女装した俺が、先輩に気に入られた件について。


 すごくすごく、恥ずかしくて。

 けれど、それは事実には違いなくて。

「……はい」

 背を丸めながら、ぎゅっとかばんの紐を握りしめる。

「そっか、そうだったんだ」

 ようやく理解したかのように納得する先輩。

 頭からぷしゅーと湯気が出る。

 今の俺、絶対ゆでだこだ。

 けれど、一ヶ月ほど前のことを今さら掘り返してどうしたんだろう。よほど気になってたのかな。

「タケじゃなくて俺か。なーんだ」

 隣からぷはっと笑みが漏れるから、

「な、なんですか……」

 どうせまたからかわれるんだろうと身構えていると、

「ううん、なんでもなーい」

 なぜか先輩はすごく機嫌が良く見えた。

「え? いやあの……」

 説明してくれなきゃ分からない。

 それなのに先輩は、教えてくれようとはしなくて。

 頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。

「そういえばさぁ、矢野くん。次はいつ女装するの?」

 ホームで電車を待っているとき、いきなり先輩がそんなことを言うから、

「ちょっ、先輩声が大きいです……っ!」

 慌ててしーっしーっと人差し指を立てて、

「誰かに聞かれたらどうするんですか! 俺、もう電車なんて乗れなくなっちゃいますよ……!」

 さすがにことの重大さを理解したのか。

「あー、うん。ごめんね」

 しゅんと垂れ下がる耳が先輩の頭についているような気がした。

 あっ、ちょっと言いすぎたかな? 強く言いすぎた? けど今のは先輩が悪いし……

 でも、先輩がおとなしいって違和感がある。

 いや違和感って言うより、なんか。

 ……可愛いかも。

 不覚にもそんなことを思ってしまった俺。

 ──キキキィ…

 電車がホームに滑り込んできて、俺たちは車内へ乗り込んだ。いつもより早い時間のため電車の中はわりと空いていて、入り口近くの椅子に座ることができた。

「いつもより人少ないね」
「そうですね。いつもは生徒会活動で帰る時間遅いですもんね」

 先輩が電車通学だと知ってから、生徒会活動のあとはいつも一緒に帰ることが多くなった。

 高校に入ってからはずっと一人で通学してたのに、なんか不思議。

「こうやって座れると、矢野くんとゆっくり話せるからいいなぁ」

 しゅんと垂れた耳は、もうどこにも見えなくて。いつもの先輩に戻っていた。

「えっ、そうですか? …でも、いつも話してますけど」
「うん、そうなんだけどね」

 先輩の横顔は、すごく優しく微笑んでいて。

 なぜか俺まで嬉しくなる。
 先輩と一緒に過ごす時間は、嫌いじゃない。

 むしろ居心地がいい。気兼ねしなくていい。先輩なのに気兼ねしないっておかしいと思うけど、ほんとに先輩といるときは良い意味で素の自分でいられる。

