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「タツ、ちゃんとって何?」
「いきなり何だよ。焼きそばパン人から奪っといて」
「やー、なんかさ、ちゃんとしようと思ったんだよ。俺」

 騒がしい昼休みの教室の片隅。タツから譲ってもらった(じゃんけんで俺が勝っただけ)食べかけの焼きそばパンを差し出すと、全力で拒否された。こういうの、貴臣は普通に食べると思う。そんでうまいねとか笑って、笑って、――俺の重症度が増している気がした。

 考えるのをやめて、パンにかじりつく。貴臣は朝からいろんな人に声をかけられて、昼休みも席に戻ってきそうにない。おかげで今日はあんまり話せていない。正確には今日も、だけど。

 顔を見れば好きだと思ってしまって、気まずくてとても長い時間一緒にいられない。

「お前にちゃんとを求めるやつとかいんの? あ、芹澤(せりざわ)か。真面目だもんな。あれ誰と話してんの?」
「知らねぇ。けど、お昼は他で食べるって言ってた」

 教室の扉の辺りで調理部の人と楽しげに話す貴臣の横顔。ああやって、貴臣は俺以外もたくさんの友達がいる。タツと貴臣だけとつるむ俺とは違う。広い世界で生きている人だ。

「はーん、芹澤はお前がちゃんとしてなくて愛想つかしたってわけか」

 ついに赤点だったもんなぁ。タツからにやりと小突かれて、俺は「うるせぇよ」と笑い返した。

「貴臣からちゃんとしろって言われたことない。あいつもああ見えてすごい真面目ってほどでもねぇし。俺が自分でちゃんとしたかっただけ」
「なるほど、よくわからん」
「だな。言ってて俺もわかんなくなってきた。ちゃんとしようと思いすぎて、逆に忘れられないっつーか、目が追いかけるっつーか……そんな感じ」
「何の話? 恋バナ?」
「俺がダメすぎる話」

 訝し気な顔で首を傾げるタツ。その表情になるのも仕方がない。全容を話すわけにはいかなくて、たとえ話も浮かばないものだからそのまま抽象的な話になってしまう。さすがにタツと言えど、幼なじみを好きになってしまったなんて言えなかった。

 この1週間を思い返すと、絶望しかない。うまくやろうとして空回った挙句、避けている本人に悟られて、逆に貴臣から避けられている。最悪だ。

 貴臣がうちに来なくなって、学校でも距離ができた。俺の感情が落ち着くまではこのほうがいいと思いつつ、ぽっかり開いた穴が埋められずにいた。

「早いとこ、謝っとけよ。どうせお前が何かやらかしたんだろ。芹澤のこと怒らせるなんて何したんだよお前」
「何で?」

 ぱっと顔を上げると、タツはうーんと唸りながらおにぎりを口に運んだ。そんなにわかりやすいのか。

 タツが飲み込むのをそわそわして待った。心臓が嫌な感じで脈打っている。まさか傍から見ても貴臣が好きだってわかるほどじゃないよな。さすがにそれが本人にバレて避けられてるんだとしたら、もうどうしようもない。

「何か言いたそうに芹澤のこと見てるくせに声かけないから、何なんだこいつって思ってた。喧嘩したなら、さっさと何とかしたほうがいいだろ」
「タツにもわかるくらい見てんのかよ」
「すっげー、見てる。おれが芹澤でも確実に気づくな」
「もっと早く言ってくれよ、それを……」

 俺は焼きそばパンのごみを手の中でぐしゃぐしゃに丸めて、机に雪崩れ込む。そんな態度で1週間過ごしてたのか。全然気づかなかった。

「まあ、芹澤とは話したけどな。わざとほっといてるって言うから、おれも合わせてほっといた」
「は? え、あ、貴臣と話したの。俺にじゃなくて?」
「うん。本人に聞いたほうが面白いじゃん。そしたら、芹澤はお前がそんな様子なの結構嬉しそうだったし、悪そうな顔してたからいいかーって。今お前にも言ったから、あとはお前らで話して」

