女装した俺が、先輩に気に入られた件について。


 あれほど違うと言ってもなお、あのときの女装を俺だと断言した夏樹先輩。いや、そもそも、女装ではなくただの女子だと認識することもできたはずなのに、なぜ俺だと……

「えっと……」

 ──違う。俺じゃない、と一言言えば納得してくれるかもしれない。

 そう思って顔を上げると、からかっているわけでもなく、バカにしているわけでもない、真っ直ぐな瞳が俺を見据えていた。

 夏樹先輩のこの目に俺は、なぜか弱くて。

「……はい、そうです」

 もうここまでくれば嘘はつけそうになかった。

「なんで女装してたの?」

 二つ目の問いが現れる。

「えっと、それは……」
「俺もあのときはびっくりしたけどさ、何か理由あるのかなって思って」

 と、先輩が言う。

 夏樹先輩は、俺のことを笑ったりからかったりするわけではなさそうだ。

「……なんで、夏樹先輩」
「ん?」
「いや、だって、普通なら女装する男子なんてきもいってバカなんじゃないかって思うじゃないですか……」
「んー、普通とか一般的とか分からないけど、だからといって矢野くんに変わりはないじゃん」

 こうなることは全然、予想できていなかった。
 確実に俺の噂が学校全体に及ぶんだと思っていた。

 だから、目の前の出来事に動揺を隠せなくて。

 そんな俺に先輩は──

「矢野くんが人一倍頑張り屋だってこと俺、知ってるし」

 ──微笑みながら。

「それに矢野くんは、一度引き受けたものは投げ出さずに最後までちゃんと自分でやりとげるってことも知ってるよ」

 ──ちょっと得意げに。

「だから、矢野くんを軽蔑するなんて絶対にないから」

 ──真っ直ぐ向けられた瞳は、キラキラとしていて。

 ああ俺、泣きそうだ。
 ふと、そう思ってしまったんだ。

「俺、自分の顔がコンプレックスなんです。中学のときは周りによく可愛いって言われてて……」

 ゆっくりと俺は口を開いた。

「そのことを姉に打ち明けると、『自分の顔を嫌いになるんじゃなくて武器にすればいい』って言われたんです。それで着なくなった洋服を俺にくれたり化粧もされたり。当然最初は何で女装なんだろうって思ったんです。顔がコンプレックスなのに」

 わざわざ女装しても、それはさらにコンプレックスが悪化するだけだと思っていた。

「女装した格好で街を歩いてたらたくさんの視線を向けられていることに気づいて、少し怖くなって俯きかけたとき姉が、『堂々と胸張って前だけ向きなさい。朝陽は朝陽だよ』って言ってくれて……それから少しずつ慣れてきて、一人でも街を歩くようになったんです。段々と自信がついてきたのか俯くことはなくなって、今では堂々とすることができて」

 自分の過去を誰かに打ち明けたのはいつ以来だろうと、少し照れくさくなり、

「顔がコンプレックスなのに、女装して自信がつくって変な話なんですけど」

 と、俺は笑い飛ばすが、先輩はバカにしたりからかったりそんなことせずに、「そんなことがあったんだね」と先輩は穏やかな声で言った。

「矢野くんが今、話してくれたことってほんとは言いたくないことだったんだよね。それなのに俺に話してくれてありがとう」

 女装は誰にも認められないと思っていた。
 バカにされると思っていた。
「矢野くんの過去を知れて嬉しかったよ」

 一生、女装をして生きようとは思っていなかった。自分の顔がコンプレックスで、人よりも自信がなくて。どうしても自分に自信がほしかった。

 それだけ、だったのに。

 夏樹先輩に自分自身を肯定されて。

 ──素直に嬉しいと思ったんだ。

「でも、ひとつだけ俺と約束してほしいな」
「……約束、ですか?」
「女装するなら俺の前だけにしてほしい」
「…………へ?」

 いや、ちょっと待って。先輩、今なんて言った?

 〝女装するなら俺の前だけにしてほしい〟

「だからね、俺がそばにいるときだけ女装してほしいってこと。一人で街に行こうとしないで女装するときは連絡してよ。俺、すぐ駆けつけるからさ」
「いやっ、あの、なんで……」
「なんでも。絶対だからね」

 理由を聞いてもそれしか言ってくれず、困惑したままの俺。だけど、夏樹先輩はそんなのお構いなしに、「タケたち待ってると思うし戻ろ」と言って俺の横を通り過ぎていく。

 全然、理解が追いつかなくて俺はその場に立ち尽くす。

 俺の前だけで、って夏樹先輩の前だけ女装しろってこと……?

