僕の目の前で優しい音を奏でる君の姿が消えていく。
クラリネットの歌声も、だんだんと遠のいていった。
たったひとつ照らされていた光は、やがて闇に包まれ──
僕は、全ての思い出を心の中にしまいこんだ。
◆
「──ジ!」
意識の向こう側で、誰かの叫び声が聞こえる。
焦燥や不安、そして期待。色んな感情が入り交じったような声なんだ。
「──ョウジ、──して!」
途切れ途切れではあるものの、必死になって僕を呼んでいることだけはわかった。
たぶん……
ずっと叫んでいるのは、コハルだ。
いつも明るくてよく笑っているコハルが、こんなにも震えているなんて。
心配させちゃいけない。未だ深い眠りにつく僕は、そろそろ目覚めるべきだ。
重い瞼に力を入れ、どうにかして意識の奥底から這い上がろうとする。
さあ、起きて──
自分に強く言い聞かせ、僕は意識を取り戻した。
目の前はぼやけ、頭もぼんやりしている。見覚えのある白い天井が見えて、僕の周りにはクリーム色のカーテンが垂れ下がっていた。
よく知っている場所だな。考えるまでもない、ここは、病室だ。
「ショウジ!」
今度ははっきりと聞こえた。コハルの泣きそうな声が。
僕の顔を覗きこみ、腫れた目から涙をこぼしているのはやっぱりコハルだった。
「やっと、やっと起きてくれた……! ああ、ショウジ! ここがどこかわかる!?」
──ああ。わかるよ。僕が小学生のときに長い間入院していた病院と同じ場所だろ?
返事をしようとしたけれど、喉の奥で言葉が詰まったように出てこない。
おかしいな。
「あんた、ずっと寝てたから……もう起きないかもと思ってすごく心配したのよ!」
「……っ」
やっぱり、ひとことも返事ができない。
僕の様子を見たコハルは、さらに焦りはじめた。
「あ……ショウジ、無理しちゃダメよ! 一ヶ月ぶりに目を覚ましたんだから、きっと声も出せないくらい力がないのよ……」
え……? なんだと。『一ヶ月ぶりに』だって?
ボーッとする頭で、コハルの口から漏れたひとことを整理しようとする。意味はわかるのに、脳が理解しようとしなかった。
ひと月も、僕は眠っていたのか……?
ハッとして、自分の身体の状況を確認した。腕には点滴が刺さっていて、上半身には心電図も付けられている。下半身には管も刺さっていて──どれだけ自分が悲惨な状態だったのか、ここで初めて気づかされる。
「いま、白鳥先生を呼ぶからね……!」
白鳥先生。そっか。先生が、僕を助けてくれたのか。いつも、お世話になってばかりだな……小学生のときから、ずっとずっと。
でも──
どうして僕は、白鳥先生に世話になっているんだっけ。
なにか、重要なことが起きた気がするんだけど、思い出せないな。
ナースコールで看護師に連絡し、コハルはもう一度僕の顔をじっと見つめる。
「ママは隣の部屋にいるから、呼んでくる」
母さんが、隣の部屋にいるのか。
なんで?
と、考える間もなく、コハルが母さんを連れてきた。母さんは車椅子に乗っている。
「ショウジ……!」
僕と目が合うと母さんは口に手を当てて、見る見る顔を真っ赤にした。ハンドリムで車椅子を器用に操作して、僕の真隣にやって来た。
「ああ、よかった。よかった、本当に!」
震えながら僕の手をギュッと握りしめると、母さんは大声で泣き叫んだ。
何回も何回も「ごめんね」と言い続ける母さんの肩にそっと手を伸ばし、弱々しい力でありながら僕は背中をさすってあげた。
大丈夫。謝らないで、と言葉にすることはまだ難しいけれど、その気持ちは伝えたかった。
まだ二人の興奮が収まりきらないうちに白鳥先生も病室へやって来た。
先生は真剣な表情を浮かべながら僕の意識がはっきりしていることを確認し、そして──瞳を見つめて、柔らかく微笑んだ。
「頑張りましたね、若宮くん。よく、目覚めてくれました」
白衣のポケットに手を入れながら、白鳥先生は落ち着いた口調で喋りかけてくる。
「君は、およそ一ヶ月ぶりに目を覚ましたんですよ。なぜ病院にいるか、原因を知っていますか?」
えっと……それは。僕は、交通事故に遭ったんだよな?
発生直後の記憶は吹っ飛んでいるけど、母さんと車に乗って高速道路を走っていたところまでは覚えている。
僕はゆっくりと頷いた。
「君の生命力には感心させられます。奇跡と言ってもよいでしょう。お母さん、コハルさん。彼に、事実を伝えてもよいでしょうか?」
先生は母さんとコハルの顔を交互に見ながら、慎重に問いかけていた。
すると母さんは先生の顔を見上げながら、複雑そうな表情を浮かべる。
「……ショウジの記憶は、どこまで残っているのでしょうか」
これまでにないくらい母さんの声は沈んでいた。
白鳥先生は眉を落とす。
「今回の事故のことは息子さんは理解しています。ですが、前回の事故に関する内容はまた忘れてしまっているでしょう」
「……そうですか」
なんだろう。先生は神妙な面持ちを浮かべている。母さんも不安そうだ。
でも、コハルはきっぱりと言い放った。
「ママ。もう、誤魔化すのはやめにしよう。ショウジにまた隠し事をして、混乱させるのはよくないよ。隠したって、ショウジはきっと思い出を探しちゃう。だったら、過去になにがあったのか聞かせてあげようよ」
コハルは、なんの話をしてるんだろう……? どうしてそんなに真剣な口調をするんだ?