 まったくさぁ、とタツがため息を吐く。

「人のこと仲介役に使うなっての。わかった?」と、問答無用と言った笑顔を見せられ、俺はうなずく他なかった。

 嬉しそうって、悪そうな顔って何だよ。俺が話しかけようとしてるのわかってて、何でそうなるんだ。

「え。タツ、どういうこと?」
「おれが知るわけないだろ。黒髪スーツで反省しに来いってことじゃね」
「いくら何でも雑すぎてひどい」
「よくある反省言ってみただけ。ほんとにやったら動画回しといて」

 レッドブラウンの毛先を触って、首を傾げる。形から入る反省って大事かな。そもそも何の反省かわかんねぇけど。

「俺が黒髪とか似合うと思う?」
「バカ、本気にすんな。素直に本人に聞けばいいだろ」

 食べ終えたタツが俺の手からごみを取る。席を立ったかと思えば「頑張れよ」と言って、行ってしまった。

 今の俺の頭上にはたぶん、はてなが3つくらい並んでいる。俺ががんばってどうにかなることなんだろうか。それなら、少しはがんばるべきなのかもしれない。

 ひとまず、放課後になったら貴臣に声をかけてみようと決めた。このままにはしたくない。


 ――放課後になった途端、すぐに貴臣が教室からいなくなってしまって、声をかけるチャンスを逃してしまった。教室を出る前に名前を呼んだのに、聞こえないふりをされた気がする。

 いよいよ本気で怒らせたんじゃないかと不安に駆られたが「なんかすげぇ急いでたから気のせいじゃね?」と、呑気なタツの言葉に励まされた。放課後の教室は、どんどん人が減って静けさを取り戻していく。

「そうだよな。さすがに気のせい……」
「無視されてても、さすがに目の前に立てば話してくれんだろ」
「無視されてんのかよ。タツも一緒に来て助けてくれ。なんかおごるから」
「痴話喧嘩の間に入ることほどアホなことはない。いいから、さっさと行け。おれ部活あんだよ」

 あご先で教室の外を指して「泣かされてこい」とクスクス笑われた。俺はしょぼくれたまま教室を後にする。

 好きだって気づかれたくないけど、嫌われたくもない。貴臣の隣を誰かに譲るのだってごめんだ。

 電車に揺られている間も色んな考えがあれこれかけ巡って、のろのろと家にたどり着くまでに気分はどん底まで落ちていた。

 うちで一休みしたら、貴臣の家に行こう。何であっても避けていたのは事実で、そこは俺が悪いんだから腹をくくるしかない。

「ただいまー」

 ドアを開けるとふわりと甘い、チョコレートの香りがした。母さんかな。

 スニーカーを脱ぎながら「なんか作ってんのー?」と声を張り上げて、リビングにいるであろう誰かしらに話しかける。

「ガトーショコラ作ってる。雪斗も食うだろ?」
「えっ!?」

 ガタタン! っと音を立てて、うっかり玄関から転げ落ちてしまった。俺はぶつけた肘を押さえながら、貴臣を見上げる。ぱちくりとのぞく切れ長の瞳が、見開かれて真ん丸になっていた。