 俺が女装すると知っても先輩は、俺のことを軽蔑しなかった。むしろ俺のことを肯定してくれて。嬉しかった。すごくすごく。

 ──次は中央東口、次は中央東口。

 アナウンスが流れる。

 俺が降りる駅だ。

「……あの先輩、さっきの話なんですけど」

 せめて、降りる前に言っておきたい。

「どしたの?」

 きょとんとした表情で、先輩は俺を見る。

 緊張しすぎて、口が震えそうだ。

 でも、言え。言うんだ。

「俺が、その……女装するのは自信がなくなってきたときだけで、いつするかは分からないんですけど……」

 ガタンガタン、ガタンガタンッ。

 揺れる車内に、揺れる鼓動。

 聞き取れるか分からないほどにか細い声。

 自分を奮い立たせるために、かばんの紐をぎゅっと握りしめる。

「……次、女装するときも、多分……先輩の前だけです、ので……」

 先輩に聞こえてるといいな。聞こえててほしい。

 そんなふうに願いながら。

「……えっ……」

 先輩が、小さく驚いた瞬間。

 ──キキーッ、ブレーキがかかり身体は横へ倒れかかりそうになる。

 そして電車が完全に止まる前に、スクッと俺は立ち上がり、

「じ、じゃあ、それだけですので! また明日、学校で。さよならっ」

 口早にそう言うと、ぷしゅーと開いたドアに吸い込まれるように降りた俺。

 ──どきどき、ばくばく。

 うるさい鼓動が波を打つ。

 恥ずかしすぎて、後ろを振り向けずに、そしてそのままドアが閉まる。
 ガタンゴトンっと電車が進んでゆく。ホームは一気に静まり返る。

 風によって攫われる髪の毛と、熱の余韻。

「あー………」

 なんで俺、あんなこと言っちゃったんだろう。

 べつにわざわざ言う必要もなかったかもしれないのに。どうして言わなきゃと思ったんだろう。

 我に返ると羞恥心が俺を襲った。

 ──ピコンッ

 ふいに、かばんの中から音が鳴る。

「もーっ、こんな時間に誰……」

 かばんの中をガサゴソとあさって、スマホを取り出してメッセージを確認すると、送信主は夏樹先輩で。

【テストが終わったら、矢野くんに大事な話がある】

 ──そう書いてあった。

 話って何だろう。

【今じゃなくていいんですか?】

 俺がすぐに返信すると、すぐ既読がついて、そしてまたメッセージが送られる。

【今話したらテストに集中できなくなりそうだから、今度でいい】

【分かりました】

 と送ったけれど。

 ……〝大事な話〟って何だ。

 まさか、告は……いやいや。さすがにそれはない。夏樹先輩が俺のことをからかうのは後輩として可愛がられてるだけであってそれ以上でもそれ以下でもないし。

 ──ピコンッとまた通知音が鳴る。

【それとデートも楽しみにしてる】

 ……デートって何のことだ?

 まさか俺がさっき言った〝女装するのは先輩の前だけですので〟ってやつを誤解してる?!

