女装した俺が、先輩に気に入られた件について。


「……た、武田先輩たち大丈夫だったんですか? 約束してたならそっち優先した方が…」

 ていうか、優先してほしい。

 だって今、俺女装してるし……

「どうせタケの長い愚痴聞かされるだけだから、いーや」
「……愚痴ですか?」
「彼女ほしーとか女子と知り合いたいーとか」
「あー…なるほど」

 ……そういえば前に会長に女の子紹介してくれって言ってたっけ。で、会長が緩やかに流してたんだったよね。

「そういういつもできる話はべつに今日じゃなくてもいいし」

 先輩、結構武田先輩のことになるとほんとに冷たいんだよなぁ。いや、これが先輩たちにとって普通の距離感なんだろうけど。

「じゃあーはい」

 おもむろに手を伸ばす先輩。

「……この手はなんですか」
「なにって手繋ごうってことだけど」
「やですよ……っ!」
「なんでー?」
「なんでっ…て、とにかく無理なものは無理です……っ!」
「えーっ……」

 俺たちは、男同士で。

 手を繋ぐことだって、恥ずかしい。

「せっかく矢野くん、可愛いのに」

 男に〝可愛い〟と言われても。

「っ嬉しく、ないですから……!」

 むしろそれはコンプレックスだった。

 ──だった、のに。

 先輩にどきどきしてしまうのは、見て見ぬフリできなくて。

 どうして先輩にだけ、どきどきしてしまうんだろう。

「そーだ。矢野くん、今からお昼食べに行こ? 俺腹ぺこぺこでさぁ」

 タイミングよくお腹がグーっと鳴るから、思わず笑ってしまって。

「……いい、ですけど」

 気が緩んだ俺は、気がつけば承諾していた。

「手は?」

 再度手を向けられるけれど、

「繋ぎません」

 俺が断ると、「ちえー」と唇を尖らせる先輩。
 でも、なぜかその横顔は楽しそうで。

 先輩にどきどきするのは、ただ恥ずかしいから。

 きっとそれだけで、それ以上のことなんて絶対にない。

 それから、二人で近くのフードコート店に入る。
 お腹が空いていたのでハンバーグを頼んで食べていると、先輩が笑った。

「……なんですか」
「いい食べっぷりだね」
「お腹空いてたので」

 ハンバーグをナイフとフォークで切り分けていると、コソッと「矢野くん」と名前を呼ばれて顔を上げる。
 すると、先輩の腕が伸びてきて、髪を一掬いして耳にかける。

「髪、つきそうだったから」
「……ありがとう、ございます」

 なんだ今の。まるでカップルのやりとりか、と思わず恥ずかしくなって目線を下げた。

 お昼を食べ終えてお腹がいっぱいになると、外をゆっくりと散策する。
 先輩が『どこかお店に入る?』って聞いてくれたけれど、この格好を知り合いに見られたくなかった俺は、人混みを避けて広い公園にやって来る。

「テスト、やっと終わったね。俺、英語がかなりやばいと思うけど。矢野くんはどうだった?」

 〝テスト〟という単語にドキッとしてしまう。

 数日前にテストが終わったら大事な話がある、と言われたからだ。

「矢野くん?」
「あ、えっと、一応大丈夫だと思います。多分」
「えー多分なんだ?」

 夏樹先輩はいつも通りなのに、俺だけが変に意識してしまっている。

「自信がないわけじゃないんですけど、点数が悪かったときがショックなんで、保険といいますか……」

 女装をしているから変に意識してしまうのだろうか。

「なるほど。そういうことね」

 クスッと笑っているけれど、先輩の方見れない。

 すると、突然「痛っ」と何かに痛がる先輩の声が聞こえて、

「大丈夫ですか?」

 顔を上げてると、夏樹先輩と目が合った。

「やっとこっち向いた」
「え? じゃあ今のって……」
「だってさっきからずーっと俺と全然目が合わなかったし、何でかなって思って気になって。だから今のわざと」

 そう言ったあと、先輩は「騙すようなことしてごめんね」と優しく微笑んだ。

 その表情にさえドキドキしてしまう。

「どうしてこっち見ないの?」
「そ、それは、俺が今女装してるからっていうか、その……」
「申し訳ないと思ってるってこと?」
「あ、いや、それもありますが、そうじゃないといいますか……」