クラリネットの歌声も、だんだんと遠のいていった。
たったひとつ照らされていた光は、やがて闇に包まれ──
僕は、全ての思い出を心の中にしまいこんだ。
◆
「──ジ!」
意識の向こう側で、誰かの叫び声が聞こえる。
焦燥や不安、そして期待。色んな感情が入り交じったような声なんだ。
「──ョウジ、──して!」
途切れ途切れではあるものの、必死になって僕を呼んでいることだけはわかった。
たぶん……
ずっと叫んでいるのは、コハルだ。
いつも明るくてよく笑っているコハルが、こんなにも震えているなんて。
心配させちゃいけない。未だ深い眠りにつく僕は、そろそろ目覚めるべきだ。
重い瞼に力を入れ、どうにかして意識の奥底から這い上がろうとする。
さあ、起きて──
自分に強く言い聞かせ、僕は意識を取り戻した。
目の前はぼやけ、頭もぼんやりしている。見覚えのある白い天井が見えて、僕の周りにはクリーム色のカーテンが垂れ下がっていた。
よく知っている場所だな。考えるまでもない、ここは、病室だ。
「ショウジ!」
今度ははっきりと聞こえた。コハルの泣きそうな声が。
僕の顔を覗きこみ、腫れた目から涙をこぼしているのはやっぱりコハルだった。
「やっと、やっと起きてくれた……! ああ、ショウジ! ここがどこかわかる!?」
──ああ。わかるよ。僕が小学生のときに長い間入院していた病院と同じ場所だろ?
返事をしようとしたけれど、喉の奥で言葉が詰まったように出てこない。
おかしいな。
「あんた、ずっと寝てたから……もう起きないかもと思ってすごく心配したのよ!」
「……っ」
やっぱり、ひとことも返事ができない。
僕の様子を見たコハルは、さらに焦りはじめた。
「あ……ショウジ、無理しちゃダメよ! 一ヶ月ぶりに目を覚ましたんだから、きっと声も出せないくらい力がないのよ……」
え……? なんだと。『一ヶ月ぶりに』だって?
ボーッとする頭で、コハルの口から漏れたひとことを整理しようとする。意味はわかるのに、脳が理解しようとしなかった。
ひと月も、僕は眠っていたのか……?
ハッとして、自分の身体の状況を確認した。腕には点滴が刺さっていて、上半身には心電図も付けられている。下半身には管も刺さっていて──どれだけ自分が悲惨な状態だったのか、ここで初めて気づかされる。
「いま、白鳥先生を呼ぶからね……!」
白鳥先生。そっか。先生が、僕を助けてくれたのか。いつも、お世話になってばかりだな……小学生のときから、ずっとずっと。
でも──
どうして僕は、白鳥先生に世話になっているんだっけ。
なにか、重要なことが起きた気がするんだけど、思い出せないな。
ナースコールで看護師に連絡し、コハルはもう一度僕の顔をじっと見つめる。
「ママは隣の部屋にいるから、呼んでくる」
母さんが、隣の部屋にいるのか。
なんで?
と、考える間もなく、コハルが母さんを連れてきた。母さんは車椅子に乗っている。
「ショウジ……!」
僕と目が合うと母さんは口に手を当てて、見る見る顔を真っ赤にした。ハンドリムで車椅子を器用に操作して、僕の真隣にやって来た。
「ああ、よかった。よかった、本当に!」
震えながら僕の手をギュッと握りしめると、母さんは大声で泣き叫んだ。
何回も何回も「ごめんね」と言い続ける母さんの肩にそっと手を伸ばし、弱々しい力でありながら僕は背中をさすってあげた。
大丈夫。謝らないで、と言葉にすることはまだ難しいけれど、その気持ちは伝えたかった。
まだ二人の興奮が収まりきらないうちに白鳥先生も病室へやって来た。
先生は真剣な表情を浮かべながら僕の意識がはっきりしていることを確認し、そして──瞳を見つめて、柔らかく微笑んだ。
「頑張りましたね、若宮くん。よく、目覚めてくれました」
白衣のポケットに手を入れながら、白鳥先生は落ち着いた口調で喋りかけてくる。
「君は、およそ一ヶ月ぶりに目を覚ましたんですよ。なぜ病院にいるか、原因を知っていますか?」
えっと……それは。僕は、交通事故に遭ったんだよな?
発生直後の記憶は吹っ飛んでいるけど、母さんと車に乗って高速道路を走っていたところまでは覚えている。
僕はゆっくりと頷いた。
「君の生命力には感心させられます。奇跡と言ってもよいでしょう。お母さん、コハルさん。彼に、事実を伝えてもよいでしょうか?」
先生は母さんとコハルの顔を交互に見ながら、慎重に問いかけていた。
すると母さんは先生の顔を見上げながら、複雑そうな表情を浮かべる。
「……ショウジの記憶は、どこまで残っているのでしょうか」
これまでにないくらい母さんの声は沈んでいた。
白鳥先生は眉を落とす。
「今回の事故のことは息子さんは理解しています。ですが、前回の事故に関する内容はまた忘れてしまっているでしょう」
「……そうですか」
なんだろう。先生は神妙な面持ちを浮かべている。母さんも不安そうだ。
でも、コハルはきっぱりと言い放った。
「ママ。もう、誤魔化すのはやめにしよう。ショウジにまた隠し事をして、混乱させるのはよくないよ。隠したって、ショウジはきっと思い出を探しちゃう。だったら、過去になにがあったのか聞かせてあげようよ」
コハルは、なんの話をしてるんだろう……? どうしてそんなに真剣な口調をするんだ?