 この書き方だと前回のあれも〝デート〟ってことになるんですけど! いやいやっ、俺はあれをデートだとは思っていない。

 ただ先輩との約束を守っただけであって。見た目はどうであれ男同士で遊びに行ったのなら、それはデートとは言わない。

 それなのに、先輩ってばほんとにいちいち言葉がストレートすぎて。

 誤解を与えるようなことばかりで。

 やっぱり今日も動揺したのは、俺。

「……これ、どうしよう」

 そのメッセージになんて返せばいいのか分からなくて、しばらく放置したのだった──。

 ◇

 テスト期間中。一日目。

「なぁなぁ、さっきの数学どうだった?」

 柳木が俺の隣に座っている鳥羽の席へとやって来る。柳木賢太郎(やなぎけんたろう)。クラスメイトだ。

「もちろん完璧!」

 鳥羽は、余裕の笑みを浮かべて見せた。

「うっわ、まじで? ずりー」

 余裕の鳥羽に焦ったのか柳木は、不満を漏らした。

 鳥羽、頭良いもんなぁ。

 この前あった期末テストでは、全教科八十点以上だったし。

「矢野は?!」

 すると突然、柳木の顔がこちらへ向いた。

「矢野は数学どーだった?」
「え、俺は、まぁ……」

 あまり自信がなかったためゴニョゴニョと言葉を濁しながら目を逸らす。

 数学は苦手だ。特に公式を覚えるのが難しい。

 そんな俺を見て、ニヤニヤと柳木が笑うと、

「矢野、あんま良くなかったんだろ」
「なっ、べつにそういうわけじゃ……ただちょっと応用問題が難しかっただけで」

 俺が言い訳をしている間、うんうんと首を縦に振った柳木は、

「矢野が仲間でよかった」

 と勝手に決めつけると俺の肩に手をついて、まるで同士だとでも言いたげな表情を浮かべる。

「ちょっと、勝手に仲間にしないでよ! 柳木よりは頭良い方だから」
「えー、多分そんな変わんないって」
「いや、変わるから!」

 柳木と二人でくだらない言い合いをしていると、

「あのさ、そんなどんぐりの背比べみたいなことして虚しくならない?」

 横槍を入れた鳥羽の言葉に、「うぐっ……」と二人して言葉に詰まらせる。

 どんぐりの背比べ……

 たしかに、そんな感じかも。

「じゃあここは公平に記すために同レベルってことで!」

 気を取り直した柳木がそんなことを言うから、

「……いや、どの口が言ってるの」

 呆れたけれど、それ以上突っ込むことはしなかった。

 鳥羽の言う通り、どんぐりの背比べをしているみたいだったから。

「それより次、なんだっけ?」
「次は英語」
「うわー…! もっとやばいやつじゃん!」

 頭を抱えて絶望顔をする柳木は、

「なぁ鳥羽、教えて!」

 頭の良い鳥羽に秒で泣きついた。

「えー、どうしようかなぁ」
「頼むよ! 友達だろ!」

 切羽詰まったような柳木に、それを見てからかっておもしろがる鳥羽。

 俺の周りにいる友達は、少し個性的な人ばかりだ。

「次、英語かぁ……」

 数学よりはできるけど、得意ってわけでもない。でも最初の基本問題で点は取れるはず。

 ……あっ、そういえば先輩、英語が苦手って言ってたっけ。しかも言い訳が、日本人なのに英語する意味なくない?って。英語苦手な人の言い訳の代表的なものを……

 今日、英語のテストあるのかな。

 先輩、ちゃんとテストできてるかなぁ……

 まだテスト一日目。明日も残りの教科がある。

 〝テストが終わればデート行こうね〟

 ──いやいやっ、なんで今先輩のメッセージの言葉が先輩の声で流れてくるわけ!

 べつに行くって決まったわけじゃないし、なんならあれから〝行かないです!〟って返事したし!

 俺は何を考えてるんだ! もうっ……

「矢野、なに慌ててるの?」

 ──鳥羽の声にハッとする。

「え?! あーううん! なんでもない」
「なんでもないわりには動きが怪しいけど」
「え!? いや、ほんとになにも……」

 先輩のこと考えると、すぐこれだ。

 冷静ではいられなくなる。

「ちょっと鳥羽! 矢野と話し込んでないで俺に英語教えてくれよ!」

 間に割って入った柳木は、かなり切迫詰まって見えた。

「柳木の英語より矢野の話が気になるんだけど」
「いーから! 矢野より俺だろ! 友達を見捨てんのか?!」
「……見捨ててもいいけど」
「やだやだ! 悪かったって!」

 両手を合わせてごめんのポーズをして見せる柳木。

「You're a noisy guy」

 そんな柳木に鳥羽が英語で一言。

 ……うるさいやつ?

