「ん?」
「今朝のあれって……」
「あーあれね。もしかして矢野くん気にしてた?」
「や、べつにそういうわけじゃ、ないんですけど……」
先輩があんなこと言うから気になってしまった、とは言えないし。でも、どういうつもりで言ったのかは気になって真意は確かめたい。と、頭を悩ませているの、頭上からクスッと声が聞こえる。
「今朝も言ったけど冗談だよ。だからそんな気にしなくていいから」
「で、でも……」
「ほんとーに冗談だから、気にしないで」
と、先輩の腕が伸びてきてポスッと俺の頭に乗っかると、乱暴に頭を撫でられる。
「ちょっ、先輩っ……なに、して……」
「何って、矢野くんが今朝のこと気にしてたみたいだから忘れさせてあげようと思って。でも、矢野くんが意識してくれてるみたいだし、本気でしちゃおうかな」
「なななっ、なにバカなこと言ってるんですか……っ!」
俺は盛大に動揺してしまう。そんな俺を見て「あはははっ」と先輩は楽しそうに声を上げる。
「先輩、ひどいですよ……!」
「だって矢野くんがあまりにも可愛くて」
「俺は可愛くありません!」
笑い続ける先輩を追いかけながら、少しだけ遠い日の記憶を思い出す──。
入学したばかりの俺は、学校生活に慣れることに必死だった。校内は当然だけれど男子ばかりで、ガラの悪い人も中にはいた。べつに絡まなければ問題はなく過ごすことができた。
ある日、生徒会の書記を決めることになった。なんでもこの学校は、一年生二人が書紀をすることになっているらしい。生徒会は放課後に集まってやることが多いとか、体育祭や文化祭などのイベント事では学校と文化祭委員の間に入って指示を出したりなど、やる事は多岐に渡るらしい。みんなそれが嫌で、学級委員長や副委員長、クラスの係はすんなりと決まっていった。残りの人数の中で書紀へ立候補する人を選ばなければならなくなった。その中に俺もいて、だけど一番気が弱そうだと思われたのか押し付けられてしまった。言葉で言い負かすことができなかった俺は、仕方なく引き受けた。
六クラスから一人ずつが立候補して、生徒の前で演説をする。だけど、立候補といっても俺のように仕方なく引き受けた人も多くて、演説はやる気のないものがほとんどだった。俺は、一度自分が引き受けたからには適当なことはしたくなくて、それなりに演説をした。もちろん受かるとは思っていなかった。
だけど、後日、生徒会室に呼ばれて、『書記に合格した』ことを伝えられる。そのときに、はじめて夏樹先輩と会った。第一印象は背も高いし、クールっぽく見えて少し怖そうな人だと思った。
──それがまさかこんなに仲良くなれるなんて思っていなかった。
「…──のくん、矢野くん」
聞こえる声に我に返ると、すぐ近くに先輩の顔があって、思わずドキッとする。
「……な、何ですか?」
「なにって、今ボーッとしてたから。暑かった? それとも体調悪い?」
「あ、いえ! 大丈夫です」
不自然にならないように気をつけながら距離を取る。
「そっか、ならよかった」
「心配かけてすみません!」
「ううん、大丈夫」
と、先輩は優しく微笑む。
「てか聞いてよ。今日の昼さ──」
そのあとも他愛もない会話をしながら駅まで先輩と一緒に歩いた。
◇
『矢野ってすっげぇ可愛い顔してるよな!』
『矢野くんって女の子より女の子みたい』
……あー、もう嫌だ。耳を塞ぎたくなったそのとき、
──ピピピッ…
つんざくようなうるさい音で、俺は目が覚めた。
カーテンの隙間から溢れる光が眩しくて、思わず目を細める。
「なんだ、今の夢か……」
むくりと起き上がり、スマホのアラームを消す。なんとも目覚めの悪い朝。
「はぁ……嫌な夢見た……」
最近はあまり見なかったのに、久しぶりに過去の苦い記憶を見た。
スマホの時間を確認すると、六時過ぎ。ここから駅まで十分もあれば着くから余裕だ。
「……あれ、今日って……」
目を凝らしてスマホに表示されている日付を確認すると、今日は土曜日。学校が休みの日だ。
なーんだ。今日、学校じゃないじゃん。昨日、アラーム解除するの忘れてた。休みの日は八時まで寝ようって決めてたのに。
よし、二度寝しよう。そう思って、また布団に潜り込む。
「ああっ、だめだ! 寝れない!」
さっきの夢が原因で目は冴えて、二度寝どころではない。
「……とりあえず起きるかぁ」
どうせベッドでゴロゴロしたって嫌なこと思い出すだけだ。顔洗ってさっぱりして、ご飯でも食べよう。
