花火大会が終わり、お盆休みが終われば猛暑も幾分手を緩めてくれるかなと思った。
 しかし今年の暑さはそんなに甘っちょろいものではない。二学期が始まる頃になっても天気予報で表示される最高気温の色は紫色のままだった。
 暑い暑いと独り言をつぶやきながら通学する朝の光景。周りからは夏休みに何をやったかとか、課題が全然終わっていないとか、今日は八月三十二日だよなという会話が聞こえてくる。
「おはよ」
 女子生徒の声。背後から声をかけられたらしい。
 まさか自分が女子生徒から挨拶をされるとは思っていなかったので反応に遅れた。陽菜世先輩とは通学路が違うので、彼女ではない他の誰かだ。
 そうなると僕に声をかけてくるような女子生徒は自ずと導き出される。そんなのは小牧凛、一人しかいない。
「……なんだ凛か、おはよう」
「なんだってことないじゃん。同じ通学路なのに滅多に出くわさないから、ちょっと声かけてみたのに」
「ごめん……」
「……まあ、謝るほどのことでもないんだけどさ」
 すぐにごめんと言ってしまう悪い癖を早いところ直さなければなと思っているのだが、これがなかなか直りそうにない。脊髄反射的に出てきてしまうので、かなり意識をしておかないといけない。
「あっという間に新学期だね」
「うん、本当にあっという間の夏休みだった」
「文化祭のネタ、何か思いついた?」
「えーっと、コピー曲でやりたい曲が見つかったんだ」
「あれ、意外。てっきりオリジナル曲がたくさんできたのかと思ってた」
「それもあるっちゃあるんだけど、それだけだと聴く人たちがポカンとしちゃうからさ。やっぱりみんなが知ってる有名な曲をいくつかやっておかないとって」
「それ、ヒナ先輩が言ってた?」
「よ、よくわかったね」
 凛は鋭いところをついてくる。
 彼女の言うとおり、今の案を言い出したのは陽菜世先輩だ。この間のコンテストの二次選考で披露したオリジナル曲をやるのはいいのだけれども、やはり知名度のない僕の曲だけでは聴く人の方が大変だろうということで、陽菜世先輩がコピー曲を列挙してくれた。
 ……挙げすぎてベストアルバムが出来上がりそうになってしまったので、僕がある程度厳選をした。今日の部活で皆に相談して最終決定にしようと考えていたのだ。
「相談もなにも、ヒナ先輩がやりたいって言ったら無条件で採用だと思うけど」
「一応それでもみんなで決めたってことにしたいんだよ。先輩、変なところで背中を押してもらいたがるから」
「ふーん」
 凛はなぜか興味深そうに僕の顔を見てくる。
 何か変なことを言っただろうか。心当たりがまるでない。
「晴彦、やっぱりなんか変わったね。夏休み中になんかあった?」
「な……なんかって……?」
「ほらその……ヒナ先輩と、色々……進展とか……?」
「うぇっ!? い、いや、その、まあ……ある程度……ね?」
「動揺しすぎでしょ……」
「ご、ごめん……」
「また謝るじゃん」
 傍から見たら僕に変化があったことなどバレバレなのだろうか?
 自分では特段何かを変えたつもりはないので、凛に色々バレていることに驚いてしまった。
 もしかしたら僕の知らないところで凛は陽菜世先輩と話していたのかもしれない。けれども、そういう素振りも見えないので、やっぱりわかりやすく僕が変化をしているのだろう。そう考えると、なんだか恥ずかしい。
「まあでもとりあえず文化祭に向けて頑張らないとね。なんやかんやもう一ヶ月くらいに迫ってるわけだし」
「そ、そうだね、頑張ろうよ」
「んじゃ、私日直あるから先行くね。また後で」
 凛はスマホを取り出して時刻を確認すると、僕を一瞥して学校へと駆けていった。
 運動部は辞めてしまったというが、昔からスポーツ万能だった彼女の走る姿は、その名の通り凛としていて美しい。
 そういえば、どうして凛は部活を辞めてしまったのだろう。ふと、そんなことを思う。
 ずっと気になっていたけれど、僕なんかが聞き出していいものなのかと尻込みをしたままだ。
 いつかそれをきちんと知ることができるのだろうか。
 ……いや、陽菜世先輩がいなくなったら、おそらく凛と話す機会もなくなる気がする。
 知ったところで、どうしようもない。
 
※※※

 学校は日が進むにつれて文化祭ムードが高まってくる。
 クラスの出し物、それぞれの部活による展示や屋台、それらの小道具や備品が、校舎の所々で垣間見えるようになってきた。
 僕らのバンドも、練習が佳境に入ってくる。
 文化祭というだけで幽霊部員だった人たちが息を吹き返し、急造バンドが増えるのだ。
 出演枠は限られているので、演者が増えれば当然オーディションになる。
 今日はその選定オーディションの日。
 ここで一定の評価ラインを超えれば、無事に文化祭ライブを迎えることができる。
 校内では実力者である金沢先輩や凛がいればこの程度の選考を通過するのは余裕だ。
 先日のコンテストに比べたら何のことはない。
 