 この前の言葉を変に気にしている自分がいる、なんて言えずにどうしようか俯いて迷っていると、「ああ、もしかして」と先輩が俺の髪を一掬いして耳にかけたあと、

「テストが終わったら大事な話があるって言ったことを気にしてる?」

 図星をつかれて、途端に恥ずかしくなった俺は、その場から逃げ出したくなって立ち上がった。

 ──が、逃げることができなかった。

「確かに、矢野くんに話がある」

 と、先輩が俺の手首を掴んだから。

「い、今、ですか……」
「うん」
「俺、こんな格好してますが」
「どんな矢野くんでも矢野くんだから」

 ますます恥ずかしくなって逃げたくなるのに、逃げられなくて。

「座って」

 ベンチをポンッと叩かれる。

 手首を掴まれてる以上、逃げられないので渋々腰掛ける。

「緊張してる?」
「してますよ、そりゃあ。あんなふうに大事な話があるなんて言われたら……」

 顔がゆでだこになりながら返事をすると、「そっかあ」とクスッと笑われる。

「俺も緊張してる。少しだけ」

 と、ポツリと声が聞こえる。

「矢野くん」

 先輩の少しだけ掠れた声が流れてきて、恐る恐る顔を上げると、

「俺、矢野くんのことが好きだ」

 真っ直ぐ言葉が飛んでくる。

「後輩としてじゃなく、好きな子に想う恋愛としての好き」

 恥ずかしがる素振りも見せず、堂々と真っ直ぐに。

「ほんとはさ、まだ言うつもりなかったんだけど、他のやつに触られてるとムカつくし、可愛いって知られるのもすげー嫌だし」

 いつもはからかわれることが多かったりするのに、今目の前にいる先輩は真面目で。

「でも、それ以上に矢野くんと一緒にいるとすごい楽しくて、もっと話してたくて。もっと矢野くんのこと知りたくなって、俺のこと知ってほしくて我慢できなかった。知ってほしかったんだ、俺の気持ち」

 先輩が冗談を言っているようには見えなくて。

 俺は、先輩の言葉にドキドキしてしまった。

「……俺、今こんな格好してるけど男ですよ」
「知ってるよ。でも、男とか女とか関係なくて、俺は矢野くんが好きだから」
「先輩……」
「矢野くんが俺のことただの先輩としか思ってないのは知ってる。ただ、俺の気持ちを聞いてほしかったんだ、矢野くんに」

