夜八時を回って、ようやく一成(いっせい)はマンションの自宅に帰ってきた。

 ダークグレーの上着を脱いでクローゼットの黒いハンガーにかけ、ブラウンの無地のネクタイをゆるめる。仕事着であるスーツを脱ぐ時が、一番心安らぐ瞬間だ。今日も無事に一日が終わったことを心から実感できるからだ。

 帰宅時間が遅くなったのは仕方がない。一成は今日の出来事を振り返る。相変わらずうるさい同僚たちに、元気な生徒たち、なぜか今日はいた理事長。私立(わたくしりつ)吾妻(あづま)学園で教職をしている一成は日々が目まぐるしい。それは別段苦ではない。三年生の学級担任なので、今年は進路指導もあり毎日フルパワーで頑張ろうと決めている。教え子たちの将来が一番大切なのだ。

 だから、一日が無事に終わってホッとしている。

 一成はハンガーに白いワイシャツをかけながら、ふと横に目をやる。空のハンガーが三つかけられてある。プラスチック製の白いハンガーだ。

 生徒たちからコワいとビビられる三白眼(さんぱくがん)が、可愛い赤ちゃんを見たかのように(やわ)らいだ。

 ――そろそろ帰ってくるかな。

 お昼休憩時にメッセージアプリで帰宅時間が遅くなることを知らせた。すると退勤時に確認したら、自分も遅れます、すみませんという丁寧なお詫びと共に、美味しいものを買っていきますとあった。

 ――もう俺はお前の担任じゃないのにな。

 目上の上司にでも送っているかのようなメッセージに頬が惚気(のろけ)て笑ってしまう。この変わらなさが春風のように心地よく、たまらなかった。

 ――早く帰ってこい。

 一成は着替えてクローゼットを閉める。自分も二人分買ってきたのだ。手料理を振る舞うというレベルには生きてはいないので、鮮魚店が販売している特上の寿司二人前。もし今夜食べられなくても、冷蔵庫のチルドに入れておけば明日の朝でも大丈夫だ。

 リビングのデジタルクロックを見る。八時半になる頃合いだ。

 ――さあ、早く。

 気持ちが(はや)る。こんなにも相手を待ち()がれている。早く顔が見たい。声が聞きたい。話がしたい。

 ――お前に会いたい。

 一成は熱くなった胸に想いのたけを吐き出す。まさか自分がこうなるとは告白された時、思いも寄らなかった。しかし、これが現実で事実だ。自分はどうしようもなく相手を望んでいる。

 一成は子供のような表情で笑った。自分がこんなに可愛い男だとは知らなかった。教えてくれた相手には感謝をしないと。

 だから。

「早く帰ってこい」

 あと少し待てばこの場にいるはずの男を想って呟く。

 伝馬(でんま)、と。