの時代だ。それならば大ケ生校長から出頭命令が来るはずだが、理事長経由なのは身内というプレミアム感のせいなのかもしれない。
――しかしあの叔父貴が事をはっきりと言わないのもおかしいな。
まるで自分を試すように訊いていた。
一成は階段を粛々と下りていく。あとは……
ふと、前方に見える窓に目がいく。ガラス窓いっぱいが夕日の光で輝いていて、廊下まで赤焼けに染まっている。
一成は階段を下りて廊下の窓側へ足を向ける。綺麗な夕焼けが西の空に溢れていて、地上のグラウンドでは生徒たちがそれぞれの部活動に精を出している。普段通りの放課後の日常風景だ。
なぜかほっとした気分になって、一成は職員室へ戻ろうとした。テストの採点が待っている。あの二人の先輩はまだ残っているんだろうなとまたまたゲンナリしながら歩いていくと、職員室がある前方から誰かが小走りでやってきた。
伝馬だった。
一成はさりげなく歩く速度を落とした。伝馬が自分へ向かって来るのがわかったからだ。
「先生!」
伝馬は文字通り突進してきた。
「どうした」
自分の手前で慌ただしく足を止めた教え子を温かく見やる。あの相談室での出来事からまだひと月も経ってはいないが、一成は普通に接している。伝馬がガンを飛ばしてこようが、俺は絶対に負けないと宣言しようが、担任としての責務と気持ちを疎かにはしなかった。ただ殴ったのはちょっと悪かったかなと罪悪感もどきがちらりと心を掠めたが。
――だいぶ落ち着いたな。
伝馬は部活動から抜け出してきたのだろう。真新しい紺色の道着と袴姿を視界におさめながら一成は一息つく。あの一件以降荒れていたように感じたが、最近は態度が平常に戻ってきた。自分の手荒い返答が原因なのは重々承知しているので、一成は担任として本当に良かったと胸を撫でおろしている。
「先生、あの」
伝馬は両脇に垂らした手で拳を握り周囲を軽く見回すと、いきなり大きく頭を下げた。
「すみませんでした!」
一成は面食らったように腰からきっちり九十度の直角で上半身を前に倒した短髪の頭を眺める。今度は何が起きたんだという素朴な疑問が脳内を駆け巡った。
「どうした、桐枝」
もう一度訊いてみる。
「頭を上げろ。どうして謝ってくるんだ?」
素早く今日一日を振り返る。特に問題は起きてはいなかったと認識しているが、自分の知らないところで何かあったのか。
――桐枝は問題行動を起こす生徒じゃないのにな。
ただし直球でリアルな感情をぶつけてはくる。
そんなことを考えながら見守る一成の前で伝馬は遠慮がちに上半身を起こすと、些かの躊躇いもなく担任を直視した。
「俺、反省しました」
「――何か反省するようなことがあったのか?」
どんな時でもまっすぐに相手を見つめる伝馬に多少苦笑いしながら首をかしげる。伝馬に頭を下げられて反省しましたと言われる要件など浮かばない。
すると伝馬の張り詰めていた頬がややゆるんだ。
「あの、この前の、相談室で」
「……ああ」
一成は油断なく相槌を打った。相談室での一件ならば下手な態度を取ってはならない。せっかく気持ちが収まってきたようなのだ。伝馬に察せられないように気を引き締めて、当の伝馬が何を言おうとしているのか注意深く窺う。
「俺、先生に迷惑をかけてしまったと考えました」
すみませんでしたと、今度は斜め三十度くらいで頭を下げる。
一成はとっさに押し黙る。だがすぐに表情を和らげた。
「迷惑じゃない。俺がお前の気持ちに応じられなかっただけだ」
伝馬の気持ちに寄り添うように柔らかく言う。
「何も悪いことはしていない。だから謝るな。顔を上げろ」
時間が経って心が冷静になった結果、少しは理性的に考えられるようになったのかもしれない。まだ高校一年生なのだ。良いにつけ悪いにつけ素直だ。
「変に思い詰めるな。桐枝のいい所はまっすぐなことだ。それを忘れるなよ」
伝馬の右肩をポンと叩く。重く考えるなというメッセージだ。
伝馬はややびっくりしたように頭を上げて自分の肩へ目を落とし、すぐに一成へ向き直った。顔立ちは真面目そのものだが、緊張が解けたのか硬さが消えている。
「ありがとうございます」
律儀に三度頭を下げる。
一成は苦笑した。
「桐枝のそういうところ、すごくいいぞ」
