なんでもないように彼女が綴ったひとことは、僕にとって恐ろしいものだった。
過去を思い出したら死ぬ。
あまりにも理不尽だ。
それに、疑問も残っている。
「僕の瞳の色が、変わっていた。サヤカのように、水色になっていたんだ」
「知ってるよ。ショウくんの心が、思い出しているから」
「え……」
「言ったでしょう? 頭の中では忘れていても、心が感じてるの。サヤカのことも、わたしのことも。サヤカが教えてくれた、過去も。毎日三人で一緒に登校していたことも。わたしが練習するクラリネットの音も。ショウくんがそれを聞いてくれていたことも。わたしがコハルと一緒にお菓子作りをしたとき、ショウくんに食べてもらったことも。フレンチトーストの味も。全部心の中では忘れずに、覚えてるんだよ。だからショウくんは、心の中でそれらを思い出してたんだよ」
ドキッとした。
そんなところで……僕は知らないうちに、胸中で思い出に浸っていたというのか。
心は覚えているのに。心の中では、思い出せているのに。頭では、思い出せない。だから僕は、過去を取り戻せないでいたんだ。
アサカの話を聞く限りだと、そういうことなんだろうな。
アサカは目を細めた。
「嬉しかったよ……どんなことがあっても、ショウくんはわたしたちとの思い出を残してくれていたんだから」
「……だけど、心の中だけなんだろ? 僕自身が思い出したことに気がつかないと意味がない。アサカと交わした約束も、忘れてしまったから」
僕は自然と、『約束』という単語を口にしていた。
不思議な感覚がした。『約束を交わしたこと』を忘れていないのは、僕の心だけだ。僕自身がはっきりと「思い出した」と言えないのがどうにももどかしい。
アサカはハッとしたように、僕の顔を見た。
「……約束も、心が覚えてるんだね」
「そうみたいだ」
事故に遭う直前、いつもの通学路で僕はアサカとサヤカと会話を交わしていた。
あれは──そう、夏休みに入る直前だ。もうすぐ吹奏楽部の地区大会があると、アサカは語っていた。
その頃のアサカは毎日クラリネットを家に持ち帰り、一生懸命練習していた。家が近い僕は、アサカのクラリネットの音色をいつも聴いていたんだ。
コンクールの自由曲で、海をイメージした演奏をするんだと嬉しそうに語るアサカは、いつか本物の海を見てみたいと言っていた。それをサヤカが聞いて──
「お盆休みになったら、三人で海を見に行こうって約束したんだよな」
僕たちは、海のない街に住んでいた。三人とも本物の海を見たことがなかった。
だからアサカは、海を想像するしかなかった。海の世界を思い浮かべて、演奏しているんだと言っていた。実際の海を見れば、波を奏でたようなメロディを吹けるかもしれない──そう語っていたんだ。
「ショウくん」
アサカは小さな声で僕を呼びかける。
「ありがとう」
目に涙を浮かべながら、彼女は優しく微笑んだ。
「えっと……どうして礼を言うんだ?」
「嬉しいから。約束を思い出してくれて、すごく嬉しいの」
アサカは両手に持つクラリネットを、愛おしそうに眺める。どれほど楽器を愛でていたのか、伝わってくるほどに。
「わたし、必死に止めてたんだよ。ショウくんが、過去を取り戻すのを」
「どういうことだ?」
「この前の夢でも、言ったでしょう? 『過去を思い出さないでほしい』って」
「それは……」
あくまでも、夢は夢だ。アサカ自身の言葉じゃないはず。
「この世界は、僕の心にある記憶の表れなんだろ? だったら、この前見た夢も僕の心が作ったものなんだよな?」
「そうだよ。記憶の中から世界が創られてる」
「だったら『思い出さないでほしい』という言葉は、アサカじゃなくて僕が潜在的に思っていることなんじゃないのか」
自分でそう解釈してみるが、なんとなく矛盾しているな、と感じた。あの頃の僕は、過去を思い出したいと必死になっていたから。
「ショウくんの記憶には、わたしが伝えた言葉も、残ってるの」
「え……?」
「わたしね、事故に遭ってショウくんやサヤカと同じように、奇病に罹っちゃったんだ。全身に衝撃を受けて、そのストレスで奇病を患って……でも、すぐ死んじゃった。わたしは死ぬ前に、ショウくんとサヤカの名前を必死に叫んだ。『絶対に死なないで』って。力尽きるまで、何度も何度も口にした」
アサカの話を聞いているうちに、僕の心拍は上がっていった。
途端に、脳裏にある光景が過った。
朝陽を浴びながら三人で登校中、突然背後から軽トラックが突っ込んできた。
その瞬間、景色は変わり果てた。
アサカは頭から血を流し、虚ろな目を僕に向けていた。僕の名前を呼びながら、懸命になにかを訴えていたんだ。
──わたしは、もう、ダメ。でも、二人は、絶対に死なないで……死んじゃダメ。
