目を覚ましてから、二ヶ月が経った。
 七月二十二日 朝九時。

 長い入院生活の中、毎日リハビリをこなし、だいぶ体を動かせるようになった。
 その間、僕は学校を休んでいた。このままでは単位を落とし、留学になりかねないのだが、担任や学年主任の先生の配慮により、来週から補習授業を受けることになった。夏休みは半分以上潰れてしまうが、補習と試験を受ければ単位をもらえる。
 休んでいた分、頑張らないといけない。むしろ配慮してもらえたことに感謝しよう。

 荷物をまとめ、僕は黙々と退院の準備をすすめる。
 そんなさなか、病室のドアがノックされた。
 振り向くとそこに──母さんがいた。
 いまでは母さんは車椅子に乗っていない。けれど、両足に軽い麻痺が残っているため装具をつけている。僕よりも先に二週間前に退院したが、リハビリはこれからも必要になるみたいだ。
 それでも、母さんは一切悲観したような素振りは見せない。
『生きてるだけで、もうけもの』
 退院時、そんなことを言っていたっけ。

「ショウジ、体の具合はどう?」
「うん。いい感じだよ」

 僕の答えに、母さんは嬉しそうに笑った。
 ボストンバッグに荷物を全て入れ、僕が持ち上げようとすると、母さんが隣に歩み寄ってきた。持ち手に触れ「わたしが持つ」なんて言うものだから、僕は慌てて首を横に振る。

「いいよ。僕が持つ」
「平気なの?」
「当たり前だろ。母さんに持たせるわけにはいかないし」

 ひょいとバッグを持ち上げ、僕は母さんに笑いかける。そんな僕を、母さんは優しい眼差しで見上げた。
 退院手続きも無事に終え、僕は母さんと並んで病室をあとにしようとした。
 そのときだった。

「若宮くん。退院おめでとう」 
「あ……白鳥先生」

 白衣姿の白鳥先生が、病室に颯爽と現れた。
 僕の瞳をじっと見つめながら先生は頷く。

「瞳の色も顔色もよいですね。リハビリもよく頑張りました。しかし、治療はこれからも続きます。今後も定期的に様子を見させてもらいますね」
「はい」

 ──ふと、思い出す。入院中に先生から説明してもらった【延命治療】についての内容を。
 僕は、奇病に罹っている。過去の記憶を忘れ、瞳の色は紫色に戻り、死は免れた。けれど、病気が治ったわけでもない。
 治療法が見つからない限り、この病気とは一生付き合っていく運命だ。生きるための治療は、これからも続く。頭痛だって、ふとしたときに襲ってくる。鎮痛薬と共に、延命のための薬も服用し続ける必要がある。
 それは、脳へのストレスを軽減させるためのもの。脳の萎縮を防ぐことが最も重要なのだと、白鳥先生から説明を受けた。
 この延命治療薬を、一度目の事故から僕はずっと服用していたんだ。

「なにか気になることがあれば、いつでも聞きます。奇病は、まだまだわからないことがたくさんある。けれどわたしは、これからも医者として君の力になります」
「ありがとうございます」

 僕は、先生に頭を下げた。隣で母さんも感謝の言葉を述べている。

 いま僕がこうしていられるのは、白鳥先生のおかげでもある。母さんやコハルも僕の身を案じてくれた。
 そして──自らの命を懸けてまで僕らを守ってくれた彼女の存在を、決して忘れてはならない。
 直接君に「ありがとう」を伝えることはできない。
 だけど、せめて。
 この気持ちを行動にして示したいと僕は強く思う。


 帰り道。タクシーに揺られながら、僕は母さんにあるお願いをした。

「母さん。寄りたいところがあるんだ」

 窓の外を眺めれば、暑い日差しが町中を照らしつけていた。いつの間にか外の世界は、夏になっていたようだ。

「……退院したばかりなのに、平気なの?」
「心配しないで。すぐに帰るから」

 僕の言葉に、母さんはゆっくりと頷いてくれた。

 途中花屋に寄って数輪の花を購入し、目的地へと向かった。
 僕が訪れたのは、自宅から県を跨いだところにある。母さんはタクシーで待っていると言った。
 僕は急いでタクシーから降り、菊の花を抱え、山門をくぐり抜け、目的の場所を目指す。
 ジメジメした空気が、僕の肌に容赦なくまとわりついた。おまけにセミの大合唱が耳を刺激し、ずっと病院内にいた僕にとって不快感がこの上ない。
 じわりと滲む汗を拭いながら、石畳を歩き、そして数分。やがて墓地が見えてきた。
 その中にあるひとつの墓石を見つけ、僕は歩みを止める。

【松谷家之墓】

 ここは、彼女が──アサカが眠っている場所だ。