多少馬鹿正直だと感じたが悪いことではない。年齢を重ねて社会人としての経験を積んでいけば色々と変化せざるを得なくなるかもしれないが、伝馬なら大丈夫だと思えた。
――入学式が始まるのに桜を眺めていたからな。
あの時のことを思い出すと今でも表情が崩れる。教師になってから様々な生徒たちと接してきたが、一人一人自分の色を持っている。伝馬は基本マイペースだろう。それに何度も感じているが頑固だ。
「早く部活に戻れ。俺も職員室へ戻る」
一成は夕焼け色に染まる廊下の窓を振り返った。伝馬はちゃんと剣道部の先輩や顧問の教員に断ってから抜けてきたに違いないが、戻りが遅くなるのはよろしくない。自分もテストの採点が待っている。
「わかりました」
伝馬は改まったように姿勢を正した。
「聞いて下さってありがとうございました」
清々しく一礼する。一成は気持ちの良い風を浴びたように目元をゆるめた。
「何かあったら、いつでも聞くぞ。遠慮はするなよ」
「はい」
伝馬はしっかりと返事をして踵を返した。が、忘れ物を思い出したように肩越しに振り返ると、躊躇いもなく一成へ視線を向けた。
「あの、俺もう一度やり直しますから」
まるで迷いが吹っ切れたかのように晴れ晴れとした顔つきを見せて、早歩きで離れて行った。
「……」
一成は狐につつまれたような気分で遠ざかっていく伝馬の姿を追う。もう一度やり直す?
何を?
何か言われる前にさっと背を向けて、部屋から脱出しようとした。
「待て、一成」
自分が命令すれば従うのは当然という尊大な声が、ふかふかな床の上を飛来して速やかに目標物へ到達する。
一成は鬱陶しそうに振り返る。冴人は両手を組んだ状態で身動き一つせずに、非常に怜悧で鋭い眼差しを向けていた。
「本当に、何もなかったのか」
一成は怪訝そうな表情を浮かべる。冴人の口振りが疑問形だからだ。
「俺が知っている限りは、叔父貴が気にすることは何もない。本当だ」
「そうなのか?」
冴人は一挙手一投足を見張るように、一成へ視線を貼りつけている。
「そうだ」
一成はきっぱりと言い切ると、冴人へ抗議を示すために無言で扉を開けて部屋を出た。
――一体、何なんだ。
相変わらず人気のない廊下を進みながら、一成は冴人の言動に首を傾げる。今までにない話の展開に少々驚いていた。明らかに理事長の冴人は何かを疑っていた。それにはどうも自分が関わっているようだ。
――何かしたか、俺は。
歩調をゆるめ、両腕を組みながら記憶を辿る。授業中に夢の世界にいた食べ物大好きな生徒を叱ったこと。廊下を陸上選手のように走っていた陸上部所属の生徒を叱ったこと。放課後の掃除中にモップでチャンバラしていた仲良し二人組の生徒たちを仲良く叱ったこと。相談室へ惚気話をしに来た彼女いない歴が長かった生徒をうるさいと叩き出したこと。以下云々。
――ほとんど叱ってばかりだな、俺は。
うーんと唸る。もしかしてそれに対して生徒の親たちから苦情がきたのかもしれない。今はどんな屁理屈でもごねた者勝ちの時代だ。それならば大ケ生校長から出頭命令が来るはずだが、理事長経由なのは身内というプレミアム感のせいなのかもしれない。
――しかしあの叔父貴が事をはっきりと言わないのもおかしいな。
まるで自分を試すように訊いていた。
一成は階段を粛々と下りていく。あとは……
ふと、前方に見える窓に目がいく。ガラス窓いっぱいが夕日の光で輝いていて、廊下まで赤焼けに染まっている。
一成は階段を下りて廊下の窓側へ足を向ける。綺麗な夕焼けが西の空に溢れていて、地上のグラウンドでは生徒たちがそれぞれの部活動に精を出している。普段通りの放課後の日常風景だ。
なぜかほっとした気分になって、一成は職員室へ戻ろうとした。テストの採点が待っている。あの二人の先輩はまだ残っているんだろうなとまたまたゲンナリしながら歩いていくと、職員室がある前方から誰かが小走りでやってきた。
伝馬だった。
一成はさりげなく歩く速度を落とした。伝馬が自分へ向かって来るのがわかったからだ。
「先生!」
伝馬は文字通り突進してきた。
「どうした」
自分の手前で慌ただしく足を止めた教え子を温かく見やる。あの相談室での出来事からまだひと月も経ってはいないが、一成は普通に接している。伝馬がガンを飛ばしてこようが、俺は絶対に負けないと宣言しようが、担任としての責務と気持ちを疎かにはしなかった。ただ殴ったのはちょっと悪かったかなと罪悪感もどきがちらりと心を掠めたが。
