コンクール当日。太陽が照りつける夏の空。朝から気温は三十度を超え、今日も汗ばむ日となった。

「ショウくん。お待たせ!」

 市内のコンサート会場前に、サヤカは現れた。白いワンピースを着て、紫のつぶらな瞳で僕の顔を覗き込んだ。

「あ……松谷さん。おはよ」

 僕がぎこちなく挨拶をすると、彼女はなぜかふくれっ面になる。

「ブブー。ダメでーす!」
「……は? なにが」
「名前で呼んでほしいの。なんか変な感じだから」
「えっと。サヤカ、さん」
「さん付けじゃなくて、呼び捨てにして!」
「……サ、サヤカ」

 なんだこれ。初めて交わした内容のはずなのに、なぜか僕は懐かしさを感じていた。
 サヤカは頷き「よくできました!」とご満悦だ。
 昨日出会ったばかり……いや、正確に言うと、再会したばかりなのに、彼女のペースにのまれている気がする。
 戸惑う僕の前で、サヤカはパンフレットを眺めながら「東高の出番はA編成の五番目だね!」「まだまだ時間あるよ」「早く聴きたいな~」なんて話している。

 外は暑いので、とりあえず中へ入って他校の演奏も聴いてみようということになった。
 入り口付近に向かって歩いていくと、会場周辺には何台ものトラックが並んでいた。それぞれの荷台から大型楽器を降ろす学生たちの姿。打楽器や金管楽器、コントラバスなど、声を掛け合いながら慎重に会場へと運んでいる。
 その中に、見覚えのある制服姿の集団がいた。
 東高の吹奏楽部だ。
 トラックがまだ到着していないのか、会場の端で何十人もの生徒たちが待機している。その中にはもちろん、知っている顔もあった。

「ユウト!」

 部活の仲間たちと一緒にいたユウトの姿を、僕はすぐに見つける。向こうも僕の声に気がつき、手を振りながら近づいてきた。

「ショウジ! うわあ、久しぶりだな! 体は大丈夫なのかっ!?」
「全然平気だよ」
「そうか……よかったなあ……! 事故に遭って入院したって聞いたときは、生きた心地がしなかったぞ……!」

 ユウトは声を震わせながら、ニッと笑った。それから、サヤカに視線を向けてこんなことを言った。

「サヤカちゃん。ショウジを連れてきてくれてありがとな」
「ううん。いいの。私もショウくんと一緒に来たかったから」

 二人のやり取りを見て、僕の胸が熱くなった。なんでこんな気持ちになっているのかは、理由はわからない。

「よし。今日はショウジとサヤカちゃんが来てくれたわけだし、気合い入れていくぜ! 必ず金賞取ってやる!」
「ふふふ。楽しみにしてるね」
「絶対、二人を県大会に連れてってやるからな」

 僕とサヤカが二人で応援に来たことに、ユウトは心から喜んでくれているようだ。相変わらずテンションの高いユウトを見て、僕は自然と笑みがこぼれる。

「頑張ってな、ユウト」

 僕の言葉に、ユウトは大きく頷いた。


 ──その後、僕とサヤカは会場に入り、前方の観客席に並んで座った。
 一校目はすでに演奏が終わっていた。僕たちは二校目から聴く。迫力のある曲で、部員たちは堂々と演奏をしていた。三校目は、ジャズとオーケストラが融合したような曲で、とても斬新な雰囲気だった。それから四校目と続き、どの高校もこれまで練習してきた成果をステージ上で存分に披露していた。
 そして、五校目。東高吹奏楽部の出番が来た。
 ステージに姿を現した部員たちは、楽器を手にして素早く位置につく。みな、真剣な面持ちをしていた。
 もちろん、ユウトも例外ではない。目つきが本気になっている。普段チャラけているユウトとはまるで別人だ。

 指揮者の合図で、東高吹奏楽部の演奏が静かにスタートした。
 ユウトが、オーシャンドラムの音を響かせることから曲ははじまる。
 目を閉じれば、遠くの方から波の音が聞こえてきた。その波に乗るように、トランペットがまったりとしたメロディを奏で、その隣で鐘の音が海を越えて響き渡った。
 演奏がはじまってすぐに、僕は海の世界へ誘われた。
 なんて不思議な感覚なのだろう。僕は、未だに本物の海を見たことがないのに、情景が自然と浮かんでくるんだ。

 そして、序盤の静かなる海の景色から一変。曲は壮大な海の旅に出るかのように勢いを増した。
 管楽器たちの重圧なメロディ。リズミカルなパーカッションの演奏。
 海の先には水平線が描かれ、太陽が青空を輝かせている。
 演奏を聴いているだけなのに、それらの景色が次々と頭の中で流れるんだ。

 やがて曲は中盤に差し掛かり──再び静寂が訪れた。
 クラリネットの、ソロパートだ。
 クリアな海を、浮遊している気分になる。クラリネットの柔らかい音色とともに、海の中から鯨の歌声が聞こえてきた。
 クラリネットソロを吹いているのは、僕が知らない人。けれど──ふと、君の姿が脳裏をよぎった。
 名前も、顔も、声も。なにもかも僕は忘れてしまった。小さい頃から僕は君を見ていたのに。
 意図せず、一粒の涙が頬を伝う。
 海の歌を奏でる君のクラリネットの歌声を、僕はもう二度と聴くことはできない。
 どれだけ同じメロディを聴いても、想像しても、そこにいるのは君じゃない。 
 生きているかぎり、僕は思い出を心にしまい続けるしかないのだから──

「ねえ、ショウくん」
「なに?」
「今度一緒に、海を見にいかない?」

 サヤカは僕の顔を見つめながら、そう言った。
 僕の答えはもちろん。

「ああ、見に行こう」


 ──その日の東高校の演奏は、最高のものとなった。
 ユウトは満足げな表情を浮かべ、他の部員たちも晴れやかな顔でステージに立っていた。
 演奏が終わると、拍手喝采が巻き起こる。
 ユウトは、東高吹奏楽部の部員として、僕たち二人に宣言した言葉を現実のものとした。