ふあーあ。あくびをひとつしたあと、重たい身体を無理やり動かした。
「あら、朝陽。おはよう。今日は早かったのね」
顔を洗ってリビングに向かうと、休日なのにいつもの時間に起きた俺に母さんは驚いた。
「アラーム間違えてセットしちゃったみたいで」
「そうだったの。でも、休みの日も早起きするといいことあるわよ、きっと」
「……そうだといいけど」
食パンをトースターで焼いて朝食を準備する俺は、このあとの予定を頭の中で考えた。
家にいてもゴロゴロするだけだし、図書館にでも行ってみる? いやでも、そんな気分にもなれないし……
「このあとお友達と久しぶりに会ってランチに行って来るんだけどお昼ご飯大丈夫そう? 何か作ろうか?」
「適当に食べるから大丈夫だよ」
母さんはパートで働いている。基本、土日は休みの日が多い。父さんは、今単身赴任中で家にいない。
軽く朝食を済ませてから部屋に戻る。予習でもしようと教科書とノートを広げてみるが、全然集中できなくて放り投げた。
ベッドでゴロゴロしていると、時間はあっという間に過ぎる。
「朝陽、お母さん行ってくるね」
「あー、うん気をつけて」
玄関に向かった音が聞こえたあと、バタンッとドアが閉まった音がした。時刻は十時半。
「あーあ……今日、どうしよう……」
キャスター付きの椅子で移動して、カーテンを開けると、そこは青空が広がっていた。
いい天気だなぁ。こんな日にずっと家の中でくすぶっているのはもったいないなー。
──矢野ってすっげぇ可愛い顔してるよな!
頭の中で、また嫌な言葉がリピートされる。
「あーもうっ、いい加減忘れたいのに……!」
自分に自信がもてなくて、何をやるにも後ろ向き。
けれど、女装をしているときだけは自分に自信が持てる。
「久しぶりに女装……してみようかなぁ」
クローゼットに隠すようにしまってある姉からもらった女物の洋服。それほど多くはないが、クローゼットの半分を占めていた。
ウィッグはロングの一種類のみ。特にこだわっているほど女装に手をかけているわけではないため、ロングをその日の気分で下ろしたままか結んだりしている。
化粧は、もちろんしていない。そこまで気合いを入れてするほどでもないし、元々肌は綺麗な方だからこのままでも大丈夫。
「……うん、久しぶりのわりにはいい出来」
鏡の前でおかしなところはないかチェックする。
どこをどう見ても、女子だ。
白のTシャツに黒ワンピースを重ねただけの、何ともラフな格好。そこまで肩幅があるわけではないため、これが男だと気づくのはまずないだろう。
……あっ、でも例外が一人だけ。
「そうだ。夏樹先輩に連絡どうしよう……」
〝次に女装するときは俺の前だけにして〟って言ってたよなぁ。
断ることもできそうだけど約束を破ったら、〝お仕置きとしてキスする〟って……いや、さすがにそれは嘘だろうけど。
「あー、もうっ、仕方ないなぁ……っ」
ベットサイドに置いていたスマホを取って、個人メッセージができるアプリを開く。
「えーっと、なんて言おう。今日女装するので夏樹先輩も来てください……? いや、なんでそんな強制的みたいな……うーんと……」
打っては消し打っては消しを繰り返して、ようやく完成したのは。
【今日、女装しようと思っています。
夏樹先輩に連絡しようかしないか迷ったんですけど、例のお仕置きが怖かったのでとりあえず連絡だけしました。来なくても全然構いませんので】
送信ボタンを押して、かばんを用意するとその中に必要最低限の財布と応急セットを入れた。
──ブブーっ
「えっ、早……っ!」
一分もしないうちに夏樹先輩から返信が来る。
【絶対行く。何時にどこ?】
何時に……うーん……
「十二時くらいに駅広場…ですっと」
送信すると、ものの数秒で返信があり。
【わかった】
と、簡潔的なものだった。
自分が連絡したとは言え、さすがに女装をそう何度も見られるとなると。
「ちょっと恥ずかしいなぁ……」
鏡に映る自分を見て、姿は女子そのものだったから。
***
待ち合わせ時間より五分ほど前に駅前広場に着いた。あたりを見渡すが、夏樹先輩の姿はまだなさそうだ。
「今、着きました…っと」
すれ違いになったら面倒なことになりそうだからと、真っ先に連絡をする。
──ブブーっ…
すると、メッセージではなくなぜか着信で。
【着信 夏樹先輩】
と、スマホに表示されていた。
「はっ、はい、もしもし……」
初めての先輩との電話に少し緊張して、声が上擦った。