 こうやって声をかけてくれるってことは、さっきのは本当にただ気づかれてなかっただけなのか。

 拍子抜けした俺は思わず笑ってしまった。まだ心の準備もできてなかったのに、これから会いに行こうとしてた相手がうちにいるとは思ってもみなかった。

「大丈夫か?」
「あー、ごめん。大丈夫だから気にすんな」

 突然笑い出した俺に貴臣は不安そうに眉を寄せる。そりゃそうだろう。1人で転げ落ちて1人で笑ってるんだから、意味不明に決まってる。

 俺からすれば、俺より先にうちにいてエプロン姿の貴臣が意味不明だ。何でその格好でうちにいるんだ。

「散々悩んでたの、アホらしくなってきた」

 膝に額をつけて、独り言ちる。はーと息を吐いて立ち上がろうとすると「ん」と、貴臣から手を差し出された。その手を遠慮なくつかんで、引き上げてもらう。

 貴臣がほっとしたような顔をしたのを見て、胸がぎゅっと苦しくなった。俺の態度のせいで、手を取ってもらえないと思わせていたのかもしれない。

「まったく、雪斗は危なっかしいな」
「悪い悪い。家に貴臣いると思ってなかったから」
「おばさん、買い物に出てる。俺も一旦戻るつもりだったんだけど、雪斗がカギ持ってってないって聞いて俺が待ってた」
「確かに。今朝家出た後、鍵忘れたなと思ったんだよ。ありがと」
「だろ。今日、オーブン借りる約束してたから急いで帰ったんだけど間に合ってよかった」
「知らなかった。言ってくれれば、」

 よかったのに、までは言えずに俺は口をつぐんだ。俺が貴臣を避けていたことを知っているんだから、こんな話をするのは不自然だ。うちにいるとメッセージを送ったら俺が帰って来ないとでも思ったんだろう。

 リビングへ一緒に行って、俺はソファに腰を下ろす。ずっと甘い香りが漂っている。貴臣はキッチンへ戻って、作業を再開したらしかった。

 スマホを触るふりをしながら、そっと様子を見る。貴臣が髪の毛を耳にかければ、きらりと光るピアスが目についた。あれは俺がこの前の誕生日にあげたものだ。

 やっぱ、好きだなあ。その気持ちが自然と浮かんできてしまう。たぶんこれは、気づいてしまった以上はもうどうにもならない。なかったことにするのは無理だ。

 隠す方向性でいけたら一番いいのかもしれない。隠し通して、墓場まで持って行けたら。俺にはまず、相当な覚悟が必要なことへの覚悟から必要だけど、これから先も貴臣と一緒にいるにはそれしかなさそうだ。

「雪斗」と、下を向いたままの貴臣に呼ばれて返事をする。

「何?」
「見すぎだろ。そんなに見られても、まだ作ってる途中だから」
「ははっ、バレてた。味見要員が必要なときは呼んでくれよ」
「まだもうちょっとかかるな。先にこれ飲んどく? おばさんが作ってくれて、さっきも飲んでた」
「あー、それレモネードだろ。最近ハマって、そればっか作ってんだよ」

 腰を上げて、俺もキッチンの中へ入っていく。普段から使っていて広さを把握しているはずなのに、思った以上に狭く感じられた。貴臣との距離が近い。意識すると、緩んだはずの緊張感が向こうから迫ってくる。

「炭酸もあるからって言ってたから、いるなら冷蔵庫開けてとって」
「おー、俺はそうしよっかな。貴臣は?」
「いらない」
「おー」

 ぎこちない動きになりながらも、冷蔵庫を開けて炭酸水を取り出した。冷気が火照りそうな頭を覚ましてくれる。このタイミングで避けてたことを謝るべき?

 それとも、タツから聞いたってことで話し始めるか。何を言うのがいいか、この小さな頭の中身はすでに許容量を超えていた。ぐるぐる脳内で飛び交うものを何もつかめず、炭酸水を受け取り俺の分まで準備してくれる貴臣を見つめるしかできなかった。しゅわしゅわ弾ける音が聞こえる。

「はい、これ雪斗の」
「ありがとう」

 一気に流し込むと舌がしびれそうなほど強めの炭酸にやられてしまった。なるべく貴臣から視線を外しつつ、ちびちび口をつける。

 気まずさを感じているのはもう俺だけらしい。貴臣は「手作りのレモネードってめっちゃうまいよな」とか「ガトーショコラ食べたら余計甘く感じそう」とか、楽しげにしゃべっている。俺はそのどれにも曖昧な反応を返すだけ。自分の部屋に引きこもりたい。

「でさぁ、雪斗」
「んー?」

 ソファに戻ろうと一歩踏み込んだと同時に、貴臣から肩を叩かれた。逃げようとしているのを見透かされたみたいだった。

「気になるから訊くけど」
「え、何」
「俺のこと好きなの?」
「――は?」

 危うく持っていたグラスを落としそうになった。俺の手よりも先に焦った貴臣の手が俺のグラスの底を支えてくれる。そのまま近くへ置いてくれた。今、何て言われた?

