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闇の中へ落ちていく。
目の前には、なにもない。壁も、床も、空も地面も、上も下も、なんにもない。
この世界が暑いのか、寒いのかわからない。朝なのか夜なのかさえわからない。
暗闇の世界に、ひたすら落ちて、墜ちて、おちて。時間感覚すら奪われた僕は、闇の中で彷徨っていくというのか。
否。
無に染められた世界の中、唯一存在しているものがあることに僕は気づいた。
『音』だ──
どこからともなく、聞こえてくる。あたたかみのある『音』が。それはまるで、歌っているかのよう。
美しいメロディを奏でて、暗闇の世界を色づけていく。
──ねえ。聞こえてる?
誰かの声がした。優しい、少女の声。
僕が周囲を見回すと──不意に、闇色の世界に一点の光が照らされた。
目の前に、大きな舞台のようなものが現れる。
僕は、その舞台の上にゆっくりと降り立った。
光がひとつしかない中、目をこらしてみる。すると、いくつもの客席が見えてきたんだ。
どこかのコンサート会場だろうか。客席に観客は一人もいない。舞台の上に、『僕たち』以外誰もいなかった。
僕の目の先に立ち尽くしているのは、どこかの学校の制服をまとったひとりの少女。グレーのスカートを穿いている。
彼女は、黒い楽器を大切そうに握っていて──それは、綺麗に磨かれたクラリネットだった。
「君は……?」
僕の問いかけに、少女はふと笑みをこぼした。顔はぼやけていて認識しづらいが、何度か会ったことがある相手だと、僕は少ししてから気がつく。
「以前、夢の中で君と会った。そうだよね?」
僕がそう言うと、彼女はコクリと頷いた。
一歩一歩ゆっくりとこちらに歩み寄ってきて、彼女は透き通った声でもう一度問いかけてくる。
「聞こえた? わたしの、クラリネットの歌声」
一音一音強調するように、彼女は言葉を連ねた。まるで、不安を抱いているかのように。
彼女が奏でるクラリネットの歌声は、もちろん僕の耳に届いていた。
柔らかくて、木のぬくもりが感じられる、癒しのあのメロディ。
この世界だけじゃない。以前、夢でも聞いたことがある。
彼女が吹くクラリネットの歌声は、心に残るほど美しいものだ。
「そっか。聞いてくれてたんだね、ショウくん」
そこで──彼女の微笑む顔が見えた。とても優しい眼差しを僕に向けているんだ。
けれど、彼女の瞳には、色がない。
真っ白な瞳で、僕を見ている。
もしかして。
……以前、夢で会ったのは、僕の記憶から消え去ったはずの彼女だったのか。サヤカだと勘違いしていた。どうやらそれは違うことに、僕は今さらながらに気がついた。
「……アサカだよね」
僕の言葉に、彼女は小さく頷いた。
「ショウくんは、忘れてなかったんだね」
悲しげな声でアサカはそう言う。
いや、忘れていたよ。アサカのことも、サヤカのことも。僕は君たちとの思い出を、すっかり忘れてしまっているんだ。
「ごめん。僕は、なにも覚えてないよ」
「ううん。違うよ」
「……違う?」
「あなたは、ちゃんと覚えてる。ずっと、忘れずに。私たちとの思い出を心にしまっているの」
「どういうことだ……?」
アサカの言葉に、僕は疑問符を浮かべるばかり。
「あのね」
と、アサカは僕の隣に並んだ。弾んだ声で、語り紡ぐんだ。
「ここは、ショウくんの記憶の世界なんだよ」
「は?」
「あなたの心の中にある記憶が、形になっているの。だから、わたし自身もショウくんの記憶の表れ」
「えっと……ちょっと、なに言ってるかわかんないな」
僕が困惑する横で、アサカはくすっと笑う。
「わからなくたっていい。でも、話だけは聞いてほしい」
「と言われても……」
「困ってる? ショウくん、可愛いね!」
からかわれた気分になり、僕はアサカから顔を背ける。「ごめんごめん」と軽く謝ると、アサカはさらに続けた。
「高校に入ってサヤカと再会したとき、ショウくんは『久しぶり』って言われて、覚えてるふりをしたと思ってるでしょ?」
「……思ってるって? あれは、わざとだよ」
「ううん。そうじゃない。ショウくん自身の言動だけじゃないから。心の中の記憶があったから、サヤカに『久しぶり』って返したんだよ」
ますますわからない。
たしかに僕は、サヤカに入学式の日に話しかけられて、覚えているふりをした。後戻りできなくなって、幼なじみである演技をして、密かに彼女のことを探っていた。でも、母さんもコハルもサヤカを知らないと嘘をついていたから、余計にサヤカのことが気になって。僕は思い出を甦らせたいと必死になった。
「ショウくんは頭の中にある記憶ばかり探ってたから、なにも思い出せなかったの。心に問いかければ、すぐに思い出せたのに。でも、思い出せなくてよかったと思うよ」
「よかったって……。それは、僕が奇病に罹ってるから?」
「そう。全部思い出したら死んじゃうもの」
アサカはきっぱりとそう言い放った。