アサカの墓は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。塵も蜘蛛の巣もなく、よく手入れされている。
 菊の花を供え、僕は線香を上げてから手を合わせる。目を閉じて、心の中でアサカに語りかけた。

 ──どう言ったらいいのかな。僕は、君を覚えていないんだけど、どういうわけか、ここに来てから胸が締めつけられる想いに駆られている。
 本当に君は、この世にいないんだ。そう実感してしまって。
 事故に遭ったあの日、君は命を懸けて僕たちを守ってくれたんだよね。本当は三人一緒に生き延びれたら一番よかったのに。
 だけど僕がそんな風に考えていたら、君は怒るだろう。あの状況下で、全員が生き残るなんて奇跡でも起きない限り無理だよって。
 だから僕は、悲観したりしない。ただ君に「ありがとう」の気持ちを伝えたい。
 同時に、ここでもう一度心に決めよう。君が守ってくれたこの命を、大切にするって。君との過去を思い出せない代わりに、精一杯生きていくことを約束しよう──

 ゆっくりと、瞳を開く。
 僕と墓の間に、夏の風が吹いた。この暑さを、ほんの少しだけ和らげてくれる優しい風。

「また、お盆に来るよ」

 そう言い残し、僕は立ち上がった。
 母さんがタクシーで待ってくれている。早く戻らなきゃ。
 踵を返し、僕が歩き出そうとした、そのときだ。
 僕が来た道から、一人の少女が現れたんだ。

「……あれは」

 彼女は、白い半袖のワイシャツに首から青色のリボンを下げ、グレーのスカートを穿いている。東高の制服だ。
 彼女の瞳は──紫色に染まっていた。
 バッチリ僕と目が合うと、彼女は「あっ」と小さく声を漏らす。
 戸惑ったような素振りを見せながらもこちらに歩み寄ってきて、僕と墓を交互に眺める。
 それから、静かに口を開いた。

「お姉ちゃんの……姉のお墓参りに来てくれたんですか?」
「えっ。そう、です」

 アサカのことをお姉ちゃんと言った。彼女は、アサカの妹か。ということは。

「サヤカさん、ですか」

 僕が問いかけると、彼女は驚く様子もなく頷いた。

「若宮くんだよね」
「ああ。そうだよ」
「入院してたって聞いたけど……大丈夫なの?」
「さっき退院してきたから」
「えっ。さっき?」

 彼女は目を見開いた。それから、じっと僕の瞳を覗き込んできた。
 ふわっとフルーティーな甘い香りがして、僕の胸がドキッとする。

「綺麗な瞳だね」
「え……そ、そうかな?」

 だったら、君も──と口にしようと思ったが、僕は寸前で言葉を呑み込んだ。
 ふっと微笑むと、彼女はアサカの墓の前に立つ。

「若宮くん、前に私のバイト先に来てくれたよね」
「え? そうだったっけ」
「うん。覚えてない、よね。……ごめんね。私も、若宮くんのこと忘れちゃったみたいで」

 堅くなりながら、彼女はそう言った。
 彼女の隣に立ち、僕は小さく首を横に振る。

「君と僕は、幼なじみだったらしい」
「うん。そうみたい」

 ぎこちない会話のキャッチボールの後、沈黙が流れた。
 僕らの周りには、セミたちが必死に鳴きわめく声だけが響く。

 僕はアサカのことだけじゃなく、サヤカのことも忘れてしまった。スマートフォンの中には、彼女の連絡先が登録されていて、いままでのやり取りが残されていた。
 入学式の日からサヤカと仲良くしていたらしく、放課後に二人で帰ったり、カフェに行ったり、僕が彼女の家にお邪魔したり、デートの約束をしていたが突然キャンセルされたり。また、彼女は黒い猫のろこを拾い、一人暮らしの家で育てていることや、マニーカフェでアルバイトをはじめたことまでもメッセージの履歴にあった。
 それらを見ても、僕はどうしても彼女とのやり取りを思い出せない。
 いま、この場所でたまたまサヤカと会って「ああ、彼女はこういう人なんだ」と思ったくらいだ。
 でも──さっきから、変なんだ。僕の心臓が早鐘を打っている。

 サヤカはおもむろに、アサカの墓に線香を上げ手を合わせる。しばらくしてから、再び口を開いた。

「私、お姉ちゃんのことも覚えてなかったの」

 寂しそうな、横顔。

「でもね、どういうわけかお姉ちゃんを想うと心が締めつけるんだ。お姉ちゃんが生きてたときの写真を見ると、なんだか懐かしい気持ちになるし。忘れてるはずなのに、胸が熱くなるんだよ」

 おかしいよね、なんて苦笑する彼女だけれど──僕は大きく首を横に振った。

「全然、おかしくない」

 僕も、同じなんだ。アサカのことを考えると切なくなる。それに、君を見た瞬間、胸が高まった。

「頭では思い出せなくても、心は忘れてない。僕たちの思い出は、ずっとここに残ってるよ」

 そう言いながら、僕は自分の胸に手を添えた。
 僕の言葉に、彼女はこちらを向いて満面の笑みを浮かべた。

「ね、若宮くん……ううん、ショウくん!」
「なに?」
「明日、時間ある?」
「どうして?」
「コンサート、観に行かない?」

 その誘いに、僕の心拍はさらに早くなる。

「コンサートって?」
「明日ね、吹奏楽部の地区大会があるんだよ。東高はA編成で出場するんだって。部員の子からチケット二枚もらったから、一緒に応援しに行かない? 自由曲は『吹奏楽の海の歌』だって」
「そうなんだ」

 考えるまでもない。僕の返事は決まっている。

 ──聴きに行こう。忘れてしまった、僕らの思い出の曲を。

 僕は、アサカの墓を眺めながら大きく頷いた。