 戻ってきた貴臣はふふっと笑って「危ないな」と呟いた。いや、そこじゃねぇだろ。

 半開きの俺の唇からは、何も言葉が出てこない。どうする? どうすればいい? 俺はなんて答えるのが正解なんだ。

「俺のこと、嫌いになった?」

 貴臣の落ち着いた声の中にどこかさみしさを感じられて、ぐっと俺に突き刺さる。

「そんなの……っ、なるわけねぇだろ」
「うん、そうだろうと思ったけど一応。じゃあ、俺のこと好きでもない?」

 どうかな。と付け加えた貴臣の表情を見て、ぜんぶわかってて訊いてきているんだと理解した。素知らぬ顔で口の端を上げているくせして「避けられるようなことしたか悩んでた」と、嘘を抜かしてくる。

 ぶわっと血液が沸騰したんじゃないかってくらいの熱を持って、俺の顔に集中した。顔から火が出てもおかしくない。いっそ燃えて、何も見えなくなりたかった。

 なんて現実から逃げても無駄だ。もう貴臣にはバレてる。これはわかってる顔だって、俺にはわかる。絶対、確実に俺の気持ちを知った上でからかわれてるんだ。ぎゅっと握りしめた手が少しだけ震えた。

「……す、きだよ。普通に、大事な幼なじみだし」
「そういうんじゃなくて、ちゃんと好きか訊いてる」

 真っすぐ射貫くような目と合わせられなくて、揺らいでしまう。貴臣が俺の答えを待っているのだとわかっていても、はっきり言葉にするのは怖かった。息を吸って、口を開く。

 墓場まで持って行く覚悟をするまでもなく、終わってしまった。

「貴臣が、好きだ……って、思ってる」

 自信のなさが表れて、しぼんだ声になってしまった。

「うん、よかった。言ってくれてありがとう」

 くしゃっと頭を撫でられて、力強く引き寄せられる。この展開を考え付いたことはなくて、視線が目の前に広がる貴臣のエプロンの上をいったりきたりする。

 俺が好きでいるのは構わないと思ってくれてる? このまま好きでいても、いいってことなのか。

「やっと、好きになってくれた」
「え、どういうこと?」
「さあ、どういうことだろう」

 貴臣は流すようないい加減な答え方をした。こっちは真面目に訊いてるんだから答えてほしい。

「雪斗にわかるのかなぁ」
「ああ、そうかよ」

 バカにしやがって。と、不機嫌になる俺を貴臣はたいそう満足げに微笑んで見つめてる。そのまま顔を近づけてくるものだから思わずぎゅっと目を閉じると、唇に重なった感触が一瞬だけあった。

 目を開ければ「もうすぐ焼きあがるから座って待ってて」と、何てことなかったかのようにオーブンを確認しに行く貴臣。待て待て、待て! 今のは!?

「え、おま、貴臣……えっ、俺のこと好きなの?」
「ばーか。気づくのが遅いんだよ。俺はわかりやすかっただろ」
「はあ!? 何だよそれ。早く言えよ。全然わかんねぇよ」

 貴臣から好きだって先に言われてたら、俺だってこんな時間がかかることもなかったのに。体の力が抜けていく。安堵と喜びがないまぜになって、ちょっと疲れた。

「言うわけないだろ。雪斗が早く言って来いよ。1週間かかるとか長すぎてありえない」

 意味がわからない。自分だって言わなかったくせして悪いの俺かよ。

 その場で頭を抱えてしゃがみ込む。何だよこれ。俺の今までの悩みはいったい!?

「俺が貴臣のこと好きで避けてるって、すぐ気づいた?」
「当たり前だろ。だてに長年幼なじみやってないからな。雪斗の気持ちに整理つくまでは待とうと思ったけど、俺のほうが限界だった。もう待てなかったなぁ」

 ははは、と爽やかに笑う貴臣にものすごくいらっとした。完全に手のひらで転がされた!