 今までずっと冗談だと思っていた。でも、今までの言葉も本気だったのだろうか?
 そう考えたら、今まで笑い飛ばしていたのが申し訳なくなった。

「だから、ちょっとでもいい。結果はどうであれ、俺のこと少しだけ考えてくれると嬉しい」

 ──真っ直ぐ気持ちを伝えてくれるってこんなに嬉しいんだと、はじめて知った。

「考えます。先輩のこと」

 そうしたら、先輩は優しく微笑んで。

「ありがとう、矢野くん」

 と、言ったんだ。

 ◇

 テストが終わり、いつもの日常に戻る。
 そのため生徒会の活動は忙しさを増してきた。今日は朝からも少しやることがあるからと昨日の夜、会長から連絡が入った。

 俺はいつもより一本早い電車に乗った。車内は暖かくて、そして揺れが心地よくて、目を瞑っていたら危うく寝過ごしてしまうところだった。

「おはようございま──…ってあれ、まだ会長だけですか?」

 生徒会室に入ると、まだ会長以外の人は来ていなかった。

「おはよう。矢野くん早かったね。他のみんなはまだだよ」

 呆れたように肩をすくめて笑う会長。

 机の上には、プリントがいくつも広げられていた。

 すでになにかしてたのかな……。

 朝もそうだけれど、放課後も、生徒会室に行けば必ず会長はいる。

 いつ見ても山崎先輩は、完璧な人だ。完璧を絵に描いたような人だ。

「会長は、いつも何時に来てるんですか?」

 だから会長の日常がすごく気になったりもする。

「んー、活動にもよるけど基本は七時頃にはついてるかな」
「早いですね」
「まぁ、生徒会長やってるとなにかとすることあるからね」

 スポーツ万能で成績優秀で、教師からの信頼も厚く生徒からも頼りにされて、先輩が人よりも遅く生徒会室に来ることなんてまずない。誰よりも先にいて、誰よりも遅く帰る。

「大変じゃないですか?」
「んー、初めの頃は大変だったけどみんながいるからね。それに同い年の夏樹や武田もいるし」

 やっぱり大変だったんだ。

 それなのにその雰囲気さえ感じさせないのは、きっと会長の人柄の良さがあるからで。

「まあ、武田は面倒くさがりなところがあるからねぇ。でも場の雰囲気を和ませてくれるから助かってるところもあるけど」

 と、クスッと笑った会長。

 そこから仲の良さが滲み出ているようで。

「俺、会長のことすごく尊敬してます。山崎先輩が会長でよかったなってほんとに思ってます」
「あはは、矢野くんありがとう」

 笑い声も笑い方も、品があるようで。やっぱり山崎先輩は、次元が違う人みたいだ。

「俺も矢野くんがいてくれてよかったよ」

 と、優しい表情で微笑むから、嬉しくなった。

 きっと女子にモテるんだろうなぁ。

「そういえば矢野くん、夏樹と路線が一緒なんだったよね?」

 夏樹先輩のことを聞かれて、不覚にもドキッとしてしまう。

 ──矢野くんのことが好きだ。

 テスト終わりに公園で言われた。それも女装姿のときに。

「矢野くん?」

 会長の声にハッとする。

「あ、えっと、何でしたっけ?」
「夏樹とは路線が同じなんだったよね」
「はい。でも、俺が来るときは先輩いませんでしたよ」
「そっかぁ、じゃあ二人とも寝坊でもしてるのかなぁ」
「武田先輩もですか?」
「さっきから連絡してるんだけど、全く返事がないんだよねぇ」

 寝坊……武田先輩や夏樹先輩ならあり得なくもないかも。武田先輩は特に朝早く起きるのが面倒くさいからって二度寝しちゃってそう。

 うんうん、絶対そうだ。

「全くもう。後輩より遅いってほんと、武田も夏樹も何やってるんだろう」

 そう言って、机に置いていたスマホに手を伸ばす会長。

「もう一度二人に電話してみるから、矢野くん少し待っててね」
「あ、はい。分かりました」

 スマホ片手に生徒会室をあとにする。

 会長、いつも対応が落ち着いてるんだよなぁ。動じないっていうか大人っぽくて、何事にもスマートっていうか。慌てるところとか見たことない。ていうか、先輩って慌てたりするのかな?

