僕の腕をガシッと掴み、母さんは素早く歩き出した。引っ張られる形で、僕は母さんのあとをついていく。
 マンションの駐車場を訪れ、停めてあった自家用車に乗り込み、母さんは無言でエンジンをかけた。

「本当に病院に行くつもりか?」
「当たり前でしょ!」
「予約もしてないのに」
「緊急事態なのよ! 一秒でも早く行くの!」

 母さんはアクセルを踏み、焦った様子でハンドルを回した。
 その横顔には、焦燥だけでなく、不安や苛立ちなどさまざまな感情が入り交じっているようにも見える。
 いつになく母さんの運転が荒い。ブレーキをかけるときも乱暴だった。こんなに荒れている母さんの姿を見るのは初めてだ。
 やがて車は高速に乗り、母さんはさらに加速した。

「なあ、落ちつけよ、母さん」
「落ちついてるわよ」
「この運転のどこが? 事故ったらどうするんだよ」

 僕が嫌みたらしく言うと、母さんは束の間泣きそうな顔になる。けれど、すぐに眉間にしわを寄せて強い口調になるんだ。

「あなたを、二度も交通事故に遭わせるわけにはいかない」

 重く、のし掛かるように圧のかかった言いかただ。
 上手い返しが見つからず、僕はきつく口を結ぶ。
 母さんは深く息を吐いてから、さらに続けた。

「お父さんの、二の舞になってほしくないのよ」
「……え?」
「ショウジが生まれてすぐに、お父さんが亡くなったのは知ってるでしょ?」
「ああ、母さんが教えてくれたよな?」
「そうね。ショウジには初めて話すけど……お父さんはね、奇病で亡くなったのよ」

 母さんの告白に、僕は一瞬息をするのを忘れてしまった。
 ──父さんが、奇病に罹って死んだ?
 車内には、たちまち暗い空気が流れる。

「国内で初めて奇病を患ったのが、あなたのお父さんといわれているのよ」

 突然の告白に、僕は目を見張る。
 父さんが、日本で初めて奇病に患った……?
 
「そう、だったのか?」

 前をまっすぐ見ながら、母さんは真顔で頷く。

「それは、知らなかった。まさか、父さんも僕のように事故がきっかけで奇病に罹ったのか?」
「いいえ。それは違うわ。お父さんの場合は、原因がハッキリしていなくて。でも……」

 母さんはハンドルをギュッと握りしめる。

「もしかすると、仕事のストレスが原因かもしれないって。当時のお医者さんはそう言ってた。お父さんはその頃、仕事に追われていたの。毎日朝早くに家を出て、帰ってくるのはいつも終電。泊まりがけで仕事をする日もあった。ほとんど家にはいなくて、わたしもあなたたちの子育てでいっぱいいっぱいだったの。お父さんとはすれ違いの毎日で、家の中はギスギスしてたわね……」

 母さんの手が、大きく震えている。
 当時、赤ちゃんだった僕は少しも記憶にない話だった。コハルなら、もしかするとうっすらと覚えているかもしれないけれど。
 車のスピードを落とすことなく、母さんは早口になっていく。

「お父さんはいつも疲れた顔をしていた。ある日、仕事に行く前に頭が痛いと言い出して。本当に辛そうな顔をしてたのをいまもはっきり覚えてる。頭痛を訴えてから数時間後に、お父さんは気絶しちゃったの。呼び掛けても反応がなくて、目を覚ましてくれなくなった……。わたし、すごく焦っちゃって。急いで救急車を呼んだわ。搬送先の病院で検査をしたら、脳が萎縮していることがわかって。そこで、奇病と診断されたの。脳がダメージを受けていて、このままじゃ、半年も持たないと言われたの」
「……半年? 嘘だろ」

 僕は、背筋が凍るような感覚に陥る。

「嘘だって思いたかったわよ。でも、お父さんはずいぶん前から奇病に罹っていた可能性もあったらしくて。激しい頭痛が何度もあったはずなのに、よくここまで我慢できましたね、と先生に言われたの……たしかにお父さんは毎日疲れた顔をしていたけど、奇病に罹ってたなんて。わたし、夢にも思わなかった」

 母さんの横顔は、これまでにないほど暗い。
 日本で初めて奇病を患ったのが、本当に父さんだったのだとしたら──いま以上に未知なる病だったに違いない。診断される前に気づくのなんて、ほぼ不可能だろう。

「余命半年だなんて、あまりにもひどすぎる。お父さんが一番悔しくて怖い思いをしたと思う……、わたしはなんにもしてあげられなかった。どうしようもなかった……。だから、ショウジには絶対に死んでほしくないのよ……!」

 母さんは大粒の涙を流し、叫ぶように声を上げた。
 ──その刹那。
 ハンドルを握る母さんの手元が、大きく滑ったように見えた。と同時に車が大きくカーブする。その先には、高速道路の遮音壁。
 車は行き場を失い、横転した。
 とんでもない衝撃音が耳の奥を攻撃してくる。頭を強く殴られたような激痛が走り、車外の景色がスローモーションのようにぐるぐると回った。
 僕の体は車と共に大きく回転し、全身が思いきり叩きつけられた。

 なんなんだろう。どうなってるんだ──?

 全身に電流のようなものが走った気がした。僕は一瞬にして身動きが取れなくなる。
 かろうじて、目は見える。すぐ横を見ると──母さんが、目を閉じて眠っていた。頭からは、おびただしい量の血が。

 ……あれ? この光景。なんだか数年前にも、経験したような。

 僕の周りも、どす黒い血で染まっていた。生ぬるい液体が口の中へと侵入し、鉄の味が舌に広がっていく。

 ああ、そうか。わかったぞ。
 僕はまた、事故に遭ったんだ……

 そう理解した瞬間。僕の意識は、あっという間に遠いどこかへ吹き飛んでしまった。