「えっ……今、なんて?」

 柳木が尋ねると、「なんて言ったと思う?」と鳥羽は逆質問をする。

「分からないから聞いてんじゃん。早く教えろよ」
「えーどうしようかな」

 なんてせっかくの休み時間を無駄に使っているから、さすがの俺も苦笑い。

「あのさ、柳木。鳥羽の言うこといちいち気にしてたらテスト勉強なんてできないよ」
「だってさあ、気になるじゃん。なんて言ったのか」

 仕方がない。鳥羽が教えるつもりがないなら俺が教えよう。

「うるさいやつって言ったんだよ、柳木のことを」
「え? どういうこと」
「だから、さっきの英語はうるさいやつって言ってたの」

 そう言うと、一瞬ポカンとしたけれど、柳木は「は? マジ?」と言って鳥羽に視線を向ける。

「矢野、どうして教えるんだよ。せっかく俺が秘密にしてたのに」

 と、鳥羽は不満そうに言う。

「だってさすがに可哀想じゃん。赤点取ったら補習一週間あるみたいだし」
「柳木にはそのくらいみっちり勉強する時間があった方がいいんだって」

 なんて、まだからかい続けていると、

「鳥羽、お前ってやつはほんとに意地悪だよな!」

 そう言って俺の背中に柳木は隠れ出した。

「意地悪じゃないって、友達の優しさだから」
「どこがだよ!」

 俺の目の前に鳥羽がいて、俺の背後に柳木がいる。

「お願いだから俺を挟んで言い合い続けるのやめて。テスト勉強に集中できなくなる」

 貴重な休み時間の五分がすでに無駄になっているのに、二人は気にするどころかさらに言い合いを続ける。
 これ以上言っても無駄だと思って、俺は諦めて教科書を見つめた。

 ◇

「っしゃー! テスト終わりっ!」

 テストが全て終わった翌日。柳木は肩の荷が降りたのかすごく元気になった。

「鳥羽、矢野。また明日なー!」

 ニカッと笑いながら手を振ると、柳木は部活へと向かった。
 その姿を見て、鳥羽は「元気だなぁ」と呆れたように笑う。

 まるで嵐のような人だ、と思った俺も、

「ほんとだね」

 と、苦笑いする。

「そういえば矢野、最近あれしてないんじゃない?」

 〝あれ〟とは女装のことで。

「え? あー…まぁね。テスト期間中ってこともあったし」
「今までなら可愛いとか女顔指摘されるとすぐ休みの日にしてたのに」

 たしかに、そうだ。頻繁とまではいかないけれど、女顔を指摘されると自信なくして女装してたけど。中学生の頃は特に。

 もしかして先輩のおかげ……?

 なんて考えた矢先、

「先輩と仲良くなってからじゃない?」

 たった今俺が思ったのと同じことを言われるものだから、

「……! なっ、に言って……!」

 過剰反応した俺は、ぶわあっと顔が熱くなる。

「いやだってさ、最近あんまり聞かないから。女装はもうやめたのかなぁと思って」
「やめては、ないけど……」
「けど?」
「生徒会に入ってからちょっと忙しかったっていうか……」
「あー、まぁたしかに忙しそうだよね」

 べつに、嘘はついていない。忙しかったってのは本当だし。
 それに女装をやめたわけでもない。

「……多分、まだすると思う」

 俺が自信つくまで。顔がコンプレックスだと思っている間は。

「ふーんそっかぁ」
「う、うん」

 理解がなければ軽蔑しかされないから他の人には絶対に言えない。その代わり、鳥羽とこういう話ができるのはとてもありがたい。

「でもさ、そのたびに先輩呼ばなきゃいけないじゃん」
「なっ、なんで……」
「だって俺以外の前でしないでって言われたんでしょ?」
「あ、ああ、うん……」

 言われた。でも、それを周りの口からそれを聞かされると、なんだか本当に独占欲みたいで。

 少しだけ、どきどきしていると。

「先輩、矢野のこと女子だと思ってるんじゃない?」

 なんて急に言い出すものだから、

「はっ? えっ? なんで……?!」

 首がもげそうなほど、鳥羽の方を勢いよく見た。

 俺のことを先輩が女子だと思って?

 いやそんなことは絶対にないと思うけど。

「それだけ矢野の女装姿が可愛かったんじゃないの」

 中学生の頃、嫌というほど言われてきた言葉。

 けれど、それを言われたって。

「……可愛いとか嬉しくないし」

 むしろ嫌気がさして、コンプレックスになったほとだ。

 それなのに、どうして。

 先輩に言われる言葉は、嫌じゃないんだろう。

 むしろ、恥ずかしくなる。褒められたみたいな気になってしまう。

「でも矢野、先輩といるとき嬉しそうじゃん」

 その言葉を聞いて、んぐっと息を詰まらせて、俺はゴホッゴホッと咳をする。

「ななな、なにっ言って……!」
「だって矢野、先輩のこと話してると嬉しそうっていうか、心を許してる感じするし」
「そりゃあ……一応俺の女装してるの先輩も知ってるわけだし気心知れてるけど」

