今日は、普段とは違う道のりで登校することになる。薬のおかげで落ち着いたし、早めに出よう。
 残りのフレンチトーストを平らげ、食器類を片し、部屋を軽く整理してからアパートを後にした。
 あとでコハルに礼のメッセージでも送っておこう。

 アパートは駅から近い。いつもよりだいぶ早い時間に電車に乗りこんだ。自宅とは反対方面からの登校で、なんだか新鮮だ。
 電車に揺られながら、ふとスマートフォンを確認すると──母親からのメッセージが届いていた。着信も数件入ってる。 
 我が母親ながらしつこいな、と呆れ返った。

《昨晩はコハルの家に泊まったんでしょう? 今日は家に帰ってきてね》

 メッセージには、そう書かれていた。
 本当はまだ母と顔も合わせたくないのだが……でも、言いたいことがある。
 母さんは僕が奇病によって死ぬのを恐れている。だから、サヤカとの関係を遠ざけようとしたんだと思う。
 だいたいの事情は把握できた。僕が過去を思い出さなければいいわけだ。これからは記憶を辿ることはしない。サヤカとは、高校からの新たな友人として関わっていく。
 だから母さんには、僕の人間関係について今後は一切口出ししないでくれと伝えるつもりだ。

 学校へ到着したのは、八時前だった。校庭で朝練をする運動部のかけ声や、吹奏楽部が個々に練習する音が音楽室から聞こえてくる。
 ユウトはきっと、両手にスティックを握って練習しているんだろうな。
 その音を背中で感じながら、僕は一年三組の教室へ向かった。クラスに着くと、ほぼ誰もいなかった。サヤカの姿も、まだない。
 そのうちサヤカも登校してくるだろうが、僕は普段どおり接することができるだろうか。彼女は、アサカが亡くなった話を僕にしていない。けれど、僕はコハルから聞いてしまった。
 彼女の口から語られない限り、僕は知らないふりをした方がいいんだと思う。だから、なるべく意識しないようにしよう。

 教室の窓側にある自分の席に、とりあえず着く。朝早くだと、クラス内がこんなにも静かだなんて僕は初めて知った。
 それに──ちょっとした後悔もあった。先客が一人いたんだ。一番乗りで登校したであろうクラスメイトは、今日も黒縁眼鏡を光らせる岸沼くんだったんだ。
 座りながら、なにやらタブレット端末を眺めている。
 他に誰もいない教室内に、二人きり。なんか、気まずい。
 僕はそっと席に着く。とほぼ同時に、岸沼くんと視線がぶつかってしまった。

「若宮くん。ずいぶん早いね」
「あ、まあ。岸沼くんこそ、いつもこんなに早いのか?」
「そうだよ」

 淡々と答えると、岸沼くんはガタッと立ち上がった。タブレットを持ったまま、僕のそばに歩いてきて、真横で立ち止まる。
 うわ……なんでこんな至近距離に来んの?
 岸沼くんは無言で、僕の顔を覗き込んでくる。思わず僕は身を引いたが、岸沼くんは目を離してくれない。
 眼鏡の縁を指先で摘まむと、首を傾げた。

「昨日、なにがあったの?」
「……は?」
「まさか、思い出したのかい? 思い出したんだよね?」

 思い出したって……? なにをいきなり。サヤカたちのことか。そんなはずないだろ。
 僕は大きく首を横に振った。

「あのさ、岸沼くん。彼女たちのことは、思い出さないことにしたから、もういいんだ」
「えっ。なに言ってるの、若宮くん」
「事情を知ってる人たちに、色々と教えてもらった。僕の身になにが起きているのか。詳しい話はできないけど……とにかく、僕が過去を思い出すとよくないらしいんだ。だから、やめるよ。サヤカのことを探るのも、記憶を取り戻そうとするのも。僕は、高校生になってからの彼女だけを見るって決めたから」

 僕がそう言うも、岸沼くんは僕の顔を見たまま微動だにしない。
 どうしたんだよ、調査員さん。ショックを受けたのか?

「岸沼くんは、興味本位で僕らのことを調べていたんだよな? いまだから言わせてもらうけど……ちょっと迷惑って思っていたから、それはやめてほしいんだ」

 ここまでしっかりと伝えれば、岸沼くんだってわかってくれるはず。
 でも──そう上手くはいかないみたいだ。

「若宮くん。もう遅いと思うよ」
「なにが?」
「だって、君……目の色がいつもより薄くなってる」
「ああ。つい最近変わったんだよ。青色に」
「青色? いや、どちらかというと水色(・・)に見えるよ」
「……え?」

 水色? そんなこと、ないはずだけど。光の反射で、印象が変わってるだけか?
 でも──なんだか気になる。岸沼くんのリアクションが。なぜか唇を小さく震わせて、怯えたような表情になっている。

「……若宮くん。これ以上はまずいよ」
「え?」
「だって君。過去を思い出してるじゃないか」

 岸沼くんが言い放った言葉に僕は唖然とした。

「思い出してる? なにを根拠に言ってるんだよ」

 思わず強い口調になってしまった。
 こんな僕に呆れたように、岸沼くんはため息を吐く。

「……ボクさ、徹底的に調べてるんだよ。寝る間も惜しんで、君たちのことを。君は、おそらく死に向かっている。その水色の瞳が、なによりの証拠だよ」

 背筋がぞわっとした。僕が死に向かっているだと。
 ふざけるのはやめてくれ。

「瞳の色が変わると、なんでよくないんだ……?」
「瞳の色が薄くなればなるほど、死期に近づくんだ。大切な記憶を取り戻す代わりに、死ぬんだよ。それが奇病(・・)の怖いところだ」

 岸沼くんの声は小さい。けれど、僕たち以外誰もいない教室は静かすぎるあまり、僕の耳には彼の言葉がひとつひとつちゃんと届いてしまう。
 耳を塞いだって、無駄だった。

「ちょっと待ってくれ……瞳の色が薄くなると死ぬのか? ていうか、岸沼くん、なんで奇病のことをっ?」

 言ってない。僕は彼に、一切奇病のことを伝えてないはずだ。
 それなのに、岸沼くんはまるで僕が奇病に罹っていることを知ったような口ぶりだ。
 岸沼くんはここで初めて目を逸らした。うつむき加減になり、弱々しい声で呟く。

「ボクの弟も、君と同じだった」
「……え?」
「大切な思い出をなくして、弟は必死に思い出そうとしてた。そのうち、全部を思い出して。瞳が紫から青になり、そして水色になった。最期を迎えるとき、瞳は真っ白に染まって……弟は死んだんだ」