 武田先輩と同級生とは思えない。

「……なにして待とう」

 しーんと静まり返り、チッチッチッと秒針の音がやけに大きく聞こえる。

「うーん……みんなまだかなぁ」

 ドアへ目を向けるけれど、一向に誰かが現れる気配はない。

 ──ふわりっ

 開けられた窓からは、心地よい風がふわりと入り込み、睡魔が俺を襲う。

「ふあーあ……」

 やばい、眠たい。朝、早かったからかな。

 一人で待つってなにもすることなくて、ぼーっとしちゃう。せめて同級生でもいたら話し相手になるのに。一人だと話す相手もいないから……

 ふあーあ。もう一度あくびが出る。

 会長が戻って来る気配もまだないし。

 ……少しくらいいいかな。

 睡魔に負けた俺は、机の上に上半身をつけると、腕で枕を作って目を閉じる。

 ──チッチッチッ…

 初めは大きく聞こえていた秒針の音も、いつのまにか聞こえなくなっていた。

『──矢野くんのことが好きだ』

 頭の中で誰かが言った。

 ──ぱちっ

「……あれ俺、寝てた──…」

 そこで俺は、自分が寝ていたことに気づき、むくりと起き上がると、隣の椅子に人影が見えた。

「おはよう、矢野くん」

 あまりにも爽やかにあいさつをされるから、起き抜けに拍子抜けして、

「っ?! せっ、せんぱい……!?」

 ガガガッとパイプ椅子が音を立てる。

 もしかして今までずっとここにいたのかな? いつから!? いつから先輩はここに……

「矢野くん、気持ちよさそうに寝てたね」

 と、クスッと笑われる。

「えっと、先輩はいつからここに……」
「少し前からいたけど、そのときにはすでに矢野くん寝てたよ。それにしても可愛い寝顔だったね」

 先輩がいきなりそんなことを言うから、

「ちょっ、先輩、なに言って……!」

 カアッと顔が熱くなり、分かりやすく動揺する。

「なにって事実だけど」

 頰杖をついて優しい表情を向けられるから、

「せ、先輩すぐそうやって俺のことからかう……」

 そこまで言って、告白されたことを思い出し、思わず口籠る。

 ──〝矢野くんのことが好きだ〟

 そうだ。俺は、確かに告白をされた。それは紛れもない事実だ。

「矢野くん、耳まで真っ赤」
「……言わないでください」

 あーもうっ、ほんとに先輩ってば。自分ばっかり余裕たっぷりでずるい。俺だって先輩のことをドキドキさせたいのに……ん? ドキドキさせたいって何だ?!

「矢野くん、ここ」

 おもむろに声を落とす先輩にどきっと緊張していると、頬に指が当たる。

「跡ついてるよ」

 顔をあげると、先輩と目が合う。

「矢野くんが寝てたのバレバレだね」

 そう言ってクスッと笑った。

 全神経が頬に集中して、俺がドキドキしているのが先輩にも伝わってしまいそうだ。

「このことは会長には内緒にしてください……!」

 生徒会たる者が気が緩んで寝ていたなんて知られちゃったら会長に呆れられるかもしれないし。

「うん、大丈夫。言わないよ。つーか、山﨑そんなことで怒らないと思うけど」
「で、でも一応生徒会の人間なので……」
「だからって矢野くん気にし過ぎ」

 ふはっと笑ったあと、俺に真っ直ぐ手を伸ばし、乱暴に頭を撫でるから、髪はボサボサになる。

「ちょ、先輩っ、やめてください……っ!」

 グイグイと先輩の手を押し返すけれど、先輩は楽しそうに笑っているだけでやめようとはしなかった。

「もう〜……」

 そのせいで髪の毛は寝癖のようにボサボサになる。

「ごめんね」

 と、先輩は優しく微笑んだ。

 その笑顔を見るだけで全部許したくなってしまうのはなぜだろう。

「それより矢野くん、今度デートしようよ」

 突拍子もなく、しかもこんな場所で先輩が言うから驚いた。

「えっ、ちょ……なに言ってるんですか……」
「なにってデートのお誘い?」
「いやっ、そういうことじゃなくて……場所を考えてください」

 もし今の会話が誰かに聞かれたりでもしていれば誤解されかねないのに。

「矢野くんさ、女装するときは自信がなくなってきたときだけって言ってたよね」
「言いましたけど……よく覚えてますね」

 逆にそれを聞いてる俺が恥ずかしくなるって、なにこの状況。

「てことは、この前のときも自信がなくなったからってこと?」
「あー、いや、あのときはちょっと色々考えてたら頭パンクしそうだったんで……気分転換っていうか、まあ、そんな感じです」

 あのとき鳥羽が『先輩のこと話してると嬉しそうっていうか、心を許してる感じするし』とか言ったりするから、今まで先輩に言われたことを全部思い出してドキドキしたりして。
 でも、俺の恋愛対象は、女の子であって、男は恋愛対象外だ。

 ……だから先輩にドキドキするのだって、恋としての好きじゃない……はずなのに。

「ふーん。じゃあ、自信がなくなったからってわけじゃないんだ?」
「えーっと、自信は今もないんですけど、前よりは気にならなくなったっていうか」
「へえ、そうなんだ」

 自分で話しながら驚いて、何で前より気にならなくなってきてるんだろうって今度は思うようになって。それっていつからだろう。

 もしかして先輩が関係してる?