 だからといって好きとかそういうんじゃなくて。

「それは先輩と後輩としてだし……」

 もちろん、先輩としては憧れている。

 ただ、それだけだ。

「じゃあ先輩のこと好きとかじゃないんだ?」
「違う! 俺は女の子が好きだから!」
「そこまで焦ると返って怪しい」
「だ…って、鳥羽が変なこと言うから……」

 恋愛対象は、女の子。

 男は、恋愛対象外だ。

 ……だから先輩にどきどきするのだって、恋としての好きじゃない。

 先輩がどきどきさせるようなことを言うだけで、べつに深い意味はない。

「ふーん、そっか」

 そうじゃなきゃ、おかしいんだ。


 ***


 家に帰り、クローゼットを開く。

 中には、姉からもらった洋服がずらりと並んでいる。

 いつも自分には自信がない。でも、女装をしているときだけは不思議と自信が持てて。

 べつに女の子になりたいわけじゃない。

 俺は、男だ。

 それに、先輩のことは好きだと思うけれど。

「……好きっていうのは人として」

 ただ、それだけだ。

 おもむろに洋服に手を伸ばす。全部、露出少なめのものばかり。スカートは長めのものがほとんどで、その大半がワンピース。

 俺が女装をしているとき、先輩は俺のことを女の子として見ているのだろうか。

「いやでも、矢野くんって呼ばれるし……」

 ちゃんと男だと理解しているよね。

「いや。でもちょっと待てよ」

 先輩が俺のことを見る目が優しい気もするような。
 甘い雰囲気っていうか、空気っていうか。普段学校では感じないような……

「──いやっ、やめやめ! こういうの考えるの良くない気がする!」

 そっちの思考に持っていかれそうになる。

 それもこれも鳥羽が、あんなこと言うせいだ!

 このまま家にいるとよくない方向に考えそう。
 ちょっと気分転換に久しぶりに着てみようかな。

 そう思った俺は、先輩に連絡することも忘れて、着替えると外に出た。

「でも行くところなんか特にないんだよなぁ……」

 目的もなく今日家を出て来たから。

 テスト明けということもあり、比較的早い時間に街に出た。そのおかげもあって学生は少なかった。

 うーん、このまま街をぶらぶらして帰るかなぁ。

「──今日はパーっと遊ぼうぜ! なぁ、夏樹! 山崎!」

 不意に聞こえた声。

 ……あれ、これどこかで聞いた声だ。

 それに〝夏樹〟って。

 恐る恐る振り向くと、そこにいたのは。

 ……あっ、やっぱり先輩だ。

 夏樹先輩のほかにも山崎先輩や武田先輩がいた。

 じゃあ今の声は、武田先輩。

「せんぱ──…」

 思わず声をかけようと思ったが、ハッとして口を覆った。

 今は、まずい。

 なんといっても俺は、女装中だ。

 こんな格好で声をかけて先輩たちに見つかったら、俺が女装してるって気づかれるかもしれない。

 ここはひとまず距離をとって──…

 ──ばちっ。

「……あ」

 夏樹先輩と視線が重なった。

 思わず、パッと目を逸らす。

「夏樹? どした」
「あー、いや今……」

 まずい。先輩、今絶対俺のことに気がついた。

 やばい。逃げなきゃ……!

 焦った俺は、慌てて踵を返すと、走って逃げる。

「ハアハア……」

 部活に入っていないせいで、体力はなくてすぐに力尽きた。

「でも…っ、ここまで来れば……っ」

 なんとか大丈夫だろう。

 建物の死角に入れば、逃げ切れる。

 そう安堵した矢先、

「──矢野くん、捕まえた」

 背後から現れたのは、

「……せ、せんぱい……」

 夏樹先輩だった。

 思わず、ゴクリと息を飲む。

「どうして逃げるの?」
「いや、だってそれは……武田先輩たちもいたので……」
「ふつーにしてたら矢野くんだって気づかないよ。それにタケたち全然気づいてなかったし」
「それは、そう…なんですけど……」

 先輩、少しいつもとは違う雰囲気を纏っていて、さらに質問を重ねてくる。

「それと矢野くん、俺さひとつ気になることあるんだけど」

 先輩の瞳がまっすぐ俺を見据えるから、どきっと意識していると、

「俺との約束破っちゃったの?」

 と、告げられて。

「約束……」
「うん。忘れた?」

 あれ、そういえば何か約束したよな。

 なんだったっけ。

 〝女装するなら俺の前だけでしてね〟

 急速に手繰り寄せられる記憶に。

 ……ほんとだっ! まずい……っ

「こっ、これには理由があって──…!」

 慌てて言葉を取り繕おうとするけれど、テンパったせいで言葉は出てこない。