インテリな風貌でいかにも理数系男子二十代バージョンという雰囲気の理博は、理知的な目で二人を見据えたままスッと右手を上げると、その手にある使い古された算盤(そろばん)で、ガツン! と再び机を叩いた。

「お前たち、五月蠅(うるさ)い」

 古矢と一成を苦々しく注意する。

 いや俺は(うるさ)くないだろうと一成は抗議したくなったが、それより先に古矢が目を丸くして言った。

「理博! 物は大切にしなきゃダメだよ! 僕がソロバンだったらびっくりだよ!」

 この馬鹿と一成は手で古矢の口を抑えたくなった。古矢の言葉は正しい。物を乱暴に扱ってはいけない。もし自分の生徒が目の前でこんな真似をしでかしたら、即相談室まで連行して大説教である。だが当の五月蠅い張本人である古矢が絶対に口にしてはいけない正論だ。言ったら相手は当たり前に激怒する。

 案の定、理博はこめかみのあたりに青筋を立てると、算盤を丁寧に置いて、おもむろに事務用椅子から立ち上がった。

「古矢」

 怒りのオーラを(たぎ)らせながら、腕を伸ばして右手のひとさし指を突きつける。

「お前が私の算盤だったら、真っ二つに割って捨てている。生憎だが吃驚(びっくり)する暇もない」
「そうか! それは残念だ! 僕が理博のソロバンじゃなくて良かったね!」

 おどろおどろしい嫌味VSポジティブシンキングの会話が始まる。一成は面倒になったので(いち)抜けすることにした。名前を呼び捨てにしあっていることからもわかる通り、古矢と理博は高校時代この学園の同級生同士であった。しかも友人というプライベートカテゴリーに入る仲である。第三者からすれば(にわ)かに信じがたい事実だが、二人の後輩にあたる一成からすれば別に驚きでも何でもない。喧嘩しているんだかスキンシップしているんだか全く理解できない会話は、当時の在学生時代からやっていた。そのまま成長して仲良く教職になっても変わらない。もっとも、どうしてお互いに友人と思っているのか吾妻学園七不思議の一つではあるのだが。

「一成」

 この間の歴史の小テストを採点しようとプリントを机に出した一成は、理博に不機嫌そうに呼ばれてしぶしぶ顔をあげる。

「何ですか、橋爪先生」
「どうしてお前は私に呼ばれる度に、そんな可愛くない顔をする」

 理博は胸の前で両腕を組み、顎をあげて不満そうにぶちまける。それはあなたに呼ばれたくないからだと一成は正直に言おうかなと思ったが、先に古矢がアッハッハと笑った。

「大丈夫! 可愛くない顔でも可愛いよ! 一成!」

 親指をグッと立ててみせる。いつのまにか二人の会話は終結したようだ。

 どうしたものかと一成は三白眼を物騒に光らせて考える。この二人は邪魔だ。テストの採点ができない。

 ――俺が相談室へ行けばいいんだな。

 平和的な解決方法がすぐに浮かんで、両手でプリントの束を立てて手早く整えると、椅子から腰を上げてさっさと職員室を出ようとした。

「一成」

 蛇がシャーと舌を出すように理博が呼び止める。開けたドアの(へり)を片手で押さえて、面倒そうに一成は振り返った。

「何ですか」
「どこへ行くつもりだ。私の話は終わっていないぞ」

 机の上にある算盤を手に持つと、もう片方の手のひらにボンとぶつける。様々な用途で算盤を愛用している理博は、迷惑そうに顔をしかめた一成に対して、お説教するようにもう一度同じ動作を繰り返した。

「十三分前に筒井先生が来た。お前に(こと)づてだ」

 俺に言づて? と一成は露骨に嫌がる。順慶がわざわざ一年生の職員室まで足を運んで何か言っていく時は、たいてい(ろく)なことではない。長年の経験からわかっている一成は聞き流そうかと不穏に考える。その間、三人しかいない一学年職員室内では、理博はいつも時間が細かいね! 昔から数字だけが友達だもんね! 僕は苦手でキライだな! と古矢がきらきらとディスり、私は時間に正確なだけだ、頭がザル仕様のお前とは違う、苦手で嫌いだから待ち合わせ時間に十七分以上も遅れてくるのかとロケットランチャーならぬ算盤をぐるぐると振り回す理博のツートップが展開する。一成はそれを阿呆(あほ)らしそうに眺めて、そういえば相談室には順慶がいるかもしれないと思い至り、二人のスキンシップに割って入ってその言づての内容を訊いた。

「今すぐに来いと言っていた」
「相談室に?」
「そうではない」

 理博は眉をよせる。

「理事長室だ」

 一成はドアの縁から手を離すと軽く目を(つぶ)る。とっと言えという文句が口から飛び出そうになったが、何とか未遂に終わらせた。

「理事長がお前を呼んでいると、筒井先生からの言づてだ」
「わかりました」

 自分の机に戻り、引き出しにプリントを仕舞う。誰にも見られないためだ。それから椅子にかけていたグレーのスーツの上着を取って、袖を通す。襟元を整えて、手で両肩を払い、身だしなみをきちんとした。

「筒井先生の伝言はそれだけですか?」

 念のために聞いておく。

 理博は重々しく頷いた。

「それ以上も、それ以下もない」

 もっと普通に答えろと一成は疲れてきたが、爛々(らんらん)と輝いた古矢の目と合ってさらに疲れた。

「一成! グッドラック!」

 一成はゲンナリして職員室を出ると、最上階にある理事長室へ向かう。