「先生!」

 背後から呼ばれたが、一成は無視して歩いていた。声の主は振り返らないでもわかる。走ってくる足音も、馴染みだ。

「先生!」

 苛立った声をぶつけて、目の前に誰かが立ち塞がった。

 一成は仕方なさそうに足をとめた。一介の教師らしい地味で無難な背広姿だが、なぜか一成が着ると、不思議とファッションに見える。それはスタイルが抜群に良く、大変に男前で整った顔立ちをしているせいもあるが、本人のかもし立つ個性が際立っているせいなのかもしれなかった。

 その最も強烈な個性である、ヤクザも真っ青な目つきの悪さで、自分の前方に立ち塞がった若者を睨んだ。若者は荒い息を吐きながら、真っ向からその睨みに対抗している。着ているのは弓道や剣道などに身につける紺色の道着と袴だ。

「どうして……先に帰ったんですか?」
「俺は忙しいんだ。どけ」

 教師とは思えないような恫喝声で命令する。

 だが、若者は歯を食い縛るように拳を握った。

「俺の……一本を見てくれましたか?」
「そうだな、見たようだ」

 まるで他人事のような返事をする。

 若者は頭にきたように一成を激しく睨みつけた。けれど気持ちを落ち着かせるように、息を整えた。

「……だったら、俺との約束を果たしてくれますか?」

 剣道着が良く似合う精悍な顔立ちが、どこか期待するように少しだけ恥らう。

「桐枝」

 と、一成は自分よりも背の低い生徒を無遠慮に見下ろした。

「俺は何も約束した覚えはない」

 そう言うと、若者の横を通り過ぎてゆく。

 伝馬は一瞬呆気にとられたように息をとめたが、すぐに振り返った。

「……約束してくれたじゃないですか!……俺が試合で一本取ったら、先生……」

 校舎の裏側で周りに誰もなかったが、声を低めて、俺とキスをしてくれるって……と呟いた。

 一成の耳には届かなかった。だが両手をスラックスのポケットに入れたまま、再び足を止めて、桐枝と呼んだ。

「お前は一年生で試合の選手に選ばれたんだ。早く会場へ戻れ」

 きつい声で言い渡すと、もうこれでお喋りは終わりだと言うように、さっさと歩きはじめる。

 伝馬は呆然と立ち、その後ろ姿を信じられないように見つめた。だが、みるみる悔しそうに顔が赤くなる。

「……まただ……先生は俺に嘘ばかり言う! いつも嘘をついてばかりだ!」

 怒りの叫び声は、遠ざかってゆく一成の耳にも聞こえたが、立ち止まる気配はない。

 伝馬は苛立たしそうに顔を背けた。その意志の強そうな目はかすかに潤んでいるが、それをぬぐうように踵を返すと、来た道を走り始めた。

 一成は歩きながら、背中で伝馬が戻ってゆくのを感じた。もちろん、怒りも承知している。

 伝馬が喋った約束は本当だった。剣道部のレギュラーに選ばれて、試合に勝ったら、キスをしてやると。少々部活にダレてきた伝馬を奮起させるために言ってみたのだが、肝心の一成にそれを果たす気持ちは全くなかった。

 ――俺は百回でも二百回でも、嘘をついてやる。

 お前とつき合わないためならな。

 その足取りは平然としていたが、眦の吊りあがった目はどこか寂しそうだった。