 オーディションで僕らの出番がやってきた。
 機材のセッティングを終え、陽菜世先輩が「始めます」と審査員を務める顧問の先生と他の部員たちに合図を送る。
 金沢先輩がドラムスティックでカウントをいれると、僕らはタテの線カッチリ――すなわち、四人のリズムがピッタリ合った最高の滑り出しで演奏を始めた。
 曲はオリジナル曲……ではなく、オーディエンスへのウケを狙ったコピー曲。
 練習量は十分だった。難易度の高い曲ではないので、完成度も申し分ない。
 ただ、何か違和感がある。
 その正体がわからないまま、曲はサビを迎えた。
 最近の曲というのは、サビに歌メロディの最高音がくるように作られることが多い。
 いま演奏しているこの曲もその例に漏れない。そしてその歌メロディが最高音に差し掛かったとき、僕の感じていた違和は確信に変わった。
 ――ボーカルの陽菜世先輩が、明らかに苦しそうに歌っていたのだ。
 なんのことなく歌えていた音程が、段々と出なくなっていた。
 それは今日に限って喉を痛めたとか、練習のしすぎて声を枯らしてしまったとか、そういう問題ではない。
 ただ単純に、陽菜世先輩の命の灯火が少しずつ消えかけているのだと、僕は理解した。
 こればかりは誰もどうすることはできない。
 ただただ弱り果てていく陽菜世先輩の姿を、僕はずっと見ていることしかできないのだ。
 そんな考えが頭をよぎったその瞬間、集中力が途切れて派手にミスをしてしまった。
 僕はミスを取り繕おうと慌ててしまう。ここで下手なことをしてオーディションにまで落ちてしまったら、陽菜世先輩に合わせる顔がない。
 演奏は終盤に差し掛かる。幸いなことに、ドラムの金沢先輩、ベースの凛がしっかりバンドサウンドの屋台骨を支えてくれているおかげで、僕はミスしたところから大怪我をせずに済んだ。これくらいなら、文化祭のオーディションくらいは受かるだろう。
「――ありがとうございました」
 演奏を終えて、陽菜世先輩が皆へ感謝の挨拶をする。
 直後、彼女は僕の方を向いた。その表情は、どこか申し訳なさそうな、それでいて寂しそうなものだった。
 今までにないくらい儚くて、消えてしまいそうな陽菜世先輩。
 余命が迫ってくるという運命は避けられない。ならばせめて陽菜世先輩の何か大切なものを僕の手元に残しておけないだろうか。
 そんな愁情みたいなものに浸っていると、突然あることを思いついた。
 我ながら少し病的というか、かなり悪趣味なアイデアだと思う。でもそれ以外に、いずれ消えてしまう陽菜世先輩を僕の手元に置いておく方法が考えつかなかった。