「それってさ、何か関係してることがあるの?」

 そう尋ねられて、ドキッとする。

 元々、顔が中性的で身長もそこまで高いわけじゃないから可愛いとからかわれることはあって、その度に自分に自信がなくなって、笑うことも嫌になった時期もあった。だから、中学生の頃はマスクをして過ごすこともあって。
 姉の助言もあって少しは自分の顔に自信も持てるようになっていたけれど、素のときに自信がつかなければ意味がない。それで、進学するなら絶対に男子校にしようって決めていた。

 まさかこんなふうに誰かに可愛いと言われたり、ひとつひとつの言葉にドキドキしたりするなんて思ってもみなかった。

 どうして夏樹先輩の言葉にドキドキしてしまうんだろう。

「な、何もないですよ」

 慌てて顔を逸らすと、「ふーんそっか」と話は流れる。

 ホッと安堵していると、コンコンッとドアがノックされた直後誰かが入ってくる。
 誰だろう、と思っていると、「あれ、夏樹じゃん」と先輩のことを知っている風な口ぶりをしていた。

「ほんとに生徒会やってんだな」
「副委員長なんだから当然だろ」
「いやいや、今でも俺信じてねーから」
「なんでだよ」

 いつも会長や武田先輩と会話する姿は見ているのに、俺の知らない人と先輩が仲良く話してる姿をはじめて見た。

 そのことに少しだけ胸のあたりがざわざわする。

「てか、山﨑は?」
「さあ。どこか行ってるんじゃない」

 俺がボーッとしている間にも会話は進み、「ふーん。じゃ、他探してくるわ」と言って早々にいなくなる。

 結局今のは誰だったんだろう。

「先輩、今の人って……」
「俺のクラスメイト。で、山﨑と同じ中学だったんだって。それでよく勉強とか教えてもらってるみたいで今も探してたんじゃない」

 なんだ、そっか。先輩に会いに来たわけじゃないのか。
 ……え? 今、俺なんでホッとしたんだ。

「矢野くん?」
「え? あっ、何でもないです! 先輩のクラスメイトさんだったんですね! それより会長戻ってくるの遅いですね」

 と、はははと笑って誤魔化してみる。

 なんで俺、夏樹先輩のことになるとこんなに焦ったり、悩んだり、ドキドキしたりするんだろう。

「話戻すけど、矢野くんの女装してる姿また見たいな」

 なんてことを横からいきなり言うから、

「せせせ、先輩……っ!」

 思わず力が入り椅子から立ち上がると、ガシャーンとパイプ椅子は床に倒れる。

「矢野くん、大丈夫?」
「だっ、大丈夫じゃ、ないです!」

 ──主に先輩のせいで。
 心を、乱されてばかりだ。

「こんなところで、誰が入ってくるか分からないような場所で、女装だなんて安易に言わないで、ください!」
「でも、さっきも話してたよ」
「さっきは人がいなかったので……今はちょっと危ないので気をつけてください!」

 椅子を起こしながら、ぷんすかぷんすか怒ると、笑ったあとに「ごめんね」と先輩は言う。

「ていうか、この前先輩俺の女装姿見ましたよね!?」

 テストが終わったその日、俺は久しぶりに女装をして街に出た。

「うん、まあそーなんだけどね。もっと見たっていうか」
「……俺はやですよ」
「どうして?」
「だって先輩、普段の俺も知ってるのに女装とか……先輩の前じゃ恥ずかしいっていうか……」

 一人で堂々と女装する分にはいいのに、先輩が隣にいるってだけで心がざわざわして落ち着かなくなる。

「矢野くんそれって」

 他の人はそんなことないのに、夏樹先輩にだけドキドキする。
 きっと、俺にとって先輩が特別だから。

 俺のことを軽蔑しないでくれるのは嬉しい。
 だけど、他のみんなが同じとは限らない。もしかしたらみんなが俺のことを軽蔑するかもしれない。そうなったら俺の居場所はあっという間になくなる。

「……と、とにかく、俺の秘密は毒薬だと思って厳重に保管しとかなきゃならないんですから」
「え、毒薬? なにそれ」
「それくらい女装っていうのは男子校ではタブーなんですから……」