「ここからはあたしが話す」

 コハルは母さんの肩にそっと手を置く。無言で母さんは頷いた。
 屈みながらコハルは僕をじっと見つめ、いつになく落ち着いた口調になる。

「アサカはね……あたしの一番の友だちだった。ううん、いまでもアサカは大切な友だち。サヤカちゃんの姉で、誰にでも優しい。それにとても勇敢な子なの。自分よりも他人のために行動するような女の子だった」

 コハルは、束の間声を震わせた。

「一度目の事故の日にね……あの子、ショウジとサヤカちゃんの命を優先したのよ」

 僕の胸の奥がどくんっと、低い音を鳴らした。
 全く覚えのないはずなのに、なぜだか心がざわついてしまう。
 コハルは時折言葉を詰まらせながらも、懸命に語り紡いだ。

 松谷アサカさんは、突っ込んできた軽トラックから僕とサヤカさんを守ってくれた。僕ら二人の間に立ち、盾となって。
 だが、それだけではなく──

『わたしは大丈夫です』『二人を急いで病院に連れていってください』

 駆けつけた救急隊に、彼女はそう告げたのだという。

「救急隊の人たちから聞いた話なんだけど……事故が起きた場所は道幅が狭くて、緊急車両が二台しか入れなかったそうなの。軽トラの運転手は軽症。ショウジとアサカとサヤカちゃんは重症だった。ショウジは頭から血を流していて、サヤカちゃんも意識を失っていた。そしてアサカは……もろに軽トラに突っ込まれたせいで、救急隊が駆けつけたときには、見るに耐えない姿だったらしくて。それなのに……あの子、虚ろな目をしながら救急隊の人たちにこう訴えたのよ。『わたしはもう死んじゃう。だから、二人を助けて』って。『二人を優先して救急車に乗せて。わたしなんか最後でいいから』って……」

 コハルは目を伏せた。声が震えて、上手く話せないようだ。
 コハルの隣に並び、白鳥先生は複雑な表情を浮かべる。

「アサカさんは救急が到着したとき助かる見込みがない状況でした。彼女の願いを受け入れることにはなりましたが、どちらにせよ、助かる可能性がある君とサヤカさんが優先的に病院に運ばれたのです」

 先生の話によると、アサカさんは身体のあちこちが複雑骨折をしていて、夥しい量の出血もあったという。亡くなる直前、意識があったのが不思議なくらいだ。
 救急隊員に僕たち二人を助けてと懇願するばかりで、彼女は一切自身の痛みを嘆かなかったのだという。
 白鳥先生は一呼吸置いてから、さらにこんなことを明かした──

「救急隊に必死に訴える彼女の目は、真っ白(・・・)になっていたのです。まれに奇病患者に表れる症状だ。白色の瞳は……【死】を意味するものなのです」

 アサカさんは衝撃のストレスによって奇病に罹り、余命はわずか数時間となった。
 そして、病院に運ばれる前に息を引き取ってしまったのだ。
 救いたくても救えない命がある。白鳥先生はそう呟く。その声は、これまでにないほど暗いものだった。

 話を聞いているうちに、なんだか目の奥が熱くなっていく。感情が抑えられなくなり、僕の瞳から生ぬるい涙が頬へ伝った。
 ……なんだこれ。どうして勝手に泣いてるんだよ、僕は。
 胸の奥がギュッと締めつけられて、溢れるものを止めることもできず、僕は嗚咽を漏らした。

 命を懸けてまで僕たちを守ってくれたアサカさん。自らの死を覚悟しながら、他人の命を優先してくれたアサカさん。
 どんなに怖かっただろう。どんなに悔しかっただろう。
 いつもと変わらない朝を迎えた彼女は、突然の事故によって命を落とした。まだまだやりたいことや、目指していたことがあったはずだ。死にたくなかったはずだ。
 それなのに……それなのに。

「……う、うう」

 僕の涙は、さらに溢れ出てくる。もう、止めることなんてできない。

「ア……アサ、カ……」

 掠れた声で、僕は彼女の名を呼んだ。喉がかれ、しゃがれた声しか出なかった。
 それでも僕は、何度も何度も君の名を叫ぶ。
 どうしようもないって、わかっているんだ。君はもう、この世にはいないから。
 心はこんなにも、苦しいのに。なぜ、僕は君を思い出せないんだろう。思い出したくても、全てを忘れてしまっているのだろう。僕は、なんて無情な人間なんだろう。

 しばしの間、病室内には僕の泣き声だけが響き渡っていた。