母さんは、目を伏せる。膝の上で拳を握り、その両手は微かに震えていた。
 束の間の沈黙が流れたあと、母さんは僕の目をじっと見つめた。

「ショウジ……お母さん、いままで間違っていたわ。事実を隠して、あなたの人間関係にまで口出しをして。本当にごめんなさい」

 ずいぶんと真面目な口調に、僕は戸惑ってしまう。
 母さんの横でコハルが続けた。

「ママは、ショウジを大事に思ってるの。そう思うばかりに、ちょっと神経質になっちゃったのよ……ね、ママ?」
「そうね。本当にそう。自分でも度が過ぎていたと、気づいたの。だから、やめるわ。わたしは、ショウジの生命力を信じます」

 母さんは白鳥先生の方に向かって、「お願いします」と頭を下げた。
 なんだ? 母さんはなにをお願いしているんだろう。
 先生は困惑する僕の前におもむろに立った。

「若宮くん。これから大事な話をします。落ち着いて聞いてくれるかな?」

 目を覚ましてから、数分が経った。まだほんの少しだけ頭がぼんやりしているが、話は聞ける。
 先生を見上げ、僕は小さく頷いた。

「それじゃあ、少しずつ説明しましょう。まず君は、今回二度目の交通事故に遭いました」

 え。二度目?
 ……これが、一回目じゃないのか?
 
「今回はお母さんの運転する車が単独事故を起こしました。運転していたお母さんは、衝撃によって下肢が麻痺してしまいました。自力で立つこともままなりません。ですので、リハビリが必要です」

 そんな。母さんが……。
 車椅子に乗る母さんを見て、僕は胸が痛くなる。
 だが、白鳥先生はあくまでも柔らかい口調だ。

「そして助手席に乗っていた君は頭を打ち、長い間意識を失ったままでした。そんな中で君は、奇跡を起こしてくれましたね。たったいま、目を覚ましてくれたのですから」

 少しずつリハビリをはじめ、歩けるようになれば学校生活にも戻れると先生は言ってくれた。
 いまは身動きすらできないのに、本当に歩けるようになるのかな……と不安に思うが、先生が言うのだから信じてみよう。

「無事に学校に戻れるようになったら、君はある人と出会うことに……いえ、再会することになります」

 先生の話に、僕はすぐに違和感を覚えた。
 なんでいきなり白鳥先生が僕の友だちの話をするんだろう。事故と全然関係ないじゃないか。
 僕が疑問符を浮かべるも、先生はゆっくりと話し続ける。

「ご友人の名前は、松谷サヤカさん。過去に、交通事故に遭いました。君と一緒に」

 サヤカ。……松谷サヤカさん。
 すごく聞き覚えのある名前だ。
 一緒に事故に遭ったって? そんな記憶は、ないはず。

「君たちが小学四年生のとき、登校中に軽トラックに撥ねられたのです。狭い通学路で起きた悲劇ですよ」

 淡々と話しているように見えるが、先生の瞳が一瞬揺れた。
 ……そうだ。松谷サヤカさんは、僕と同じクラスだ。よく笑う子で、たくさん話しかけてくれたっけ。

「松谷サヤカさんも君も、すぐにこの病院に搬送されました。わたしが二人に出会ったのはそのときです。二人とも、命は助かりました。ですが──」

 先生は一度、母さんの方に目配せをする。眉を落としながらも、母さんはコクリと頷いた。
 再びこちらに目線を向けると、白鳥先生はこう言った。

「事故に遭ってから、君と松谷さんは奇病に罹りました」

 奇病って。僕と、松谷サヤカさんが。
 困惑はした。でも、なんだろう。「驚き」はしなかった。僕は妙なほど、先生の話を素直に受け入れている。
 先生の話を聞いた限り、松谷サヤカさんは小学生のときから僕と知り合いだったらしい。けれど、高校で出会った記憶しかない気がするんだよな……。

「お母さんから聞きましたよ。君は今回の事故の直前、不安定な状態だったと。瞳の色も一時期、薄い水色になっていたのです。ですが」

 先生はペンライトを握りしめ、軽く僕の目を照らす。色んな角度でライトを当てて、すぐにペンライトをしまうと、微笑した。

「大丈夫です。君はまだまだ生きられます。過去の記憶は戻りませんが、奇病によって死ぬことはないのです」

 先生がそう述べると、傍らにいた母さんがすすり泣きをした。

 状況がいまいち把握できないが──先生はさらに詳しく教えてくれた。
 どうやら僕は、一度目の交通事故に遭った際、奇病に罹り、一部の記憶を失ったのだという。その場にいた友人──松谷さん──を忘れてしまったんだ。
 脳に大きなダメージを受けたことがきっかけという可能性はあるものの、明確な理由とも言いきれないと先生は語った。
 失った記憶を思い出すと、ストレスによって脳が萎縮してしまう。瞳の色が薄くなればなるほど死期が近いサインと言われている。死の直前、やがて瞳は色を失い、目が真っ白に染まると命が尽きるのだ。
 僕は今回の事故の直前に、過去を取り戻そうとして瞳の色が薄くなったのだそうだ。酷い頭痛も何度もあったが、いまはその心配もないという。

 僕の瞳の色は、紫色に戻っているから──

 先生がひと通り説明を終えると、母さんは涙を拭ってから口を開いた。

「ショウジ、ごめんね。あなたは覚えていないかもしれないけれど、わたしはこの事実をショウジに隠そうとして必死だったの」

 母さんが、僕の手を握る。その力は、あまりにも弱々しい。

「わたしは白鳥先生に、ショウジが奇病になったことは告げないでほしいとお願いしていたの。コハルにだって、あなたが小学生の頃に関わっていた友だちのことを知らないふりをしてと頼んだのよ……。あなたがいつか全てを思い出して死んでしまわないようにって」

 母さんの手が小刻みに震えた。

「だけど、そんなことする必要なんてなかった。してはいけなかった。隠せば隠すほど、あなたは過去を思い出そうとする。お母さんが間違ってたわ。ショウジに隠し事をして嘘をついて誤魔化すなんて。むしろ、そうしたことであなたを苦しめてしまったのよね……。学校に戻ったら、サヤカちゃんとも仲良くしてね」

 その言葉に、僕は目尻が熱くなる。
 いまにも感情が溢れ出しそうだ。なぜ自分がこんなに感激しているのかも、よくわからない。

「それと……」

 母さんは目を細め、柔らかい口調で続けた。

「あなたを守ってくれたお友だちに、感謝しなくちゃね。一度目の事故に遭ったとき、あなたとサヤカちゃんと、もう一人女の子がいたのよ。女の子の名前は、松谷アサカさん。ショウジのもう一人のお姉さんみたいな存在だった」

 ──松谷アサカ──

 覚えのない、名前だ。
 けれど、この名を聞いた瞬間、僕の胸がドキッとはね上がる。