 レモンスカッシュを飲んで落ち着こうとグラスに口をつけて、さっき貴臣に触れられた感覚を思い出す。簡単にやったことじゃ、ねぇよな。

 部屋に引き返して頭を抱えたいのを堪えて、唇を押さえる。貴臣はそんな俺を「そこ危ないし邪魔だよ」と邪険に扱った。仮にも俺のこと好きでやっと両想いだってわかったんなら、もっと何かないのかよ!

 いまいち釈然としない。俺が好きを自覚した後の反応を見て楽しむなんて悪趣味だ。でも、そういうやつなんだよなあ、貴臣は。俺が一番よく知ってる。今さらながらに幼なじみの人間性をしみじみ振り返った。

 ひょうひょうとした横顔を見て、悔しいほどに好きだなと思う。この感情を、貴臣はどのくらい持っていたんだろう。

「すぐに言わないで、俺のこと待っててくれたんだよな。ありがとう」
「……まあね、どういたしまして」

 おどけてみせる貴臣に、胸が痛んだ。

 貴臣のほうが先に俺を好きだったとすると、その間ずっと貴臣はここ最近の俺みたいに悩んでいたということだ。俺は1週間、たいした時間じゃなかった。貴臣はそれより長く、自分の気持ちを押し殺してそばにいてくれたんだ。それこそ墓場まで持っていくつもりだったのかもしれない。

 俺が疑うこともないくらいに自然で、いつも通りでいられるよう努力をしてくれていた。どれほど自分が大事にされていたかを思い知った。気づかなかったなんて、俺はバカだ。

「貴臣って、やっぱかっこいいよな」

 不意打ちだったのか、優雅にレモネードを飲んでいる最中だった貴臣が思いっきりむせた。慌てて俺はその背中をぽんぽん叩く。

「ごめん、そんなつもりじゃ……」
「何だよ急に」
「いや、昔も今も自慢の幼なじみだよなあって思っただけ」
「当然だろ」

 口元を拭った貴臣は、小馬鹿にしたように笑って「身近に馬鹿のお手本がいるしな」と毒づいた。今の俺にはそれが痛いほど刺さって、言い返せない。

 オーブンから終わりを知らせる音が鳴った。

 邪魔だと言われたけど、近くにいたくてそのまま隣でガトーショコラのできあがりを眺める。どうやら見た目は貴臣の納得のいくものになったらしい。表面がざっくりと割れているそれを見て、貴臣が大きくうなずいた。

「まだ熱いけど、食べてみる?」
「食べる。やった、貴臣のガトーショコラ久々だ」
「雪斗の部屋で食べよう。皿とって」
「りょーかい!」

 貴臣を手伝って準備をして、俺の部屋で腰を下ろす。小さなテーブルを挟んで2人。いつもの場所だ。まして俺の部屋なのに、指先が冷えていくような感覚があった。どきどきして、ガトーショコラをせんぶ食べきれる自信がない。

 せっかく貴臣が作ってくれたものを食べないなんて、そんなわけにはいかない。いただきますと声を揃えて、ガトーショコラにフォークを入れる。

「やば、うまこれ! 貴臣、すげー天才!」

 味はわかるし、最高だし、だけどやっぱり胸がいっぱいだった。フォークを置いて、貴臣を見る。残りはあとで食べさせてもらうことにしよう。

「うん、味もうまくいった。雪斗、これ好きだよなーって思ったから作るかって、なって、」

 言いつつ、ほんのり頬が色づいていく貴臣。どうしたんだろう。気になってそのまま凝視していると、貴臣は「遅れてきた」と口元を手で覆った。耳朶まで赤くなるのは珍しい。

 何だ、浮かれてるのは俺だけじゃないのか。貴臣の顔を見ようと手を剥がそうとするも、なかなか力強かった。

「顔、見せてくれてもいいだろ」
「……っ、るさい。死んでも嫌だ」

 隠すように腕でガードされてしまって、貴臣の表情がわからなくなってしまった。こんな貴臣は生まれて初めてだ。

 こういう貴臣もいいものだなあ、とのんびり考えていると、

「雪斗、歯食いしばれよ」
「え? え、何でだよ。何で!?」

 拳を振り上げた貴臣に迫られて、俺は狭い部屋の中を必死に逃げる。いくらからかったからって、理不尽すぎる!

