矢野くん呼びに戻っているけれど、周りにそこまで人はいないため指摘するのをやめた。
 だって俺も、先輩に〝朝陽ちゃん〟って呼ばれるの慣れないし、むしろ違和感がある。

「ふーん、そっか。てか、矢野くんのお姉さんっていくつ?」
「三つ離れてるので今十九歳です。夏樹先輩は兄弟いるんですか?」
「ううん、俺一人っ子だよ」
「え、そうなんですか。なんか意外です」

 それからは他愛もない会話を続けながら街をプラプラ歩いた。

 あっという間に時間は過ぎて十五時になる。さすがにそろそろ帰らないと母さんに女装姿を見られてしまう。それは嫌だったので、理由を説明して帰れるようにする。

 先に駅のホームに降りた俺は、振り返って先輩を見つめる。

「あ、そういえば俺、先輩に聞くのすっかり忘れてたんですけど」
「何?」
「先輩にバレたとき、俺女装してたはずなのにどうしてあれが俺だって気づいたんですか?」

 そう尋ねてみれば、「あー……」と何とも歯切れの悪い返事をして目線を逸らされる。

「まあ、なんとなく? あれ、矢野くんかもって思って名前呼んだら立ち止まって俺の名前も呼んだし」
「あ、なるほど」

 確かにあのとき俺も先輩の名前呼んだっけ。

 でも、なんかまだ引っかかる。そう思っていたら、

「今日は連絡くれてありがとう。休日に矢野くんと会えると思ってなかったから嬉しかった。次は学校で会おうね、〝朝陽ちゃん〟」

 何の前触れもなく、名前呼びを再開するから不意打ちを食らった俺は、

「ちょ、先輩……!」

 動揺して声を上げるが、先輩は楽しそうに笑っていた。
 アナウンスが流れて、ドアが閉まると、先輩は俺に手を振る。
 それに俺も手を振り返して、先輩を見送った。

「ほんと、自由な人だなあ……」

 ふわりと夏の風が吹き、俺の髪(ウィッグ)が横へ攫われる。

「……ん?」

 〝休日に矢野くんと会えると思ってなかったから嬉しかった〟
 それって、なんか休日に俺と会えたことが嬉しかったみたいな言い方……

 ──朝陽ちゃん。

 しかも、今俺のこと名前で呼んだ。
 俺のことを名前で呼ぶ先輩の声はとても優しくて、愛おしさすら含まれているように感じて。

「……なんで俺、先輩にこんなにドキドキしてるんだ」

 しばらくその場にしゃがみ込んだ。