息を引き取る前、たしかに、アサカはそう口にしていた。
過去を思い出したら死ぬ。
あまりにも理不尽だ。
それに、疑問も残っている。
「僕の瞳の色が、変わっていた。サヤカのように、水色になっていたんだ」
「知ってるよ。ショウくんの心が、思い出しているから」
「え……」
「言ったでしょう? 頭の中では忘れていても、心が感じてるの。サヤカのことも、わたしのことも。サヤカが教えてくれた、過去も。毎日三人で一緒に登校していたことも。わたしが練習するクラリネットの音も。ショウくんがそれを聞いてくれていたことも。わたしがコハルと一緒にお菓子作りをしたとき、ショウくんに食べてもらったことも。フレンチトーストの味も。全部心の中では忘れずに、覚えてるんだよ。だからショウくんは、心の中でそれらを思い出してたんだよ」
ドキッとした。
そんなところで……僕は知らないうちに、胸中で思い出に浸っていたというのか。
心は覚えているのに。心の中では、思い出せているのに。頭では、思い出せない。だから僕は、過去を取り戻せないでいたんだ。
アサカの話を聞く限りだと、そういうことなんだろうな。
アサカは目を細めた。
「嬉しかったよ……どんなことがあっても、ショウくんはわたしたちとの思い出を残してくれていたんだから」
「……だけど、心の中だけなんだろ? 僕自身が思い出したことに気がつかないと意味がない。アサカと交わした約束も、忘れてしまったから」
僕は自然と、『約束』という単語を口にしていた。
不思議な感覚がした。『約束を交わしたこと』を忘れていないのは、僕の心だけだ。僕自身がはっきりと「思い出した」と言えないのがどうにももどかしい。
アサカはハッとしたように、僕の顔を見た。
「……約束も、心が覚えてるんだね」
「そうみたいだ」
事故に遭う直前、いつもの通学路で僕はアサカとサヤカと会話を交わしていた。
あれは──そう、夏休みに入る直前だ。もうすぐ吹奏楽部の地区大会があると、アサカは語っていた。
その頃のアサカは毎日クラリネットを家に持ち帰り、一生懸命練習していた。家が近い僕は、アサカのクラリネットの音色をいつも聴いていたんだ。
コンクールの自由曲で、海をイメージした演奏をするんだと嬉しそうに語るアサカは、いつか本物の海を見てみたいと言っていた。それをサヤカが聞いて──
「お盆休みになったら、三人で海を見に行こうって約束したんだよな」
僕たちは、海のない街に住んでいた。三人とも本物の海を見たことがなかった。
だからアサカは、海を想像するしかなかった。海の世界を思い浮かべて、演奏しているんだと言っていた。実際の海を見れば、波を奏でたようなメロディを吹けるかもしれない──そう語っていたんだ。
「ショウくん」
アサカは小さな声で僕を呼びかける。
「ありがとう」
目に涙を浮かべながら、彼女は優しく微笑んだ。
「えっと……どうして礼を言うんだ?」
「嬉しいから。約束を思い出してくれて、すごく嬉しいの」
アサカは両手に持つクラリネットを、愛おしそうに眺める。どれほど楽器を愛でていたのか、伝わってくるほどに。
「わたし、必死に止めてたんだよ。ショウくんが、過去を取り戻すのを」
「どういうことだ?」
「この前の夢でも、言ったでしょう? 『過去を思い出さないでほしい』って」
「それは……」
あくまでも、夢は夢だ。アサカ自身の言葉じゃないはず。
「この世界は、僕の心にある記憶の表れなんだろ? だったら、この前見た夢も僕の心が作ったものなんだよな?」
「そうだよ。記憶の中から世界が創られてる」
「だったら『思い出さないでほしい』という言葉は、アサカじゃなくて僕が潜在的に思っていることなんじゃないのか」
自分でそう解釈してみるが、なんとなく矛盾しているな、と感じた。あの頃の僕は、過去を思い出したいと必死になっていたから。
「ショウくんの記憶には、わたしが伝えた言葉も、残ってるの」
「え……?」
「わたしね、事故に遭ってショウくんやサヤカと同じように、奇病に罹っちゃったんだ。全身に衝撃を受けて、そのストレスで奇病を患って……でも、すぐ死んじゃった。わたしは死ぬ前に、ショウくんとサヤカの名前を必死に叫んだ。『絶対に死なないで』って。力尽きるまで、何度も何度も口にした」
アサカの話を聞いているうちに、僕の心拍は上がっていった。
途端に、脳裏にある光景が過った。
朝陽を浴びながら三人で登校中、突然背後から軽トラックが突っ込んできた。
その瞬間、景色は変わり果てた。
アサカは頭から血を流し、虚ろな目を僕に向けていた。僕の名前を呼びながら、懸命になにかを訴えていたんだ。
──わたしは、もう、ダメ。でも、二人は、絶対に死なないで……死んじゃダメ。
息を引き取る前、たしかに、アサカはそう口にしていた。