――だいぶ落ち着いたな。
伝馬は部活動から抜け出してきたのだろう。真新しい紺色の道着と袴姿を視界におさめながら一成は一息つく。あの一件以降荒れていたように感じたが、最近は態度が平常に戻ってきた。自分の手荒い返答が原因なのは重々承知しているので、一成は担任として本当に良かったと胸を撫でおろしている。
「先生、あの」
伝馬は両脇に垂らした手で拳を握り周囲を軽く見回すと、いきなり大きく頭を下げた。
「すみませんでした!」
一成は面食らったように腰からきっちり九十度の直角で上半身を前に倒した短髪の頭を眺める。今度は何が起きたんだという素朴な疑問が脳内を駆け巡った。
「どうした、桐枝」
もう一度訊いてみる。
「頭を上げろ。どうして謝ってくるんだ?」
素早く今日一日を振り返る。特に問題は起きてはいなかったと認識しているが、自分の知らないところで何かあったのか。
――桐枝は問題行動を起こす生徒じゃないのにな。
ただし直球でリアルな感情をぶつけてはくる。
そんなことを考えながら見守る一成の前で伝馬は遠慮がちに上半身を起こすと、些かの躊躇いもなく担任を直視した。
「俺、反省しました」
「――何か反省するようなことがあったのか?」
どんな時でもまっすぐに相手を見つめる伝馬に多少苦笑いしながら首をかしげる。伝馬に頭を下げられて反省しましたと言われる要件など浮かばない。
すると伝馬の張り詰めていた頬がややゆるんだ。
「あの、この前の、相談室で」
「……ああ」
一成は油断なく相槌を打った。相談室での一件ならば下手な態度を取ってはならない。せっかく気持ちが収まってきたようなのだ。伝馬に察せられないように気を引き締めて、当の伝馬が何を言おうとしているのか注意深く窺う。
「俺、先生に迷惑をかけてしまったと考えました」
すみませんでしたと、今度は斜め三十度くらいで頭を下げる。
一成はとっさに押し黙る。だがすぐに表情を和らげた。
「迷惑じゃない。俺がお前の気持ちに応じられなかっただけだ」
伝馬の気持ちに寄り添うように柔らかく言う。
「何も悪いことはしていない。だから謝るな。顔を上げろ」
時間が経って心が冷静になった結果、少しは理性的に考えられるようになったのかもしれない。まだ高校一年生なのだ。良いにつけ悪いにつけ素直だ。
「変に思い詰めるな。桐枝のいい所はまっすぐなことだ。それを忘れるなよ」
伝馬の右肩をポンと叩く。重く考えるなというメッセージだ。
伝馬はややびっくりしたように頭を上げて自分の肩へ目を落とし、すぐに一成へ向き直った。顔立ちは真面目そのものだが、緊張が解けたのか硬さが消えている。
「ありがとうございます」
律儀に三度頭を下げる。
一成は苦笑した。
「桐枝のそういうところ、すごくいいぞ」
多少馬鹿正直だと感じたが悪いことではない。年齢を重ねて社会人としての経験を積んでいけば色々と変化せざるを得なくなるかもしれないが、伝馬なら大丈夫だと思えた。
――入学式が始まるのに桜を眺めていたからな。
あの時のことを思い出すと今でも表情が崩れる。教師になってから様々な生徒たちと接してきたが、一人一人自分の色を持っている。伝馬は基本マイペースだろう。それに何度も感じているが頑固だ。
「早く部活に戻れ。俺も職員室へ戻る」
一成は夕焼け色に染まる廊下の窓を振り返った。伝馬はちゃんと剣道部の先輩や顧問の教員に断ってから抜けてきたに違いないが、戻りが遅くなるのはよろしくない。自分もテストの採点が待っている。
「わかりました」
伝馬は改まったように姿勢を正した。
「聞いて下さってありがとうございました」
清々しく一礼する。一成は気持ちの良い風を浴びたように目元をゆるめた。
「何かあったら、いつでも聞くぞ。遠慮はするなよ」
「はい」
伝馬はしっかりと返事をして踵を返した。が、忘れ物を思い出したように肩越しに振り返ると、躊躇いもなく一成へ視線を向けた。
「あの、俺もう一度やり直しますから」
まるで迷いが吹っ切れたかのように晴れ晴れとした顔つきを見せて、早歩きで離れて行った。
「……」
一成は狐につつまれたような気分で遠ざかっていく伝馬の姿を追う。もう一度やり直す?
何を?