僕がコハルのアパートに着いたのは、六時半頃。コハルは不在だった。
 仕方なくメッセージを送る。どうやら今日は大学で吹奏楽部の練習があるらしい。終わるまで僕はアパートの前で待つことにした。
 その間、母さんから何度も連絡が来ていたが無視を貫く。コハルのアパート前にいると正直に伝えたら確実に連れ戻されてしまう。

 アパート前でぼんやりしていると──さっきサヤカから聞いた内容が頭をよぎる。
 思い出を語る彼女の口からは、何度もアサカの名前が出てきた。毎朝一緒に登校して、サヤカだけじゃなく僕のことも面倒を見てくれて、さらには僕が初めて好きになった相手(らしい)。
 事故のショックと奇病が原因で一部の記憶を失った可能性があるとサヤカは言っていたが、正直なところ僕は半信半疑だった。サヤカから話を聞いていたときは受け入れようと思っていた。
 けれど、あまりにも現実味がない。冷静になったいまは、とくにそう思う。

 僕が奇病を患っている? そんなのありえないよ。

 もし事実だとしたら、どうして僕自身が自分の抱える病気を知らないんだって話になる。
 記憶を失っているから、というのは理由にならない。普通、医者や家族から教えてもらえるはずだ。
 定期的に白鳥先生に診てもらっているが、奇病に関する診察ではないはず。僕は、幼い頃体が弱かったから。治療してだいぶよくなった。けれど、不定期にやってくる頭痛はなかなか治らないから、通院し続けているんだ。
 
 サヤカを信用していないわけじゃない。彼女が嘘をついているようには見えないし、嘘をつく意味もない。
 複雑な事情が絡んでいて、サヤカは事実以外のことも言ってしまったのではないか? 途中で思い出を話すのをやめてしまったし。
『約束』ってなんのことだろう。目の色が変わるとどうなるのだろう。
 この他にも気になることや腑に落ちないことが山ほどあるが、サヤカは僕の死を恐れてあれ以上は教えてくれないのだろう。
 だから、コハルから聞き出すしかない。今日は何分、何十分、何時間でもコハルを待ち続けてやる。

 いまいち自分が奇病に罹っている実感がない僕は、とにかく事実を知るために必死になっていた。


 ──コハルがアパートに帰ってきたのは、八時過ぎだった。
 僕が退院し、すっかり元気になったことをコハルは喜んでいた。
 待ちくたびれた僕は、まともな返事なんてできない。
 
「ずいぶん帰りが遅いんだな。吹奏楽の練習、大変なのか?」
「まあね。夏のコンクールに向けて必死なのよ。ていうかうち来るならもっと早めに連絡してよね」

 文句を垂れながらも、コハルは僕を部屋に入れてくれる。対面式キッチンに立ち、料理の準備を始めた。

「テキトーにパスタでも作ろっか?」
「ああ。僕も手伝う」
「いいよ、あんた、待ちくたびれて死にそうな顔してるし。食べ終わったあと食器洗いしてくれるならいまは休んでていいよ」
「じゃあそうする」

 僕はヘトヘトの足を休ませるためソファに腰かけた。
 鍋に水を入れ、火に掛けるコハルは、手を動かしながらこんなことを問いかけてきた。

「ショウジ。ママとなんかあったでしょ?」
「……え」
「ママから連絡あったんだけど。ショウジそっちに来てない?って。電話くらい出てあげなさいよ」
「……」

 うつむき加減になり、僕は口を噤んだ。
 呆れるようにコハルはため息を吐く。

「まったく。高校生にもなって、反抗期?」

 違う。そんなんじゃない。これは、母さんが悪いんだ。僕に嘘をついた母さんが……。
 必死に言い訳を探す自分自身に反吐が出る。
 バカだよな、僕は。
 ──母さんは、僕を心配しているのに。
 それは、わかっている。わかっているけれど。僕の中で整理がつかない。受け入れたくないんだ。サヤカから聞いた話を。
 僕が、奇病だなんて。信じたくないんだ。

「なあ。コハル」

 問いかけるしかない。この不安を解消するために、コハルからの返事が「ノー」であってほしいと思いながら。

「……僕は、本当に奇病なのか?」

 驚くほど、声が震えた。

「サヤカから聞いたんだ。僕が奇病なんだって。小四のとき事故に遭って、それがきっかけで奇病に罹ったことも、そのせいで一部の記憶がなくなったことも。……だけど正直、どこまで本当なのかわからない。受け入れられない自分がいる」

 自分の意思ではなく、まるで勝手に口が動いているように、まとまりのない話しかたになってしまった。
 パスタを作る手を一度止め、コハルはなんともいえない表情を浮かべて相づちを打った。

 僕がひと通り喋り終えたあと、コハルは小さく呟いた。

「なんで、サヤカちゃん……ショウジに話しちゃったのよ……」

 コハルの悔しそうな顔を見て、僕は現実を突きつけられた気分になった。
 まさか、サヤカから聞いた話は本当なのか。