 ※※※

「どうしたの? 急に『うちに来てください!』なんて言い出して」
「いや……まあ、ちょっと僕からのお願いというか、わがままを一つ聞いてくれないかなと思いまして……」
 翌日の放課後。僕は陽菜世先輩を自宅へ呼んだ。
 昨日の彼女のあの姿を見てしまい、今すぐにでも実行しなければならないと気がはやっていた。
「な、なに? お願いって……? ハル、変なこと言わないよね?」
「そう言われると……ちょっとおかしな事かもしれません」
「ちょ、ちょっと待って、この間はうちに誰もいなかったし雰囲気もあったからなんか成り行きでそうなっちゃったけど……今日はほら、ハルの家、他に人が……」
 珍しく恥じらいを見せる陽菜世先輩。
 そのワードチョイスといい、歯切れの悪さといい、彼女は何か勘違いをしているかもしれない。
「……あの、先輩? 何か僕の想像と違うことを考えてません?」
「ど、どういうこと? ハルがわざわざ部屋に呼んだってことは、とっても大きなイベントがあるんじゃ……?」
 ステージの上では全く緊張する素振りなど見せない陽菜世先輩がとてつもなくオロオロしている。
 それを見てやっぱり彼女は勘違いをしているなと僕は確信し、ひとつ大きくため息をついた。
「多分ですけど、先輩の考えていることは起こらないと思います。念の為、先に言っておきますけど、『そういうこと』ではないです」
「な、なんだあ……びっくりした。急にハルが積極的になったのかと思っちゃった。心の準備くらいさせてよね」
「僕が先輩にお願いしたいのはこれです」
 僕の指差す先には電話ボックスみたいなサイズの防音ブース。自室でのレコーディングをするため、ネットで検索して材料を集めて自作した。
 その中には一本のコンデンサマイクが設置してある。声を録音するために昨日僕がセッティングしたものだ。
「すっごいね、これ全部ハルが作ったの?」
「はい……まあ」
「めちゃくちゃ本格的……! んで、これで何をするの? 私が何か歌えばいいの?」
「ええっと、歌うというよりは、先輩の声が欲しいというか……」
 うまく説明するための言葉が見つからなくて、僕は髪の毛をかきむしる。
 こういうことはきちんと説明するところまで段取りしておくべきだった。ただでさえ口下手なのだから、そういうところはしっかりしておかないと。
 前置きは長くなりそうだが、きちんと順序立てて経緯を説明しようと僕は言葉を選び始めた。
「……昨日の先輩の歌声を聞いて、ちょっと思ったんです」
 すると、陽菜世先輩が気まずそうな表情をする。彼女なりに、やってしまったなという感覚があるのだろう。
「ああ……ごめんね、思ったより上手く歌えてなくて自分でもびっくりしちゃった。オーディションには受かったから良かったけど、練習不足だよね。本番までにはなんとかするから」
「いえ、多分そうではないんです。先輩はちゃんと努力のできる人なので、手を抜いたからああなったわけではない……と、僕は思っています」
「……そっか、やっぱりそう思うよね」
「はい。……だからあの歌声を聴いているうちに、なんだか先輩がどんどん消えていっちゃいそうな気がしてきて……それで今日、ここに呼んだんです」
「私が歌えなくなる前に、歌声を録音して保存しておこうってこと?」
「いえ、それもちょっと違うんです」
 そう言われた陽菜世先輩は、一体僕が何を言っているのか理解が追いつかない不思議な顔をしていた。
 無理もない。僕がやろうとしていることは、もっと途方もないことだから。
「僕は陽菜世先輩の『声』自体を保存したいなと思っているんです」
「私の……『声』?」
「そうです。先輩が発声するあらゆる音――たとえば、『あ』『い』『う』『え』『お』をはじめとした五十音とか、ちょっと英語っぽい発音とか、そういう一音一音を全部記録して保存したいなと」
「そ、それは……やりすぎじゃない?」
「最初はそう思いました。先輩の言う通り、何曲か歌ってもらってそれを録音することも考えました。でもそれじゃ、陽菜世先輩はその曲の中にしかいなくて、どんどん色褪せて行く気がして……」
 僕が思いついたのは、いわゆる『サンプリング』という手法だ。
 一音一音の元データがあれば、その音程や長さを調整して、人工的に先輩を歌わせることができる。
 原始的なボーカロイドみたいな途方に暮れてしまう方法なのだが、この先消えていくだけの先輩の声を残して、それを活かすためには、この方法しかないと僕は思ったのだ。
「……先輩は僕にたくさんのものをくれました。そんな大切な人のことを、絶対に忘れたくなくて……先輩がいなくなったとしても、僕の元で歌ってほしいっていう、ただのわがままなんですけど……」
 情けないことに、喋っている間に感情が高ぶってきて、涙が出てきてしまっていた。
 最高にカッコ悪い。気色悪いことを言っている自覚もある。いくら陽菜世先輩でも、これは受け入れてもらえないだろうと、僕は諦めかけていた。
「……うん、いいよ。やろうよそれ、ちょっと大変そうだけど、やるなら今しかないよね」
「えっ……いいんですか……?」
「いいに決まってるじゃん。これってつまり、私が死んでも私の声で歌わせることができるってことだよね? それってすごくない? 実質的に私死んでないじゃん」
「そ……それはちょっと語弊があるかもしれないですけど」
「ちょっと前に私言ったじゃん、生きているうちになにか残したいって。歌を残す発想はあったけど、まさか声を残すとはねー。ハルがいなきゃ思いつかなかったかも」
「じゃ、じゃあ、協力してくれるんですね……!」
「もちろん。でも、なんだかかなり大変そうだから、今日一日じゃちょっと無理だよね」
「そ、そうですね……」
「というわけで、今日から毎日ハルの家に通うってことでよろしく。放課後と休日を使えばなんとかなるでしょ」
「……はい! じゃ、じゃあ早速やりましょう!」
 突拍子のない発想を受け入れてもらうことができたということで、僕は舞い上がってしまっていた。
 柄にもなくはしゃぐ僕を見て、陽菜世先輩は軽く僕の頭を叩く。
「……ハル、ちゃんと記録した私の声で曲を作ってくれる?」
「もちろんです。作りますよ、いくらでも先輩のためなら」
「……そっか、じゃあ楽しみにしてる」
 儚げに陽菜世先輩は笑みを浮かべる。
 楽しみにしているとは言うものの、それが出来上がるとき彼女は多分この世にいない。
 これがいいことなのか悪いことなのか全然わからないけれど、やらないことで後悔をしてしまうことが僕は怖かった。だから先輩の生きた証を、全力で残そうと僕は躍起になった。