 なんかそれって──

「おーい、矢野くん?」

 聞こえた声にハッとすると、夏樹先輩の真っ直ぐ向けられる瞳とぶつかって、その瞬間顔が熱くなる。

「顔、赤いけどどうかした?」

 それって〝独占欲〟みたい。

 そんなふうに思う自分が恥ずかしくなって。

「なななっ、何でも、ありません……っ!」

 慌てて誤魔化すと、歩き出す俺。

 けれど、手足が同じタイミングで出てしまう。それはまるで壊れたロボットのようだ。

「なんでもないって顔してないけど」

 俺の隣を歩く先輩が、いきなりひょこっと顔を覗かせる。

「こっ、これはただ暑かっただけです!」

 そうだ。顔が、身体が、暑いのは、この真夏のせい。きっとそうに違いない。

 それなのに。

「ふーん、そっか」

 先輩は全く信用した素振りも見せずに、ふはっと吹き出して笑うから、

「しばらくこっち見ないでください!」

 隣にいる先輩に顔が見えないように、横を向いて歩いた。
 
 ──これは、女装した俺と先輩のお話だ。

 ◇

「矢野、おはよー」

 友達の鳥羽彰(とばあきら)が登校してきた。

「おはよう」

 高校に入ってできた一番目の友達で、唯一俺が女装をすることを知っている人物。
 なぜ俺が鳥羽にだけそれを話したかといえば、彼はアニメ好きで、コスプレが趣味だとか。それで俺も女装を打ち明けたわけだけど。

「夏休み中アレしたの?」

 誰が聞いているか分からないから教室では鳥羽は女装のことをアレと呼ぶ。

「うん、そりゃあもちろん」
「じゃあなんでそんな元気ないわけ」

 かばんの中から教科書を出しながら、ちら、と俺の方へ視線を向ける鳥羽。
 だてに友達をやっているわけじゃないらしい。俺の小さな変化を読み取ったのだろう。

「元気ないわけじゃないんだけどさー……」
「じゃあ、何かあったの?」

 手を止めて全神経を俺に向ける鳥羽。

 〝何か〟は間違いなく。

「……まあ、あったけど」

 右と左を確認した鳥羽は、俺に顔を寄せて、「何があったの」と耳に手を当てて聞く準備万端だということをアピールする。

「……実はさ、夏樹先輩に俺が女装してるってバレちゃったんだよね」
「夏樹先輩って生徒会副会長の?」
「うん、そう。副会長」
「あの先輩に?」
「うん」
「まじで」
「だからそう言ってるでしょ」

 鳥羽は信じられない、とでも言いたげな顔で俺をしばらく見つめたあと、「なんでバレたの?」と疑問をぶつける。

「なんでってそりゃあ──…」

 ……あれ、なんで先輩に女装していたあれが俺だってバレたんだろう。

「分かんない」

 気の抜けたように俺の口からぽつりとこぼれる。

 すると、なんで、とでも言いたげな表情を浮かべて俺を見つめる鳥羽。

「いや、だって……聞いてないから」
「え、そこが一番肝心じゃないの」
「そうなんだけど、この前はそれどころじゃなかったっていうか……」

 いきなりの話題振りに、先輩からの言葉に、驚くことがたくさんあって。どうしてあれが俺だと気づいたのか聞くのを忘れていた。

「でもさ、そこ聞いてた方がいいんじゃないの」
「……なんで?」
「夏樹先輩にバレるってことは他の人にも気付かれる可能性があるってことでしょ」
「……ほんとだ……!」

 こんな呑気にしている場合じゃない。

 女装するにあたってもっと対策を練らないと……あっ、でも『今度女装するときは俺の前だけにして』って言ってたっけ……いやいやっ、何言ってんの! 何も先輩の約束を守る必要なんかないし。そもそも俺、約束したわけじゃないし。うん。

「百面相してるとこ申し訳ないけど、何を考えてるわけ?」
「……え、それは、言いたくない」

 だってあれは、そういう意味にも捉えかねないわけだし。変な誤解されたくないし。そもそも俺、承諾したわけじゃないし。

「言った方がすっきりしない?」
「それは、そうだけど……」
「俺、べつに誰にも言うつもりないよ」

 勝手に夏樹先輩の言葉を教えちゃっていいのかな。先輩嫌がらないかな。……て、べつに口止めされてるわけじゃないし、先輩だってあの言葉に深い意味はなかったかもしれないし!

 近くに誰もいないのを確認してから話し出す。

「実は、夏樹先輩に〝女装するなら俺の前だけにして〟って言われたんだよね」

 俺の言葉を聞いて「……へ?」と、鳥羽は固まる。

「やっぱり、そうなるよね……」
「いや、うん。ちょっと待って」

 俺に手のひらを向けて、もう片方の手を自分の頭に添えて、頭の中であーでもないこーでもないと何かを考えたあと、鳥羽は言った。

「その言葉を砕くと、他の人には女装見られたくないってことになっちゃわない?」
「……そう聞こえなくもないよね」

 ──俺も、先輩に言われたあの瞬間思った。

 それってなんか〝独占欲〟みたいだって。
 だけど、先輩に限ってそんなはずないし、きっと深い意味はなかったんだと思う。が、身近にいる鳥羽でさえも言葉の意味をそう紐解いたなら、ありえない話でもないわけで。

「どうするの?」
「……どうってなにを」
「え、先輩のこと?」
「……どうもしないけど」
「なんで?」
「いや、逆になんでそんな発想に至るの!」
「だってそれ、告白みたいなものだし」

 ………はあっ?!