 壁まで追い詰められて、観念した俺が目を閉じると「ばーか」と貴臣が囁いた。目を開けようとすると、がっとネクタイを引っ張られてバランスを崩す。

「わっ、バカはお前だ。危ないから!」

 両目は貴臣の手で遮られてしまった。べちっとぶつかって、ちょっと痛い。そのまま戻され、背中が壁についた。何なんだ、もう。

 やられっぱなしの俺がさぞかし面白いのだろう。クツクツ笑う貴臣に俺はお手上げ状態だった。貴臣が楽しそうなら、いいか。いいのか?

 いつまで貴臣の手はこのままなんだろう。外そうとするくらいのことはしたほうがいいんだろうか。だらんと下ろしたままの自分の手をどうすべきか迷ってしまう。

「貴臣?」

 あまりにも貴臣が動く気配がないので声をかける。唇にちょんと何かが触れたかと思えば、啄まれた。もう一度重なって、俺は慌てて貴臣の手をどかす。
 
「ちょっ、とま、止まれ。そんながっついてこなくてもいいだろ!?」
「別に普通だろ」
「俺には普通じゃない! 心臓に悪い! 死んだらどうするんだよ」

 けろりとした顔で「それは悪かったな」と貴臣が言った。全然悪いと思ってない!

 心臓が耳元で鳴っているんじゃないかってくらいにうるさかった。顔が熱すぎて、くらくらする。

「じゃあ、雪斗の心臓がどこまでいけるか試すか」
「実験すんなよ! 心の準備くらいさせろよ、頼むから」

 寿命が縮んだら困るだろ。もう縮んでるかもしれない。両手で顔を覆って、俺はため息をつきながらへたり込んだ。もうやだこの人。

 貴臣のことは一番知ってるつもりだったけど、まだまだ俺の知らない貴臣がたくさんあるらしい。それをこれから見られるのは、楽しみかもしれない。ちょっとだけ。

「俺と付き合うからには覚悟して」
「えー……、あの、お手柔らかにお願いします」

 墓場までの覚悟とは別の覚悟が必要そうだ。

「まあ、気長に付き合うよ」
「それはそれで怖すぎる」

 ひぇ、と情けない声を出すと、貴臣の艶めく唇が弧を描いた。長く付き合うつもりでいてくれてるのを喜んでいいのか怖がったらいいのか、わからない。

「よし、とりあえずちょっと冷めたやつ食べよう。雪斗はもう食欲戻った?」

「あ、戻った」と答えてはたと気づく。一言も言ってないのに、バレてたのか。食欲がなくて食べれないわけじゃなかったけど、もうすっかり持っていた緊張感がどこかへ行ってしまっていた。

 緊張の飛ばし方おかしくねぇか。絶対それだけじゃなくて、貴臣のやりたいようにされたのもあるだろうけど、そこは飲み込むことにした。貴臣も舞い上がってるのは何となく伝わる。

「はー、貴臣って怖い」
「何でだよ、今のは褒められるとこだったろ」
「うん、すごいけど怖い。怖いけどすごい」
「怖いって言われるのは何か嫌だ」

 はいはいと軽い調子で流して、今度はガトーショコラを口いっぱいに頬張った。貴臣が作ってくれる中でも俺が一番好きなもの。

「ついてる。子供か」

 普段なら言われて終わりなのに、今日はとってくれた。付き合うとこういうことになるのか。俺に甘い貴臣、ぐっとくる。

 むずがゆいような気持ちをどう消化していいかわからず、テーブルに倒れ込んで、額がゴンとぶつかった。

「何やってんだよ雪斗、大丈夫か?」
「大丈夫じゃねぇ……」

 俺、これからも無事でいられんのかな。短い間だけでこんなんで、今からこの先が心配だ。慣れるといいけど、しばらく慣れたくない気もした。