あまり表情を変えない岸沼くんの顔が歪んだ。眼鏡の向こう側で涙をためている。
 数日前、彼は語っていた。身内が奇病によって亡くなったと。それは、彼の弟のことだったのか。

「弟はボクと違って、明るくてやんちゃで、友だちが多かった。大した取り柄もないボクのことを『勉強ができる自慢の兄貴』とか言って、よく宿題を手伝わされたよ。小さい頃から甘え上手でさ。ホント、鬱陶しかったな……」 

 言葉とは裏腹に、弟のことを語る岸沼くんの声は柔らかい。

「弟が奇病に罹ったのは、小六のときだ。自転車に乗っていて、バイクとぶつかってさ。ボクは中二で、塾へ向かってる途中だった。親から弟が事故に遭ったと連絡をもらって、すぐに病院に駆けつけたよ。弟は体のあちこちに怪我をしていて、頭も強く打ったみたいで、気を失ってた。数時間後には目覚めたんだけどさ、弟は、ボクを見るなりこう言ったんだ……『お兄さん、誰?』ってさ」

 自嘲気味に岸沼くんは声を漏らす。
 切ない。切なすぎて、どう言葉をかけていいのか僕はわからなかった。

「最初はふざけてるのかと思ったよ。だけど弟は戸惑った顔をしてた。事故に遭ったことも忘れてて……。お医者さんが事情を説明すると、弟はいちいち驚くんだ。それを見てボクは確信するしかなかった。本当にあいつは……ボクのことを、忘れちゃったんだなって。お医者さん曰く、事故のショックによって奇病に罹ったんだって。それで、一部の記憶がなくなったんだって。そう説明された」

 ──事故などによって記憶を失うという話は、時折耳にする。それは現実ではなく、ドラマや小説の世界で起こる話で、身近に思うことはなかった。
 けれど岸沼くんは、そんなフィクションのような過去を経験しているんだ。事実として起こり得ることなのかと、僕は恐ろしくなった。
 岸沼くんは沈んだ声で、さらに続ける。

「事故後、弟にはもうひとつ変わったことがあった。【目の色】が変わっていたんだ」

 岸沼くんは僕の目をもう一度見つめる。

「弟の目は、綺麗な紫色(・・)になっていたんだ。事故前は濃いブラウンの瞳だったのに。お医者さんから教えてもらったんだけど、ごく少数ではあるものの、奇病に罹ると目の色素が薄くなったり濃くなったりするらしい。薄くなればなるほど、死に近づく。けれど、紫色など濃い色を保っていれば、命に関わることはない。その代わり、一部の記憶はなくしたままになるみたいだけどね」

 話を聞いているうち──僕は、嫌な予感がした。
 目の色が薄くなると、死に近づく。白鳥先生も、コハルも、母さんも、やたらと僕の瞳の色が変わったことを気にしていた。
 まさか……そういうことなのか?

 眉を落としながら、岸沼くんはこう続けるんだ。

「ボクは当時、奇病のことなんかなんにも知らなかった。バカなボクは、毎日弟に思い出話をしたんだよ。ボクを忘れたままでいてほしくないから。すると……数ヶ月経って、弟に変化が表れた。『兄ちゃんのこと、ちょっとずつ思い出してきた』って」

 語り紡ぐ岸沼くんの表情が、一瞬だけ柔らかくなった。

「ボクは嬉しかったよ。弟が『兄ちゃんは運動はできないけど、勉強ができるからよく教えてくれた』って話してくれてさ。二人で過ごした日々のことも、弟から口にするようになった。ボクは弟に記憶を取り戻してほしいがために、もっと思い出話をするようになった。そうしてるうちに……弟の瞳の色も変わっていった」

 そこで、岸沼くんの表情が曇る。声まで低くなっていった。

「気づいたら青色になっていて、それからすぐに水色になった。その頃に、お医者さんに、弟は突然余命宣告されたんだ。『あなたはあと一年しか生きられません』って。なんの冗談かと思ったよ。ドラマでしか聞いたことない台詞じゃないか。弟はすごく元気なのに、一年しか生きられないなんて信じられなかった。でも──宣告通り、弟は一年三ヶ月後に死んだ。眠るように、安らかな顔をして。ベッドの上で冷たくなった。弟が死んでからボクは、知ったんだ。国内で、弟と似たような症状で亡くなった人がいたことを。その人も忘れた思い出を取り戻して、そして亡くなった。早く知っていれば、ボクは弟に過去の話なんてしなかったのに……」

 下唇を噛み、岸沼くんは眉の間にしわを刻んだ。笑みを無理やり作っているようだが、悲痛の表情にしか見えない。
 
「ごめんね、若宮くん。ボク、どうしても君たちの事情が気になって仕方がなかったんだよ。君の目を見て、最初に気づいた。君は……『君たち』は、奇病に罹ってるんじゃないかって」

 岸沼くんの決定的な言葉を聞いて、僕は息を呑んだ。
 僕たち(・・・)が、奇病を患ってる……。そんな。やはりそうなのか……?
 体がぶるぶると震えはじめた。悲しい現実が、これから僕たちを待ち受けているんだと気づいてしまったからなのか。
 僕は首を大きく横に振った。必死に、否定しようとしていた。

 岸沼くんの弟と、僕たちの瞳の色は同じだ。発症のきっかけも、症状も、よく似ている。
 だとすれば、奇病に罹っているのは僕だけじゃない。
 ──サヤカも、同じなんだ。海色の瞳を持つ彼女も、奇病患者なんだ。

「なあ岸沼くん。僕たちは、どうすればいいんだ? どうしたら、過去を忘れられるんだ!?」
「わからないんだよ」
「わからないって! さんざん僕たちのことを調べていたのに! 奇病についても調べてたんだろ! なにも解決策がないのか!?」
「解決策? そんなものがあるんなら、ボクの弟は死ななかった。奇病は解明されていないことが多すぎる。治す方法があるんなら、いままで奇病を患った人たちだって死ななかったはずだよ。でも、みんな死んでいく。治療法がないから。なんにも、わからないんだよ!」

 あまり感情的にならない岸沼くんが、顔を真っ赤して声を荒げた。

 どうすれば……どうすればいいんだ。僕だけならまだしも。本当にサヤカも奇病に患っていたとしたら。
 過去を全て覚えている彼女は、もしかしたら僕よりも死が近いのかもしれない。
 いつも明るくて笑顔のサヤカが、奇病に罹っているなんて信じられない。
 僕も、このままだと若くして死ぬかもしれない。
 そんなの、到底受け入れられない。

「ボクだって、知りたいんだ。君たちが助かる方法を……。どんなに調べても、わからないんだ。役に立てなくてごめんね、若宮くん」

 岸沼くんの目は、悔しさに溢れていた。
 彼を責めるなんて、どうかしてる。そんなことしても無駄だ。
 岸沼くんが、一番悔しい想いをしているんだ。もしかすると、自身を責めているのかもしれない。弟に過去を思い出させなければよかったと。

 どうにもできない状況に陥ってしまった。僕はこれから、奇病に悩み、怯え、苦しみ、思い出と引き換えに、死を待つしかないのか。

 ふと窓ガラスに映る自分の顔を見た。
 僕の瞳は、青空に溶け込むような色をしていた。