「全っ然違うから!」

 何をどうすれば告白になるんだっ。

「可能性もないわけではないと思うよ」
「……どうしてそう思うわけ」

 もしかしたら何か思い当たるフシがあるのかもしれないと思って尋ねてみると、「俺の勘がそう言っている」と格好つけた顔をするから、真面目に聞いた俺がバカみたいだ。

「もー……鳥羽のアホ」
「ごめんって。だけどさぁ、一度先輩に聞いてみた方がいいと思うけど」
「……聞くって何を?」
「先輩は俺のこと好きなんですかって」

 その言葉を聞いて、俺の頭はフリーズする。

「……はああぁぁ?!」

 フリーズが溶けた直後、俺は盛大に驚いた。

 そのせいでクラスメイトはどうしたどうしたと俺に注目が集まる。
 何でもない、と笑って誤魔化したあと、身を縮めるように椅子に座る。

「先輩が言ったことが気になるんでしょ」
「そ、それは……で、でも、本人にわざわざ聞くようなことでもないっていうか」

 仮に俺が先輩に聞いたとしても、先輩にとってあの言葉に深い意味はなかったって言われたら、俺が恥ずかしいやつになるし。

「じゃあそのままにするの?」
「いや、だからべつにそういうつもりじゃなくて……」

 言い返そうと思った矢先、

「…──矢野くんいるー?」

 聞き覚えのある声が廊下から響いて、俺の意識は全てそっちへ注がれた。

 えっ、なんで、先輩が……! 今まで教室に現れるとすれば会長くらいだったのに、なんで……

「呼ばれてるよ」
「……ああ、うん」

 鳥羽の声にハッとして、席から立ち上がると、「ついでにさっきのことも聞いてくれば?」なんて楽しそうに言ってくるから、

「あとで覚えておいて」

 捨て台詞を残してから俺は廊下へ向かった。

 それにしても先輩、背が高いなぁ。おまけに顔整いすぎてるから余計に目立つ。

「あ、矢野くんいた」

 俺に気づくと、先輩はわずかに微笑んだ。

「ど、どうしたんですか?」

 緊張のせいで唇がうまく動かない。

「ああ、うん。この前俺が……」

 ──あっ、嫌な予感がして。

「あああのっ、先輩!」

 大きな声をあげると先輩はびっくりしたのか、「ど、したの」と、口をぽかんと開けたまま目を白黒にする。

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 でも、ここじゃダメだ。

「その話は、ここだと目立つので……」

 恥ずかしくなって口元を手のひらで抑えると、俺の言葉の意味を理解したのか、

「じゃああっちで話そうか」

 と、先輩は微笑んだのだ。


 ***


「さっきの話だけどさぁ」

 非常階段に腰を下ろすなり、しゃべりだす先輩に何を言われるのか心臓バクバクの俺に容赦なく先輩は言う。

「あれから女装した?」
「ちょ、いきなり、なんてことを……!」
「回りくどいの苦手だからストレートに聞こうと思って」
「……だからといってストレートすぎます」

 あー…もうっ! なんで先輩は、すぐこうやって真っ直ぐ聞いてくるんだろう。もっと言葉をオブラートに包んでほしいのに。

「その反応は女装した?」
「しししっ、してません!」
「ほんとに?」
「ほんとです!」

 半ばやけっぱちになって言い返すと、

「そっか、よかった」

 と、先輩は口元を緩める。

 ──どきっ

 何だよ今の、どきって。これじゃあ俺が先輩にドキドキしてるみたいじゃないか……じゃなくて!!

「な、なんで、そんなこと聞いてくるんですか」
「この前、言ったじゃん」
「言ったって、なにを……」
「女装するなら俺の前だけにしてって」

 真っ直ぐ俺を見つめる先輩の瞳とぶつかって、思わず息を飲む。

「それとも矢野くん、それ忘れてた?」
「……お、覚えて、ます」

 あの日から先輩の声が、言葉が、やけに頭にくっきりとこびりついて離れないんだ。

「で、でも、どうしてそんなこと……」

 先輩は言うんだろう。

「どうして、か」

 俺の言葉を反芻したあと、急に真剣な顔つきになって。

「…──もしも俺が、矢野くんのことを好きって言ったらどうする?」

 やけに、クリアに聞こえてきた、それに。

「……え?」

 一瞬、本気で告白をされたのかと思った。

 先輩が俺のことを……?

 いや、まさか。
 でも、もしかして。

「なーんて」

 パチンッと聞こえた音にハッとすると、たった今先輩が両手を叩いた音だと気づく。

 それが冗談だったのだと理解する。

「ちょ、先輩……今のは冗談がすぎます」
「だよね。ごめんね」

 先輩は、悪びれる様子もなく謝る。
 おかげで俺の寿命はかなり縮んだ気がする。

 先輩の言動は、いちいち心臓に悪い。

「今度はいつ女装するの?」
「まだ分かりませんけど……どうしてそんなに気にするんですか?」
「どうしてって、俺もついてくから」

 さも当然だ、と言いたげな表情を浮かべていた。