『矢野くん、今どこ?』
「えっ、俺ですか……今、駅前広場ですけど先輩はどこに……」
『あー、俺は──…』
スマホの向こう側で、がやがやと何やら騒がしくなり声が聞き取りにくくなる。
「あの、夏樹先輩……」
もう一度声をかけると、『──あ』弾んだ声がスマホから流れてきて、
「矢野くん、見つけた」
楽しげな声がふたつ聞こえた。
ひとつはスマホからで、もうひとつはこの場所から。
あたりを見渡すと、少し離れた場所で俺の方へ歩み寄る夏樹先輩が映り込んだ。
夏休みと同様、ラフな格好なのにすごくおしゃれで一際目立っていた。
「矢野くん、お待たせ」
俺に手を振ってくるからつられるように手を振り返す。
「今の女の子見た? すっごい可愛かった」
通りすがりの女子がボソッと呟いた。
その言葉によって俺はあることを思い出し、すぐに手を下げて、俯いた。
「矢野くん、どうしたの?」
そんな俺に困惑して、先輩は声をかける。
俺は今、女装をしている。
それなのに先輩と会うとどうしても普段のままの自分だと錯覚しそうになる。
「先輩……その、矢野くんっての人前ではやめてもらっていいですか?」
先輩は、俺のことをいつも通りで呼ぶ。
それを他の誰かに聞かれたら俺が女装している変なやつだと疑いをかけられる。
「え、なんで?」
「なんでって……えっと俺、今…女装してて、だから……」
頭の中で考えながら言葉を紡ぐが、緊張のあまり言葉は滑らかに現れない。
中途半端な言葉だったが、先輩は意図を汲み取ったのか、
「ああなるほど、〝矢野くん〟はまずいよね」
と、表情を明るくする。
「じゃあ……あーちゃんって呼ぼう」
「えっ、ちょ……はい……?!」
「矢野くんの名前、朝陽でしょ? でも今矢野くんはダメだし。だったら、あーちゃんしかなくない?」
「だからって、なんで……もっと他の呼び方にしてくださいよ」
「気に入らなかった?」
「いや、そういうわけじゃなくてですね……」
羞恥心が半端ないっていうか、今まで先輩には矢野くんとしか呼ばれたことないから想定外だったというか。
「じゃあ……朝陽ちゃん?」
あーちゃんも朝陽ちゃんも、どっちもしっくりこないけれど。
「そ、それならまだいいです」
自分で納得したとはいえ、恥ずかし過ぎて顔が熱くなる。
「うん……朝陽ちゃん、朝陽ちゃん」
頭の上の方で俺の名前を繰り返し呼ぶ声が聞こえる。大事に息でくるむような優しい声に、俺は恥ずかしくなって思わず俯いた。
そのせいで、ふわりと揺れる黒いワンピースが、胸元まである長い髪が視界に入り、まるで女の子扱いされている気持ちになり。
……なんだ、これ。そわそわして落ち着かない。
今まではこんなことなかったのに、俺どうしちゃったんだろう。
「朝陽ちゃん、お昼食べた?」
先輩の〝朝陽ちゃん〟呼びには慣れなくて、反応が鈍る。
「あ…いえ、まだ……」
「じゃあまずはお昼食べに行こう。何か食べたいものとかある?」
「い、いえ、特には……」
「それじゃあ俺が行きたいところでもいい?」
「はい、大丈夫です」
そういえばまだお昼食べてないんだっけ。すっかり忘れていた。
「じゃー、はい」
おもむろに先輩が俺に手を差し出すが、その意図が読めなくて困惑する。
「……なんですか?」
「手、繋ごうよってこと」
「っ?! なっ、なんでですか!」
「なんでって……今恋人っぽく見えるから?」
「〜〜…やですよ!」
焦って思わず素が出てしまう。
そんな俺を見かねた先輩が、そうっと顔を寄せて、
「──今女の子なんだからそんな大きな声出したら男だってバレちゃうよ。朝陽ちゃん」
やけに優しく、名前を呼ぶから、カアッと顔が熱くなり、
「なっ! ちょ、先輩……っ」
「ほらほら言ってるそばから」
「あっ、そ、そうだ……」
俺は慌てて口を手で覆うと、先輩は楽しそうにフハッと笑った。
なんだか俺ばかりが動揺していておもしろくない。
「で、さっきの続きだけど朝陽ちゃん手……」
「は繋ぎませんので」
「でも今俺たち恋人っぽく……」
「も見えませんので」
先輩が言おうとしていることを俺が先回りして言葉を詰むと、
「朝陽ちゃんってば隙がないなぁ」
肩をすくめて笑ったのだ。
それから先輩と移動してやって来たのは、おしゃれなカフェだった。
カウンターで注文をしてから店内に進む仕組みのようだ。
「や……朝陽ちゃん、行こ」
一人では絶対に入れないような内装に俺は思わず足がすくみそうになったが、隣にいた先輩が俺の背中を優しくエスコートするから足は立ち止まらなかった。
奥のテーブル席が空いていたため、そこに腰を下ろした。
……のは、よかったのだが。
先輩が優しくエスコートしてくれたからって何だよ……! なに、ちょっとそこにきゅんとしちゃってるんだよ! たしかに今、女装してるけど、だからといって男が好きなわけじゃないし恋愛対象は女子だ! あーもうっ……。
「矢野く──……朝陽ちゃん、何頼む?」
何事もなかったかのように先輩は微笑む。
「……先輩、今のは危なかったですよ」
「うん、ほんとだね。少しでも気を緩むといつもの癖で呼んじゃう。癖って危ないね」
そんなことを話していると、「あっ、ここ空いてるよ。ラッキー」と女子の団体が斜め横に座るから、ここはもはや危機的状況だ。
「今は、絶対に気をつけてくださいね」
もう一度念を押すと、
「うーん、気をつけるね」
自信なさげな軽い返事が返ってきて、ほんとに大丈夫だろうかと心配になる。
他愛もない会話をしていると、「お待たせしました」と注文していたものが届く。
「じゃー食べようか」
「は、はい」
ちらっと女子の団体を確認したあと、目の前に置かれていた、ほかほかと湯気が上がるハンバーグへと手を伸ばす。
「んー、おいしい」
ひと口食べれば、思わず頬が緩む。
すると、くっくっくっと引き笑いが聞こえるから顔を上げて、
「な、なんですか」
「いやーだってさぁ、見た目と食べ物があまり一致しないから……今すっごい女の子じゃん、朝陽ちゃん。それなのに食べてるのそれだし」
先輩が言いたいことは、分かる。
見た目がこんなんだから食べるなら普通、先輩が食べているパンケーキを俺が食べるはずだと。
でも俺は、
「今お腹の気分がこっちだったんで……」
言い訳みたいになっているのが恥ずかしくって、ハンバーグを口に放り込む。
「いや、うんっ……ふっ、くっくっくっ…」
そんな俺を見て、まだ笑いを堪えるから、
「ちょ、先輩、笑いすぎです……!」
女子の団体に聞こえないように顔をずいっと寄せて小声で言うと、
「だってさぁ、矢野くんが……」
気を抜けば、ほらまたやっぱり名前が戻ってる。
「あっ、先輩! また名前……」
「ほんとだ。ごめん」
「もう……ほんとに気をつけてくださいね」
女子の団体に俺が女装してる男だってバレるのだけは御免だ。
「じゃあ名前呼んだ罰としてこれひと口食べる?」
先輩が頼んだのは、いちごソースのかかったふわふわパンケーキ。
「……どういう罰なんですか」
俺が文句をついてみるが、
「まあまあ、いーからいーから」
と、他人事のように軽い返事をしたあと、フォークで刺したひと口分を俺に向ける。
「……な、なんですか」
ギョッとして、声が上擦ってしまう。
「あーんしてあげようと思って」
「……遠慮しておきます」
「いーからいーから」
なにがいいからなのかさっぱり分からない。
この状況に困惑して、固まっていると、
「ほら早く、いちごソース溢れる!」
なんて先輩が急かして、さらにグイッと口にフォークを寄せるから食べないわけにはいかなくなって、パクリッとひと口食べる。
「どう?」
少しわくわくしながら俺を見つめる先輩。
「……おいしい、です」
悔しいけれど、いちごソースのかかったパンケーキはめちゃくちゃおいしかった。
「うん、よかった」
先輩は目を細めて微笑む。
その表情に、思わず胸がキュンとする。
「ねぇねぇ今の見たぁ? 彼氏さん、彼女にあーんしてたよ!」
「見た見た! めーっちゃラブラブだねぇ!」
不意をつくように聞こえた女子の団体の弾む会話が俺の耳に流れてくる。
この周りに男女でいるのは俺たちくらい。と言っても実際俺は男なんだけど、女装をしているから周りからは女子に見えるらしい。
……うわー、なんか恥ずかしい……。
顔を見られないように、少しだけ俯いた。
「や……朝陽ちゃんどうしたの?」
俺を心配したのか、先輩に声をかけられる。
「あ、いえ、別になにも……」
とにかくここは話題を変えよう。
「せ、先輩は、甘党なんですか?」
「あーうん、かなりね。だから甘いものには目がなくてさ。もちろん辛いものも好きだけど」
と、その合間にひと口食べる。おいしそうに頬張ったあと、
「ここ、気になってたんだけど女子が多くて俺一人じゃ行けなくてさぁ」
「へぇ、そうだったんです…ね……」
納得しそうになった俺の頭の中のレーダーがピコンッと何かを察知して、急速に手繰り寄せられる記憶。